第二十八話

 私がアロエ荘を出発して約一時間半。時刻は午前九時二十二分。

 出勤時刻まで残り約八分。

 丁度、会社近くのカフェで朝食を済ませ、出社するところである。


 小好君には「まだ安静にしてるように」と言われたけど、食欲があり、熱も下がったので問題はない。体も軽く、頭のほうもスッキリ。倒れる以前より元気いっぱい。

 それに一日でも早く会社に行く理由が私にはある。

 小好君の言付けを破ってでも、会社に向かう大切な理由だ。


 今頃アロエ荘では、パニックが起きているかもしれない。

 特に管理人の小好君は焦りに焦っているはず。

 それは本当に申し訳ない思う。後で謝るつもりだ。


「よし! 頑張りますよ、私」


 私は飲み終わったコーヒーカップを置き、両手で顔をパチパチと叩いて気合いを入れる。

 それから会計を済ませ、少し重い足で会社へ。

 会社までは歩いて数分。出勤時刻には余裕で間に合う。

 周りにはよく見る顔ぶれが、疲れた表情で私と同じ方向を歩いている。

 まだ問題は解決してないらしい。それどころか悪化してそうだ。


「ひ、日高先輩!」

虹野にじの、おはようございます」


 いきなり話しかけてきたのは、教育している後輩の虹野。

 元気だけで生きているような女の子でとても可愛らしい。

 上司受けが良く、男性の先輩から特に好かれているので、私と違って扱いは甘々である。


「日高先輩、休んでいましたけど大丈夫でしたか?」

「はい、大丈夫です。体調を崩していただけですから」

「そっかぁ~。それは良かったです。本当に心配してたんですよ!」


 虹野はホッとした表情を見せ、「はい、これお茶です」とコンビニの袋から取り出し渡してきた。断るのも何なので有難くいただき、隙間だらけの鞄にサッと入れる。


 見ての通り虹野は良い子。

 コミュニケーション能力が高く、他人の心配ができ、差し入れだって出来る。

 社会人にとって必要な能力は、既に持ち合わせている。

 発注ミスは、新人ゆえのミスであり、事の重大さを理解していた虹野は何度も頭を下げ、謝罪を繰り返していた。


 だからといって、そのミスが許されるかは別問題なのかもしれないが、会社側としては優秀で愛想が良く、元気で可愛い新人を失いたくはなかったに違いない。

 その結果、教育担当だった私に全責任がいったというわけだ。


「虹野、私が休んでいる間、仕事のほうはどうでしたか?」

「超忙しくてですね、みんなゲッソリ状態になっちゃいましたよ」

「なるほど」


 私はそんな酷い現状を聞き、思わず頬が緩む。


「どうかしましたか? 自分、可笑しなこと言いましたか?」

「いえ、何でもないですよ」

「は、はぁ、そうですか」


 虹野は不思議そうにしていたが、それ以上は何も言ってこなかった。

 私にほとんどの仕事を任せていたこともあり、会社はかなり混乱していたらしい。

 特にあの上司は痛い目を見たはずだ。

 発注ミスの問題もあるが、私に押し付けていた仕事が進まなくなったのだから。

 それはそれは焦りに焦り、慌て頭を抱えたことだろう。想像するだけで気分がいい。


 内心笑いが止まらない中、目の前に大きなビルが現れる。会社に到着だ。

 私と虹野はタイムカードを押し、仕事場である五階へエレベーターで上がる。


「虹野は発注以外の仕事をしているんですよね?」

「そうです。あのミスからは発注以外の仕事ばかりで……。最近はそのー、なんか自分だけが別の仕事をしてると浮いてる感じがして辛いです」


 珍しく暗い表情で「はぁ……」と重々しいため息をつく。

 今の虹野は、発注ミスした分を取り返した気持ちでいっぱい。

 でも、会社側はこれ以上のミスを起こされるのは勘弁だ。


 落ち着くまで優秀ではある虹野に発注以外の仕事をさせるのは自然と言える。

 それに教育担当である私が不在だったのだから、他の仕事を教える時間もなかったはずだ。


「あの件を気にすることはないですよとは言いませんが、今は目の前の仕事を一生懸命やることが大切です。虹野はまだ新人。これからゆっくりと学んでいけばいいんですよ」

「そ、そうですよね! 自分、頑張ります!」


 虹野は太陽のような笑みを浮かべ、両手を胸の前で握り、やる気満々という感じ。

 ポジティブで聞き分けが良い性格なので切り替えが早い。

 こちらとしては、とても扱いやすい性格だ。

 虹野の性格なら、この先、何があろうとも、乗り越えていけるに違いない。


 ――ポンピィーン!


 聞きなれた音が鳴り響き、エレベーターが停止。ゆっくり扉が開く。


「では、日高先輩! 今日も一日頑張りましょうね!」

「……」


 私は無言で頷き、遠くなる虹野の背中を見つめながら足を進める。

 自分の席に到着。静かに鞄を置き、先ほど虹野に貰ったお茶を一口。


「おい、日高。何勝手に休んでんだ?」

「すみません。その件に関しては、課長とお話するつもりです」

「そうか。課長も頭に来てたぞ? もちろん俺様も。分かってんだろうな?」

「は、はい……」

「まぁいい。早く話して俺様の仕事をしろ。このガキが」


 いきなり近寄ってきたパワハラ上司は私に圧をかけ、舌打ちをして去って行った。

 その姿を見送り、私は上がった肩を下ろして「ふぅ……」と長めに息を吐く。

 久しぶりの圧力に鼓動は激しく動き、冷や汗と手汗、震えが止まらない。


 精神、身体ともに限界が来ていることは、この症状から一目瞭然。

 今までよく耐えていたと自分を褒めてあげたい。

 そんな苦痛とも、今日で……『おさらば』だ。


「……大丈夫。大丈夫ですよ。私なら大丈夫……」


 小声でそう自分に言い聞かせ、鞄から一枚の紙を取り出した。

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