第二十七話
「まだ完治してないのに、何で会社に行ったんだよ……」
僕は一人、日高さんに文句を呟きながら、管理人室で真っ黒なスーツに着替えていた。
実は午前十時頃に
タブレット代を海に聞いたところ二十万でいいとのこと。
それを東雲さんに伝えると文句一つ言わず、値下げ交渉もしてくることなく、すんなりと受け入れ、東雲さんのスケージュールに合わせて会う日が決まった。
その日がよりにもよって、こんな大変な日と重なってしまうとは……。
日高さんは心配だが、東雲さんの件をドタキャンするわけにはいかない。
「どうしたものか……」
力ない声音で言葉を口にし、ネクタイを結び、ジャケットのボタンを留める。
スマホのロック画面には八時三十四分の文字が映し出され、LIMEの通知が一件。
日高さんのSOSかもしれないと思い、慌ててスマホを手に取り、LIMEを開く。
「チッ、公式アカウントかよ」
思わず舌打ちがこぼれ、眉間にしわが寄る。
今思えば、僕は住人の誰ともLIMEを交換してない。
タブレットで全員と連絡は可能。
そのため、わざわざ自分のLIMEを交換する発想がなかった。
今になって交換しとけば良かったと後悔が僕を襲うが、交換してないものは仕方がない。
頭を振ってその気持ちを振り払う。
「よしっと」
東雲さんとの待ち合わせ時間まで、まだ一時間以上の猶予がある。
この間に日高さんの会社に行き、日高さんを救い出したい。
パワハラ上司がいる会社に数日間も行かなかったのだ。
日高さんが言ってた上司に暴言を吐かれ、暴力を振るわれるのは目に見えてる。
それを見て見ぬふりをしていられるほど、僕は最低な人間ではない。
いや、そんな人間ではいたくない。
もう何も出来ない自分は嫌なのだ。日高さんが倒れた時にそう思った。
それに管理人の仕事内容には『アロエ荘の住人の保護』がある。
つまり、アロエ荘の住人である日高さんを守ることは、管理人である僕の仕事だ。
「僕が……僕が守らないと!」
気合いを入れたところで、日高さんの会社の場所が分からないとどうも出来ない。
完全に気持ちだけが先へ先へと走ってしまっている。
「あっ! 海なら!」
日高さんとは大学の友達。就職先を知っていてもおかしくない。
期待を膨らませ、すぐさま海に電話をかけるが……
『おかけになった電話は、現在電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』
「クソっ、海の奴ふざけんな。何でこんな時に繋がらねぇーんだよ!」
電話は諦め、とりあえずLIMEでメッセージだけ送信。
いつでもアロエ荘を出れる状態で、玄関前の廊下を行ったり来たりと速足でウロウロする。
だが、数分経っても状況に進展はない。時間が刻々と過ぎていくだけ。
今いる住人を頼ることも頭に過ったが、無駄だと判断した。
天音はあの性格である。日高さんのことなんて知る由もないはずだ。
星坂さんのほうは、かなり重症な男性恐怖症。
僕が話しかけたところで、また冷たい目を向けられ、暴力で拒絶するに違いない。
そういう結論に至り、現在完全に詰んでる状態。
海のほうも既読になる気配すらない。
「クっ……クソがぁっ!」
焦りと自分の無力さに嫌気が差し、壁を震える拳で殴り、食いしばった歯の隙間から空気が抜ける音と共に声が漏れる。
「えんちょー?」
「あぁん?」
間抜けな声が聞こえ、ゆっくり振り返る。そこにはいつも通りパンイチのミラがいた。
強く当たってしまったこともあり、ミラの顔からすぅーっと笑顔が消える。
それを見た瞬間、反射的にマズいと察し、咄嗟に作った笑顔で口を開く。
「わ、悪い、今ちょっと立て込んでいてな。別にミラが嫌いであんな態度を取ったわけじゃないんだ。本当にごめんな」
僕が身振り手振りでそう伝えると、ミラは「びっくりしただケ。大丈夫」と答え、表情をパッと切り替え言葉を吐く。
「えんちょー、あのネ――」
「用があるなら夜にしてくれ。ミラは寝る時間だろ?」
ミラの言葉を強引に遮り、そのまま続けてミラに返事させる隙も与えず「おやすみ」と一言。
視線を逸らし、LIMEの通知を確認する。
今はミラに構ってる暇はない。現在の状況でミラの存在が一番厄介だ。
いつものように引っ付かれ、強引に遊ぶように持って行かれては溜まったものじゃない。
日高さんどころか、東雲さんの件すら行くのが厳しくなる。
「えんちょー、急用なノ! 大事なこト!」
「……」
背中をツンツンし、いつもの調子で喋ってくるミラ。
それを僕は必死に無視。反応してしまえば、さっきのゴリ押しが無駄になる。
ミラの急用なんて大事なわけがない。面倒なこと決まってる。
僕を巻き込むような何かしか有り得ない。それはここに来てしっかり学んだ。
「ねぇ、えんちょー! えんちょーこっち向いテ!」
無視だ無視。無視するんだ、僕。
「お願いだから、ヤーの話を聞いテ!」
本当にお願いだから寝てくれ! いつもなら部屋で寝てる時間だろ!
はぁ……そろそろ良心が痛む。
しつこいのは前々から知ってたが、まさかここまでとは予想外だ。
「ちょっトえんちょー聞いテッ! もぉーえんちょーってバ!」
「だから! 何か用があるなら、夜に……」
僕は無視することを耐え切れず、突き放すような強めな口調でそう言いながら、眉間にしわを寄せて振り向く。
このような言い方をすれば、あのミラでも今日は無理だと感じ、渋々諦めると思った。
しかし、振り返った先にいたミラの表情を一目し、僕は顔の力が抜け、言葉を失った。
「えんちょーやっとこっち向いてくれタ」
ミラは充血した潤んだ瞳で僕を見上げ、手に持った紙をフリフリと揺らす。
僕の口からまだ言葉が出ない。初めて見るミラの表情に戸惑いを隠せないのだ。
そんな僕を上目遣いで見つめつつ、ミラは口をゆっくり開く。
「ヤーからえんちょーニ、これプレゼント!」
ミラは僕の体に当てるように紙を突き出してくる。
体に当てられてしまったら、こちらとしては受け取らざるを得ない。
「えっと……これは?」
僕は力ない声音でミラに問いかける。
見た感じ何かの地図だ。これ見て「何か食べ物を買って来い」ということか。
「ノゾミンの会社の位置とその行き方だヨ!」
「は⁉」
衝撃的な言葉に自然と言葉がこぼれ、僕の口は塞がらないまま顔は停止する。
当然だ。ミラには日高さんについて何も話してない。
それどころか、あのミラが何かを用意して渡すなど衝撃以外の何ものでもない。
数日間、一番近くでミラを見て接してきた僕からしたら信じられないこと。
夢、もしくは人が変わったと疑いたくなるぐらいだ。
「何か不満でもあっタ?」
「いや、それはないがどうして――」
「早く行かないト、ノゾミンが壊れちゃうヨ?」
そんなのは言われなくれも分かっている。だから、僕はずっと焦っているのだ。
なのに、ミラの不思議な行動が気になって仕方ない。
何がどうなり、この行動が出来たのか。知りたくてモヤモヤする。
って、僕はバカか。違うだろ。そんなことは今はどうだっていい。
今優先すべきは日高さんを救出。
それ以外に脳を動かしてる暇なんて僕にはない。
「ああ、わざわざ地図ありがとな。じゃあ」
僕は軽く笑みを浮かべ、欠伸をするミラにサッと手を振り、アロエ荘を後にした。
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