よくわからない夜
三角海域
よくわからない夜
町の酒場で、ひとりの男と出会った。
男はちびちびと酒を飲んでいる。飲んでいるというより、舐めているだけなのかもしれない。そう思えるくらい、先ほどからグラスの中身は減っていない。
寒いんだか暖かいんだか、よくわからない夜だった。
汗が滲んだと思えば、急に肌寒く感じる。
そんな夜に、僕はこの酒場にやってきた。
初めての店。どうしてここに入ろうと思ったのか。
よくわからない夜に、よくわからない理由で店を選び、名前もしらないよくわからないウイスキーを頼んで、喉を潤している。
ちびちびと酒を飲んでいた男が、ゆっくりとした動作でグラスを置き、大きく息を吐きだした。
すべての動作が緩慢な男だった。頭から足の先まで、あらゆる動きが遅い。その遅さが、妙に僕をひきつけた。
数分にも感じられるほどの吐息の後、男の目がやはりゆっくりと動き、ちょうど僕と目が合った。
男は、ゆっくりと口角をあげていく。
それが笑顔だと気付くのに、僕は数秒かかった。
「こんばんは」
男が言う。低いが、よく通る声をしていた。
「こんばんは」
「おかしな夜ですねぇ」
「そうですね」
「こんな夜は、酒を飲むに限る」
「わかります」
「そちらに行ってもよろしいですか?」
男は、僕の斜め前の席に座っている。それほど大きくない店のカウンター席。別に距離を詰めずとも話せはするが、断る理由もないので、僕は肯定の意味をこめて頷いた。
男はゆっくりとグラスを持ち、ゆっくりと立ち上がり、僕の隣にゆっくりと腰掛けた。
「ここにはよく来るんですか?」
僕が訊くと、男は「いいえ」と答える。
「なんとなくね、目に入ったんですよ。あなたは?」
「同じです。なんとなく目に入ったので」
「なるほど。奇妙な縁というやつでしょうかね」
男は言いながらグラスを持ち上げ、やはり舐めるように酒を飲んだ。
「時間をね、潰してるんです」
急に、男がそう言った。
「この後待ち合わせでも?」
「いいえ。何もないから時間を潰しているんですよ。空白を埋めているようなもので」
「空白?」
「ええ。生活の空白を埋めているんです。そうしないと、私の一日は、無になってしまうので」
男の声は、よく通る。はっきりとしていて、柔らかい。けれど、どこか、重さを感じた。
「酒は、溜まったものを解してくれます」
「ストレスとかですか?」
「もっと根源的なものでしょうか。心というか、まあ、ストレスともいえるかもしれません。表面的なものに疲れたら、酒を飲むんですよ」
どういうことか、と訊こうとしたが、その前に男が語りだす。
「生活、というのは、厄介だと思いませんか?」
「まあ、そうですね。疲れることが多いです」
「他の人間が妙に恵まれて見える瞬間が、私には一番の疲労なんです」
「羨ましいとか、そういうことですか?」
「私は、あらゆることをマイナスのフィルターを通して見てしまうようで。けれど、それってとても表層的なことなんですよね。あるとかないとか、そういう、表の部分だけでした物事を見れない」
「人間、みんなそんなものですよ」
男はゆっくりと表情を動かして笑う。唇がやけに乾いていた。
「自分の問題を、相手と結びつけて安心しているのかもしれません。自分が恵まれていないということを、恵まれている誰かがいるということで、しょうがないと思える」
「人は比べたがる生き物ですよ」
「そうですね。本当に、そうだ」
「酒を使って、その感情がほぐれるのなら、それは良いことだと思います。水と同じですよ。流れが詰まってしまったら、腐ってしまう。思考も、詰まってしまえば、マイナスばかり溢れてきてしまう。だから、いまこうして酒を飲んでいるということは、極めて正しく、必要なことです」
男につられたのか、僕も饒舌にそんなことを語った。語り終えて、少しクサいかなと恥ずかしくなり、グラスに残った酒を一気に飲み干した。
「ありがとうございます。なんだか救われた気分です」
「大袈裟ですよ」
男はグラスにゆっくりと手を伸ばす。その動作は相変わらず緩慢だったが、口にグラスを運ぶと、一気に酒を飲み干した。
「本当に、ありがとう」
男はそう言うと、さっと立ち上がり、素早く会計をすませて店を出て行った。店を出る間際、僕の方を見て、男は笑う。笑ったのだと思う。それは泣き顔にも見えた。
僕は少しの間、閉じられたドアを見つめていた。
追いかけよう。
そんな感情が一気に湧いてきた。慌てて会計をすませて、店を出た。
男の姿を探す。けれど、もうその姿はどこにもなかった。
僕は、知らない店の前で、知らない男のことを思い立ち尽くす。
寒いんだか暖かいんだか、よくわからない夜だった。
今は、やたらと寒く感じられた。
よくわからない夜 三角海域 @sankakukaiiki
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