第十八話 閑話

「リン、聞こえる? おかあさんよ」


 携帯から聞こえてくる声は確かに母親のものだった。


「なに?」


「いまどこにいるの?」


「知らないの?」


「からかわないでちょうだい」


「からかってないよ。そっちこそいまどこなの?」


「お家よ。もう遅いでしょう。怒らないから帰ってきなさい」


 家、家か……。


 私にもうそんなものはない。初めからあるべきではなかったことを、たった今悟ったばかりだ。


 この電話の向こうで話しているのが誰であるかという事実はもうどうでもよかった。私が死っている人を利用しているとも思わない。ただ単純に、嬉しかった。


 誘っているつもりだろう。わかりやすい罠にかけて、ほとんど捨て身の正面切っての戦いを彼らも私に挑むしかなくなったということだ。一度始めてしまえば、きっと途中で終わらせることを彼らは許さない。だから、無理矢理にでも私を引きずり出したい。


 同時に、私がこれほど簡単なわかりやすい罠に引っかかってくれることは折り込み済みなのだ。


 自分でも理解している。だから、嬉しいのだ。ようやく、なにを考えるでもなく、自分がしたいと思ったことのために動けるときが来たんだと。


 思えば、私はずっと我慢をしてきた。私は私のフツウが普通じゃないから、私は彼らにとってトクベツでいるしかなかった。自由に視ることは許されず、ただ制限の中でどうにか従ってきた。


 それが人間だと多くは言うだろう。特別な力をもってしまっても、あなたが人間であることに変わりはないのだから、人間として生きるだけの道を模索するべきだと説くだろう。でも、それは果たして私にとって正しいのか?


 私は自分のすべてが基準になる。当たり前だ。一番最初に知り、最後まで融通が利くのは自分自身でしかないからだ。私はまず何より私のことを優先する、そんなのは当たり前のことでしょう?


 でも、人間たちは同時にこんなことも話す。


 あなたはたくさんいる人間の一人として、社会の一員である行動を取るべきであり、規範や道徳に従うべきだと。きっと正しいのでしょうね。でも、私にはその正しさの理解が難しい。もっと言えば言葉の表面を撫でることはできるけれど、決して私のものにはならない。私にそんな基準は当てはまらない。


 拒んでいるわけじゃない。生きようと思えばそういうふうにだって生きられる。でも、もうたくさんだ。


 そうやって生きていたって、私には本当の私のための席なんて用意されていないんだ。だからこうして何かのタイミングで私の下へ不幸はやって来る。さんざん我慢だってしてきたのに、彼らはその努力を認めることもなく、私を排除しようとする。


 わかってる、私は異物だって。異質で危ないものだって。私の眼は確かにそういうモノだ。でも、ね、私はそれなしじゃもう生きていけないのよ。だって、これに制限をかけることは、常に両手両足を縛られているようなもの。これを失うのは、四肢を切断するに等しい。私にとってこの眼はそういうなくてはならないものだ。だから、誰かに奪わせたりなんてしない。私は誰かに縛られたくもない。私はただ、私が求めるフツウの暮らしをしたいだけ。だから、私の願望を阻むものはすべて排除する。たったいま、そう決めたんだ。


「どこに行けばいいですか」


 私は電話口で母親を名乗る人物に聞いた。


 一瞬、ためらうような声がしてから、返答がなされた。


「家に帰ってらっしゃい。待ってるわ」


 通話そこで切られた。私は未友が持っていた携帯を取り出し、両手に一つずつ持って眺めてから、未友のほうから放り投げた。闇夜に乾いた音が反響する。次に自分のものを投げ捨てる。同じく乾いた音がして、静寂は取り戻された。


 こうして私は何もかもを捨てていくのだろう。きっともう二度と捨てたものは取り返すことができない。けれど、それでいい。この世界に、私が手にするべきものはきっとない。だから、今ある最低限のものだけを抱えてしまえばいい。


 公園の出入り口を見やる。そこには知らない間に一人の女性が立っていた。彼女は入り口付近で立ったまま入ってこようとしない。


 ためらっているわけではないようだった。私は彼女を見つめてから、その脇を目指した。


 通り過ぎる。誰でもよかった。


「すべてを終えても、得るものは何もないと思わないか?」


 背後でそんな声がした。


「いいんです。どうせなにもなかったんですから」


「本当にそう思うか?」


「はい、この眼意外にはなにも」


「そう考えることしかできないのなら仕方ないな」


「なにが言いたいんです?」


 妙に濁す言い方が、癪に障った。振り返り、彼女を見る。背中を向けていた。目線は少し上に向いているような気がする。


「ちょっとした話だ。誰だってそう信じたいというような」


「言ってる意味が――」


「解釈は好きにしろ。私は少しお前が気にかかっているだけだ。やることがあるんだろ?」


「――――あなたには、関係ないでしょう」


 私は再度前を向いた。





「この場合、哀しい、というのが適切なのか。まあ、なんでもいい。確かに居場所はないだろうな。だが、苦痛だよきっとそれは」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る