第十二話 復讐譚序章

 マンションのロビーを抜けて外に出ると、当たり前だがそこにはいつもの日常風景が広がっていた。陽はすっかり落ち切り、もう夜になっている。スクールコートを着ているとはいえ、冬の夜はむき出しの頬に冷たく当たる。


「燐?」


 聞き覚えのある声に振り向くと未友が立っていた。街灯に照らされた顔は何やら深刻そうな顔をしている。


「どうしたの? こんな時間に」


「心配、だったから……。さっき別れたときも、なんていうか、折れちゃいそうだったし」


 未友はふらふらとした足取りでこちらへやって来る。


「よかった、無事だったんだ……」


「なになに? 急に」


 私の腰に腕を回してくる。未友の体温を感じる。思いのほか冷たい。


「もしかしてずっと外にいた?」


「うん」


「どうして? まあ、入ってこない方がよかったと思うけど」


「最初は入ろうと思ったんだけど、なんだかすごく危なそうな格好をしている人たちを見ちゃって。それで心配だったんだけど、入っていくのも怖かったし」


「危なそうな格好の人って?」


「銃を、持ってた」


 思い当たる。さっきの彼女たちだろう。未友らしい賢明な判断だ。


 ただ、なんとなく彼女たちが未友に乱暴をするようにも思えなかった。


「なにもされてないんだよね、燐」


「うん、そもそも私は見てないし」


 ちょっとだけ嘘をつくことにした。話して、未友を巻き込みたくなかったから。できることなら今も早く別れてしまいたい。こんなふうに私を心配してくれるのは嬉しいけれど、私には時間がない。すべてを思い出してしまったからには、未友とも訣別する必要がある。


「ごめん、心配してくれるのは嬉しいけど、私行かなくちゃいけないから」


 そう言って未友の手を解いた。彼女は当然、不思議そうに私を見つめる。


「こんな夜中に?」


「そう、今すぐやらなくちゃいけないことがあるから」


「そんなに大事なことなの?」


「まあ、ね」


 敢えて言葉を濁すことにした。でも、未友は友達思いだから、次に言うことも予想がついた。


「私にできることはある?」


 そして、返答も決まっている。


「ありがと。だけど、これは私の問題だから」


 未友の気持ちはとてもうれしい。未友は私みたいな人間にもこうして普通に接してくれるから、私は未友が一番の親友でよかったと、心の底から思っている。でも、それはある意味で別の私の話。


 そもそも、未友のことは巻き込めない。これは軽々と親友の善意に甘えて助けを乞うていいような問題じゃないんだ。彼女はやっぱり普通の女子高生。私とは違う、日常に生きている人間。彼女は私の側にはいないのだから、その線引きを私が飛び越えてはならない。


 でも、わかってる。未友はきっと優しいから、こういう時に限って引き下がらない。だから、未友には悪いけれど、少し視させてもらうことにしようとした。


 焦点を合わせ、必要な眼を検索する。できる限り優しいものを。


 そうだ、ついでに私のことは忘れてもらおう。もう二度と、こんな私に関わらないために。だから――


「ねえ、そんなこと、言わないでよ」


「なにが?」


 析出する。


「私は燐が困ってるなら助けたい」


 重ね、


「私に――」


 発現。


「助けさせて」


 視ようとした。


 そこで思考がふっと途切れた。柔らかく、宙に舞う葉のように思考がほどけた。


 確かに、彼女の善意を受け取ってもいいかもしれないと、少し考えた。


 彼女のことを巻き込みたくないことは事実。でも、一人だけでは手が足りないことも、同時にどうしようもない事実だった。


 私の眼が万能なことは自分が一番よく知っている。不可能は一面的にほとんどない。でも、それでも、やろうとすることが大きくなればなるほど、複雑で緻密になり、願ったものをただ視るだけでは事足りなくなる。何より、私では根本的な頭脳が足りない。未友には眼のことも打ち明けている。協力を依頼するなら、それはそれでこれ以上ない人材だった。


 だから、受けることにした。


「わかった。そこまで言ってくれるのなら、助けてほしい」


「いいよ。私が言ったことだもん」


「でも、きっと危ない目に遭うことになる。それでもいい?」


「もしかして、思った以上に大変な問題なの?」


「そう、私の過去と、眼に関すること。知ってるでしょ? 私の眼は少しヘンだって」


「変だなんて……。違うよ。それは私たちよりいいことができる目、でしょ?」


「だと、いいけどね」


 未友はうなずいた。そして、なぜか不安が吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。放課後が最後になるはずだった、あのあどけない仕草をする。両手を後ろで組んで、街灯の下で踊るようにステップを踏んだ。


「なにから始める?」


 街灯との白い光と、濃紺に暮れる街。そのコントラストは、未友の笑顔をくっきりと描く。口の端、口角が上がった表情からは、初めての悪だくみをする幼い少女が連想される。


「結構乗り気だね」


「もちろん。親友を助けられるんだから」


「でも、未友のことだから、よくないことだってわかってるんじゃないの?」


「かもね。でも――私だって意外と不真面目だよ?」


 未友は街灯の下を外れ、その奥へ歩き出した。夜の闇に紛れ、姿が霞む。


「どこに行くの?」


「私の部屋!」


 歩みを止め、振り返るシルエットが見えた。彼女のショートヘアがふわりと揺れる。


「ほんとはさっきの人たち燐の家に行ったんでしょ? なら、もう戻れないだろうし、私のアパートの方がいいと思うんだけど」


 それはその通りだけど、頭がいいとそこまでわかってしまうものなのだろうか。まるでさっきまで怯えていたのが嘘みたいに、その足取りも声も軽い。


「いいの? こんな夜遅くに?」


「いいよ。知ってるでしょ、私しかいないって」


「そうだね。わかった、そうする」


 私は未友の下へ駆け出した。


 協力をしてもらうとなれば話さなくちゃいけないことがたくさんある。でも、それは未友の部屋に行くまでの道でどうにかなりそうだ。私はその中で一番大事なことを最初に話すことに決めた。復讐なんて、彼女は真に受けてくれるだろうか。でも、今の彼女なら、学校で見てきた優等生の一面とは全く別の側面を見せてくれている今なら、私は話せる気がする。


 この復讐は私だけのもの。でも、彼女が私の手を取ってくれるなら、それは受けてもいいと思う。心の隙間でそんなことを考えていた。

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