毎日三分間の読書時間

真槻梓

すべての公園にこたつを設置しなさい。

買い物帰りの廊下ほど、無防備なものはない。


玄関のドアの前で買い物袋を置き、買い物袋から落下したパンを足でどかしてから、ポケットからカギを取り出す。

左開きのドアを、右利きの立夏が開けるとき、自然廊下とドアの間に障害物がなくなる。

その隙に、知らない男がすっ、と立夏の部屋に入って行った。


あっけに取られる立夏をよそに、男は部屋の中を進んで行く。

ドアに手をかけたまま、何もできない立夏は黙ってそれを見ていた。


男は居室に入るなり、おっ、と小さい感激の声を上げ、こたつを見た。

それは、立夏が社会人になって一人暮らしを始めてから買った、なんの変哲もないこたつだ。男は電源が入っているのを確認するなり、そこに足をつっこむ。


「ドア閉めてくれない? ずっと玄関が開きっぱなしだと寒いんだけど」


なんてことないように、男が言う。その態度に驚いて、立夏はその言葉に従ってしまった。習慣的に、玄関のドアを閉める。これがどれほどの愚策だったか!


「あの、どなたですか、知り合いなら申し訳ないのですけれど、本当に覚えていなくて」

「知り合いではないな。そこの電気会社に安月給で働いてるだけの人間だよ。電気料金の使用状況的に、こたつがあるんじゃないかとずっと思ってたんだけど、来てみたらドンピシャ。やっぱあるところにはあるんですねぇ」

「それでうちに無断で入ってくる理屈がわからないんですけれど……」

「だから、富の再分配ですよ。知識は開かれているべきだから、無料の図書館があるんでしょ? あんたは今、真っ白でアイロンのかかったブラウスを着ているけど、ほら、俺はぼろきれみたいな作業着だ。うちにはこたつなんてぜいたく品はないぜ、だって買う金がないもん。だったらさ、持っている人間から拝借するのは当然だと思いますけど」


筋道立てて話している風を装っているが、決してそんなことはないと立夏は気付いた。

別に再分配せよ! というのがこの世界の第一ではないし、それに平等になり得ないことだってある。

この男のことは知らないが、今日こうして一人暮らしできているのは、立夏の努力あっての成果だ。


「紅茶とかないの? こういうおウチにはあるもんだと思うんだけど……あるじゃん、ルピシアねぇ、さすが持ってる人は持ってんだなぁ」


ポケットから携帯電話を取り出した。警察を呼ばなければならない。


「ちょっとあんた、警察なんて呼んだらダメだよ、ちゃんと平等になったら出て行くって」

「いえ、呼びます。もし今日あなたが言う通り帰ったとしても、また来ないという保証はないですから」

「そんなことないよ、だって毎日図書館に行く人はいないでしょ、たまに行くだけで」

「そしたらまた来るって理屈じゃない。それに、これもひとつの再分配であるはずですよ」


言った途端に、男の表情が険しく曇った。そしてこたつから足を抜いて、こちらにつかつかを寄って来る。

立夏は、急に寒風に吹かれたような、ひやりとした命の感覚を感じた。

男の身長は立夏より数センチ高い程度だが、その体は少しばかりたくましく、不意をつかれなくても簡単に倒されてしまうのは目に見えていた。


「理屈がわかんねぇよ、それはよ」

「いいえ、あなたの理屈が通るなら、私の理屈も通ります。私はあなたに暴力では勝てません。それはもしかしたら努力もあるかもしれませんが、当然性別という生まれもあるでしょう。だから、暴力は再分配されるべきです」


男は黙っている。

立夏の携帯電話には一一〇が光っており、それはひとつの抑止力となっている。

抑止力も、暴力だ。男は立夏に通報の抑止を図り、立夏は男に暴力の抑止を図っている。

分が悪いのは立夏のほうであるが、方策としてこれ以上の手はない。

男の冷やかな視線を受けて、立夏は言葉を続けた。


「だから、もしあなたが再分配などと言う幻想をいったん捨てて、この場から立ち去るならば、私は警察に通報することを止めます。それは、私があなたの言う荒唐無稽な再分配理論を信じないからです。これは交渉です。今すぐ立ち去ってください」


男はその場に立ったまま、立夏を凝視している。やがてため息をひとつ吐くと、立夏の横を通って玄関に進んだ。


「警察は呼ぶなよ、呼んだら、交渉決裂だからな」

「安心してください、私もそんな愚は犯しません」


玄関から、男の影が消えた。

立夏はその場にたたずんだまま、細い息を吐いた。

こんな異常事態を平然と過ごせるだけの気力はなかった。

立夏は、携帯電話を手に取って、コールを鳴らす。その間に玄関のカギを閉め、久方ぶりのチェーンをした。事件ですか、事故ですか。というアナウンスに従って、立夏は警察に話をつける。


なんてことはない。富は再分配されない。

立夏は引っ越し先を考えながら、携帯電話をポケットに入れた。

持っている人は持っていると言うそのお金は、安心を買うために消費される。引っ越し会社は特急料金で。


それにしても止まらない震えだけは、分配も消費もできなかった。

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