6570日の想い

波平

第1話 思い出の部屋

「いや、案内はいいよ、わかってるから」


コンシェルジュの笑顔を制して背を向けた。

何度も泊ってるんだよ、ここは定宿だったんだから。

心の中で呟きながらエレベーターへと向かう。

何人かのスタッフとすれ違う。


▲のボタンを押して

ここで2度目のアルコール消毒。 


エレベーターが降りてきた。ドアが静かに開く。

せっかちに close を押してしまう。悪い癖だ。

ずらっと並ぶボタンの最上部のプレートにカードキーをかざす。

㊿のボタンが点灯。3年ぶりのアサインはアップグレードだった。


静かな廊下を歩く。絨毯の毛足を感じながら部屋番号を目で追う。


5011か?カードキーをドアノブの横にかざす。

オレンジのインジケーターがグリーンに

「カチッ」小さな音がやけに大きく感じた。


重いドアを開ける。見慣れた部屋だ。

あの頃といっしょだな。

そう呟いてカードキーをデスクに滑らせる。

ネクタイもそのままに窓際に。

カーテンを開ける。

高さ160mから見る街並みがおもちゃのようだ。


「夜景、きれいでしょうね?」


彼女の口癖を思い出す。


両手をガラスについてまるで子どものように街を眺めていたな。


「見たいなぁ、でも無理かぁ・・・」


そんなセリフを思い出す。

ここは2人で過ごした思い出のシティホテル。



オレ達はネットで知り合ったカップルだった。

オレが40歳、彼女は33歳の秋だった。

当時、流行り始めていた出会い系サイト。


チャットとメールで会話が始まる。

心に大きな穴が空いていた2人。

お互いが文字だけで惹かれた。


付き合い始めた時にこんな話をした。


「オレ達いつまでこうして居られるかな?」


「私が40歳になったら別れようかな?

 おばあさんになる前、きれいなうちに」


「7年後かぁ?でもそんなに続くかな?」


オレは彼女のセリフに失笑した。

あの時はそんなに持つかな?と思った。


予想だにしなかった不倫。

18年、日にちにして6570日

こんなに関係が続くなんて

思いもよらなかった。


月日は流れた。

オレは55歳、彼女は48歳となった。


あの日、ある港に停泊していた豪華客船から

起こった感染症。瞬く間に日本で蔓延した。


社会が自粛ムードの中。

出会った頃のようにメールで会話する毎日。

ガラケーがスマホになってもフリーメールが

2人をつなぐ手段だった。


このまま会えないのかな?

どうなるんだろう?


そんな話からオレたちは

2人の終活を相談するようになった。


オレは会わずにこのままお別れしたかった。

別離のダメージが少しでも減るだろう。

軽く考えていたが現実は違った。


辛く切ないメールの応酬。

涙で読めない、返信ができない夜。

強がりと身体を壊すほどの苦しみの中

2人は文字で「さようなら」を交わした。


あれから4年オレの生活は何の変化もない。

寂しさや悲しさもあの日のままだった。


2人が過ごした時間が懐かしくて訪れた。

この街に今も彼女は住んでいる。

ひょっとしたらバッタリ会ったりして。

いや、本心は会いたいのだ。

会えるかも?と思って来た。


オットマンに足を投げ出したまま

膨大な数のメールを読み返す。

いつしか窓の外は茜色に染まっていた。

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