第四章:騒がしい毎日

第41話

 空がまだ東雲色しののめいろである頃から、意識はすっかりと覚醒してしまった。


 この時間にはいつも日課であるランニングに出るのだが、何故か妙な気怠さがずしりと重く身体に伸しかかる。


 なんだか嫌な予感がして仕方がない……。一颯はのそりと起き上がった。


 嫌な予感の正体については、まったく予測できないわけじゃない。


 むしろ予測できてしまうからこそ、どうか外れてほしいと心から切に祈ってすらいる。


 もっとも、祈りが天に届くことはきっとなかろう。



「……とりあえず、コーヒーでも飲むか」



 一颯はのそのそとキッチンへと向かった。


 コーヒーの苦みがすっかり眠気を吹き飛ばし、気怠さも幾分か解消されたところで、さて。一颯はちらりと、時計を見やった。


 時刻はもう少しで午前六時になろうとしている。


 朝食の準備をするにはちょうどよい時間帯だろう、何せこれからたくさん作る必要があるのだ。



「……なぁんで俺は、こんなことしてるのかねぇ本当に」



 用意した五人分・・・の朝食を前に、一颯は自嘲気味に小さく笑った。


 むろんそれらすべて食すわけではない。


 いくら食べる方だからといっても、さすがに朝っぱらから五人分も食すなど、切羽詰まった状況でもない限りまずやらない。


 なんだかんだと時計を見やれば、もうすぐ七時になろうとしていた。


 そろそろ来る頃合いだろう。バラバラの来訪でないだけまだマシで、だがわざわざウチにくる道理はないはずなのだが……。胸中で愚痴をもそりとこぼしたのと、それはほぼ同時。


 朝早くであるにも関わらず、来訪者が来たことを告げるチャイムが室内に反響した。



「あー……はいはい。わかってますよっと」



 こんな時間に来る客などもはや彼女らぐらいなものだ。


 逆にそうでなかったら、それはそれで物珍しくはあるし驚きでもある。


 先日、予期せぬ来訪者があったが、あれが来ることは恐らく二度とあるまい。



「――、おっはよーいぶきちゃん!」



 玄関を開けた矢先、いつになく明るい笑みが特徴的な“エルトルージェ・ヴォーダン”が立っていた。


 この娘が落ち込んでいる姿は基本目にしたことがない。


 現実リアルでも仮想Vtuberでも、人懐っこく陽気な人柄が最高にして最強の魅力といっても過言ではあるまい。



「……おはよう、エルちゃん。相変わらず早いな……」


「うん! だっていぶきちゃんのご飯いっつも楽しみにしてるんだもん」


「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけどな? ほぼ毎回食べにくる必要はないんだぞ?」


「え~でもでも、ご飯は誰かと一緒に食べたほうがおいしいよ?」


「いや、それはそうかもしれないんだけど……」



 きょとんと不可思議そうな顔をするエルトルージェに、一颯はうんうんと唸った。


 かつてであれば朝食は自分だけだったし、用意するのももちろん一人分だけで事足りた。


 しかしここ最近はどうか。当初はたまにという頻度だったのに、今となってはほぼ毎回三期生と共にしている。


 であれば当然、出費が増すのは自明の理だ。


 昔だったらこんなことはならなかったのに……。一颯は胸中で深い溜息を吐いた。


 もっとも、出費の理由は決して悪いものではないし、むしろ有意義であると言えよう。


 割に合うかはこの際捨て置き、喜ぶ姿が見られるのであれば立派な報酬だ。


 だが本音を吐露するならばやはり、もう少しだけ頻度を控えてほしい。


 それが一颯の切実たる願いで、ならば何故面と向かって言わないのか? 事情を把握してない者からすれば真っ先にこの疑問を抱くであろう。


 まったくもってそのとおりだ。一颯も重々理解している。


 にも関わらず未だ実行できていないのは、彼女らあっさりと手を引くとは到底思えないから。



「……馬の耳に念仏って、正にこのことだよなきっと」


「え? いぶきちゃん何か言った?」


「いや、何も言ってないよ。ただ、まぁこれが俺の日常なんだろうなって思っただけ」



 一颯は苦笑いを返した。


 普通の人間であれば、まず徹底して日常を脅かす存在を排除する。


 この思考については、一颯も特に異を唱えるつもりは毛頭ない。


 立場が逆であったならば恐らく、自分もそうしていたに違いないだろうから。


 しかし三期生はすべてを受け入れた上で、以前となんら変わらない関係で接してきた。



「ねぇねぇ、それより朝ごはん食べようよ! もう私お腹ぺこぺこで……えへへ」


「……そうだな。とりあえず他の三人もどうせ後からくるだろうし、先に食べててくれていいぞ」


「わ~い! あ、そうだいぶきちゃん! 今日の朝ごはんにナポーーー」


「リタンはないぞ。生憎と材料切れだ」


「えぇぇぇぇ!? ナポリタンないの!?」


「……朝っぱらからナポリタンを作る俺の身にもなってくれないか?」



 これからもきっと彼女は――否、彼女達はちょっとやそっとのことで退くことはないだろう。


 ナポリタンがないと分かった途端、あからさまに落胆するエルトルージェに、一颯は小さく口角を緩めた。



「――、おはよぉいぶきん~。今日もゴチになるねぇ」


「――、おっはよーいぶきん!」


「――、おはよう一颯。って相変わらずアンタは早いわねエル……」



 そうこうしている内に、残る三期生もやってきた。


 だから、何故わざわざ俺の家で食べる必要があるんだ……? 一颯はすこぶる本気で悩んだ。


 食事のこともむろんそうだが、彼女達はいい加減独身男性・・・・の家に転がり込んでいることを自覚した方がいいのではないか。


 もちろん大切な同期にして、今や知らない人間はほぼいないアイドルに手を出すつもりは毛頭ない。


 あくまでも彼女達との関係性は先輩と後輩、強いて言うなら頼れる友人のようなもの。


 そして何よりも一颯自身が、この関係性が崩壊することを恐れていた。職場恋愛は危険がいっぱいなのだ。


 とは言え、全員が男として認識していない可能性も十分に高いが……。一颯ははたと鏡に映る己を見やった。


 男なのに、お世辞にも男としての要素が皆無である自分がすぐそこにいる。


 何の因果か、これならばいっそのこと女性として生まれてくればよかったのに……と、そう思わなくもない。


 しかし母に産んでもらったこの五体を蔑ろにする気は一颯には微塵もない。


 ありのままの自分を受け入れる。


 だが、男として見られていないのだとすれば、それはそれで悩みどころでもあった。


 それはさておき。



「……本当によくウチに食べにくるよな」


「でも、そう言ってる割にはちゃんと用意してくれてるじゃない」


「それは、まぁ……なぁ」



 察してしまえる自分が今は憎らしい。一颯は頬を掻いた。



「そんなのいぶきんのご飯がおいしいからだよぉ」


「右に同じくー」


「まぁ、そうね」


「……この際だからもう少し練習した方がいんじゃないのか?」



 四人からの返答は一切なく、代わりに全員がきれいにそろって明後日の方角をぷいと向いた。


 要するに料理はできる限りしたくないとのことらしい。


 それじゃあ上達なぞするはずもなし、しかしかつての悪夢が再臨することは一颯にとっても脅威と言う他ない。


 上達するまでの間に果たして、いったいいくつの生物兵器、という名の料理を処理することになろう。


 考えるだけで背筋に冷たいものがゾッと流れた。



「ねぇねぇ~みんなも揃ったことだから早く食べようよ~! もう私、お腹ぺこぺこすぎて限界だよぉ……」



 今か今か、と食事にありつくのを待つ姿は本当に犬のように愛くるしい。


 だらしなく背もたれにもたれるエルトルージェに誰しもが苦笑いを浮かべる中、一颯は「どうぞ」と、一言だけ簡潔に促した。


 次の瞬間、ようやく餌にありつけると一匹……もとい、エルトルージェが嬉々とした表情かおを浮かべた。


 ぱっと花を咲かせた姿は実にかわいらしい。あるはずのない犬耳と尻尾……の幻覚も今や、ピンと立って嬉しさを表現している。



「それじゃあ、いっただきまーす!」


「慌てないでゆっくりと食べてくれよ?」


「ねぇいぶきんいぶきん、今日はナポリタ――」


「ンはないから諦めてくれ」


「え~ないのぉ? 僕いつも楽しみにしてるのになぁ」


「……じゃあ教えるから自分で――」


「それはいいやぁ」


「こいつ……」



 どこまでも自分で作るつもりは更々ないらしい。


 他にも料理はあるのに何故こうもナポリタンが人気なのか。その理由を知り得ない一颯ははて、と小首をひねった。



「――、そう言えば」



 食事も終盤に差し掛かろうとした頃。不意に、かすみが口を切った。



「今日アンタ、事務所で収録の予定よね?」


「ん? あぁ。今日は確か、二期生の人達とだったかな」



 一颯は意識を過去へとさかのぼらせた。


 二期生とは今日、はじめて面識を果たす。


 よくよく思えば今日に至るまでよく一度も対面する機会がなかったものだ。


 これまでずっと三期生との絡みがメインだっただけに、それ以外のVtuberとの邂逅にはそれなりに緊張している。


 とにもかくにも、今日の収録では二期生の“朱纏しゅてんあかね”と“釛塚こがねづかななみ”で出会う。



「鬼に四尾の天狐てんこか……なんだろう、妙に親近感が湧くというか」


「まぁ、いぶきんはリアルで鬼を斬ってるわけだもんね」


「言っておくけど一颯、先輩らを斬っちゃだめよ?」


「かすみよ……俺をいったいなんだと思ってるんだ?」


「冗談よ。でも本当にすごい先輩だから、きっとアンタもいい経験になると思うわ」


「……まぁ、逢うのが少しだけ楽しみだな」



 そう言うと、一颯はわずかに頬を緩めた。



「まぁまぁ、アタシもいるから大丈夫だって」


「そうそう。りんねちゃんは幻想神楽げんそうかぐらの一員だもんね」


「幻想神楽? なんだそれ」



 聞き慣れない言葉だ。一颯ははて、と小首をひねった。



「あ、そっかいぶきちゃんは知らなかったんだね。私達は一期生、二期生って分かれてるけど、その中でも所属した時期関係なくユニットもあるの。例えば幻想神楽は、ファンタジーをコンセプトにしたキャラクターデザインのVtuberで構成されてるし、ゲーム実況がメインだとゲームマスターズっていうユニットなんかもあるんだよ!」


「へぇ、そんなのがあるのか……」



 まだまだ知らないことが多い。エルトルージェの説明に、一颯は強い関心を示した。



「鬼に天狐に武者……これは今日の収録が本当に楽しみになってきたな」


「一颯ももしかしたら、何かしらのユニットに入れられるかもしれないわよ?」


「ユニットねぇ……」



 自身の配信スタイルは、言ってしまえば完全に雑食系だ。


 よって一括りにするのはいささか難しく、ならば幻想神楽のようにキャラクターコンセプトとして括られる可能性はなきにしもあらず。


 その内本当に秘密結社ドリーマーが出来上がる日がくるやもしれぬ。


 総帥となる人物Vtuberは、はてさて誰になることやら。



「――、とりあえず今日は先輩達との顔合わせと収録に集中するか」


「がんばってねぇいぶきん~」


「応援してるからねいぶきちゃん!」


「ありがとうな」



 一颯は小さく笑みを返した。

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