ひとの国のお前へ、天使の国のあなたへ

天使 幸

あなた

雲のいとまから、私はいつだってあなたを見ていた。


主の栄光——全てのものを等しく照らす愛の光にあなたはいつだって背を向けて、自分の愛した人が、あなたではない誰かの手によって救われていく様を、一つの恨みも抱かずに見つめていた。

腕を差し伸べようとした私に、主は「憐んではいけない」と仰られた。あの男の手は血に塗れている。それでも私は、遠くを見るような目つきで空を仰いでは、悲しそうに息を吐くあなたにどうしても報われて欲しくて、笑って欲しくて、その目を盗んでは、あなたの額にキスをした。あなたに少しでも、清福が訪れるように。

私は、あなたが、屈託なく笑う人だということを知っていて、またその目尻の皺が何よりも好きだった。なのに自らの背に十字架を刻みつけ、自らの罪を忘れまいとするあなたの後ろ姿は、ゴルゴタの丘を一人で登った落とし子のそれとよく似ていて、だから、私は。


あなたが愛する人を守るために、残酷な世界に押し潰されないために捨てたすべてのもの——血と、肉と、心とを拾い集めて、自身の肉体と、魂とを作り上げた。人魚姫が、人間の脚を手にいれるのと引き換えに声を失ったように、天使は人間になるのと引き換えに、天使であった頃の一切の記憶を失う。

なのにあなたは、私に気付いてくれた。その額に触れたやわらかな感触と「あなたに幸福が訪れますように」と囁く声を、覚えていてくれた。だからこそ、あなたは私にすべてを告解してくれたのでしょう。自らが踏み躙ったもの、取りこぼしたもの、誰にも語れなかった、そのすべてを。あなたに赦しを与えられるほど、あなたを救えるほど、その頃の私は強くもなければ、美しくもなかったというのに。


あなた。私を許してくれますか。私はどこまでも自分勝手で、ひとりよがりのエゴイストだった。果たして私はあなたを幸福にできたのか、却ってあなたを責め苛んだのではないかと考えては、あなたの名前を縋るように呼ぶ。あなたの前に跪き、あなたの指先に追い縋って涙をこぼす瞬間だけ、私は明白に許されていると感じる。あなたの体が骨まで焼き付くされ、私の目にあなたの姿が映らなくなってもなお、それは変わらなかった。

夜毎、私はあなたの気配を感じる。あなたは私の癖のある髪を撫で、或いは胎児のように身を縮こませて眠る私の体を抱きしめ、夜が開けるまで、そばにいてくれる。ひとで居続けるにはあまりにも脆く、自らの故郷、天使の国へと舞い戻るにはあまりにも臆病な私が、夜の闇に唆され、馬鹿なことをしでかさないように。


いつか、あなたが私のために落としくれた涙を辿って、私はあなたの元に舞い戻る。そのとき、あなたが私の体を抱きとめてくれたら、私は誰より幸福だろう。

あなた。私の基督。誰よりも罪深く、それでいて誰よりも清い人。

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