第十九話 物語として
深夜一時を過ぎた玄関の扉には鍵がかかっていなかった。冷たい取っ手を握り私は精いっぱいの力でそれを引いた。
中は暗く、明かりは一つもなかった。しんと静まり返り、他の部屋に住む者たちの声も聞こえない。いや、深夜だから当たり前と言えばそうなのかもしれないが。
廊下を歩く時の、いつもは気にかけもしない、きしむ音が今は耳障りだ。自分が、正体と形容すべき何かに近づいていくことに、高揚を覚える。それ以外の余計な一切は雑音でしかない。
リビングへと通じる扉の曇りガラスは、夜を反射して妖しい青白い光を放っている。待つべきものはこの先にある、そう確信して手をかけた。
これがきっと最後の扉になるだろう。たぶん最後に引き返すことができる分岐点があるのだとしたらここだ。少なくとも自ら扉を開けない限りにおいては、私は人間として越えてはいけない一線を跨がずにいることができる。
けれど、同時に理解していることがある。ここで私が踵を返す行為は、一時的な逃避でしかなく、世界は必ず私を追い立てると。きっと彼らは私を一人にはしてくれない。日向へと引きずり出す行為ではなく、日陰の中で私を消すために奔走する。知っている、世界にとって許容しがたい異物は、世界そのものに、誰に知られることもなく喰い殺されると。私が日向でのフツウを望んでも、それは世界にとっての普通じゃないから、私はただの異常者として拒絶されるんだ。
だから、この手に力が入る。一指一指の斑紋が最後の扉を越えるための力を籠める。
一つ瞬きをした。私は自らが望む結末を視ることができる。
刹那的に息を止め、一息で扉を引いた。
そこは薄明りに包まれた、見慣れたはずの部屋。レース生地のカーテンが揺れ、夜が向こうから覗いている。その先にはテーブルとソファ。ダイニングも見え、木製の家具が置かれている。
一人だけ、姿を見せている男がいた。
勧修寺がソファに座り、悠々と煙草をくゆらせている。私が来たことなど気にも留めていないように、こちらを振り向こうとしない。固められたオールバックの後ろ髪だけが見えている。
家にあるはずのない灰皿に、勧修寺は煙草を置きながら、長い溜息を一つした。
「よく来たね」
通話越しに聞こえた、静かでもどこか威厳に満ちた声だった。
私は答えることなく立ち尽くしてその表情を探ろうとした。どんな顔をしているのだろうか。不敵に笑っている? それとも怒りに震えて我慢をしている? どちらにせよ、しわは増えていそうだ。
「まあ、座りたまえよ。最後の交渉と行こうじゃないか」
「随分、余裕があるんですね」
「余裕じゃない、手続きだ。そういう諸々をきちんとこなすことが大切だからね」
ようやくこちらを振り向いた。存外に影が多く、浮かべられた感情は判別しがたい。
「さ、そこが空いている。顔を突き合わせて最後の話し合いをしようじゃないか」
本気なのか、彼は手を広げて誘導した。
「なんのつもりですか?」
「残念だね。君はもう少し物分かりがいいと思っていたんだけど」
「やすやすと従うわけないでしょう」
「警戒心が高いのは結構だが、罠に嵌めるほど外道であるつもりもないよ。どちらにせよ、私たちは無防備な君を力で制圧することは許可されていないからね」
まあいい、と勧修寺は背を向けた。
「柏木くんが言っていたことは、少し的外れだったようだ。それでも彼女に免じて最低限の礼節は必要だと思っていたんだけどねえ」
「アレがなんだって言うんです?」
「アレ呼ばわりか。残念だ」
「裏切者でしょう。まあ、どちらにせよ感謝はしています。ようやく覚悟を決められるわけですから」
「君にとってはね。でも、一つだけ話をしてあげようか」
勧修寺は背もたれに体重を預けた。ゆったりとした様子で、語り始める。
「最後まで、どうにか君を保護する方向でいこうとしていたのは柏木くんだけだった。君のことを意外と普通の女の子と言っていたよ。周りは反対していたがね。とはいえ、現場で君をずっと見ていたのは彼女だ。だから、私もそれに従ってみることにした。まあ結果は交渉決裂となったわけだが。それは別にいい。問題はそのあとだ。君はマンションで僕らと再会し、それから柏木くんの部屋に行っただろう? 正直に言うとね、そこが一番可能性が高く、また、最後の砦だった。結局ね、無慈悲なやり方が一番効果的なんだ。だから、本当はあの場面で君を撃ち殺すつもりだったんだけど、残念ながら、どこの誰ともわからない輩に邪魔をされた。その前のマンションの一室での件もそうだけど、君は悪運がかなり強いみたいだね。ほんと羨ましいよ。まあ、それで全部の博打を大外ししたわけだけど、それでも無理矢理君をどうにかしなくちゃいけなかった。そこで君の前に立ったのが柏木くんってわけだ。僕はできれば取りたい手段じゃなかったんだけどね、彼女も意気込んでいたし、何より君は混乱していた。あの場面は柏木くんが活躍するのにもちょうどよかったんだよ。でも、なんて言うんだろうね。こればかりは悪運とも思えないんだ。そう、例えば柏木くんが君を助けてしまった、とかね」
勧修寺の語りに意味はないだろう。決戦前の戦士が自分を奮い立たせるために行うおまじない。悪く言えば無駄なあがきをしているだけだ。
それを七星燐という女は見破っていたのか、それとも素がそういう性格だったのかはいまだに判別しがたい。ともかくあの女は無遠慮に言い放った。
「それで?」
意味はなくとも、少しくらいあの女が人間であることを勧修寺もまた信じていた。けれど、そんなものはもう通用しなくなっていた。
「なんでもいいですけど、懐柔でもするつもりでしたか? なら、それこそ残念なことです。私はもう、ぜんぶどうでもいいんですよ。むしろ、よくわかりましたから、もう消えてください」
女はゆっくりと、しかし、確かな悪意に満ちて、勧修寺に近寄った。
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