第20話

 雨の止んだ窓の外は、一面の星の海だった。雨上がりには空中の塵が洗い流されて空気が澄むというが、田舎すらも通り過ぎて山奥の神子かみこ高校はそのぶん幻想的なほど夜空がきれいだった。


 大空いっぱいに溢れかえるように光り輝く星々に紛れて、僕はそっと旧図書室を後にする。星明りに照らされた廊下はしんしんと静まり返っていた。


 今日、僕は数奇院すうきいんにも内緒の用事があるのだ。


 片手に握ったビニール袋がガサゴソ音をたてる。そのなかには料理をたくさん詰めたタッパーがこれでもかというほど放りこまれていた。


 そう、数日ぶりに僕は梅原うめはらたちに食べ物を配ろうとしている。


 あの日成り行きで梅小路うめこうじと一緒に廃教室に向かった時のように、僕はあれからも欠かさず梅原うめはらのような食べ物すら手に入れられない生徒に料理を配っていた。


 しかし、清流寺せいりゅうじと僕たち"銀行屋"が対立して一週間ほど、その間はほとんど梅原うめはらたちと顔をあわせることができていない。


 清流寺せいりゅうじの仲間にいつ襲われてもおかしくなく、うかつに梅原うめはらたちと集まるのはかえって危険だったのだ。


 だからといって、梅原うめはらたちを見捨てるわけにはいかない。ある程度保存のきく食べ物を事前に渡していたとはいえ、それも限界だろう。今日こそはビニールの中の料理をなんとしてでも届けなければならなかった。


 周囲をそっとうかがいながら、そろそろとほの明るい廊下を進んでいく。清流寺せいりゅうじの手下がどこから見張っているとも限らない、決して見つかるわけにはいかないのだ。


 そうして世界中から追われている指名手配犯になったかのような気持ちでゆっくりと僕は廃教室へとむかった。


「おっ、いずみはんやないか。」


「っ!?」


大声をあげなかっただけ僕を褒めてほしい。ピンと神経を張りつめていた時にいきなり暗がりから肩を叩かれたのだ、驚かない人間などこの世にいるだろうか。


「そないに驚かんでええやんか。うちは妖怪やないんやで。」


 大仰に後ずさり跳ねる心臓を抑える僕に、すこし傷ついたような声をあげるその女学生は、梅小路うめこうじだった。


 ひとまず清流寺せいりゅうじにとっ捕まったわけではないと安心した僕は、だらだらと流れる冷や汗の元凶である梅小路うめこうじに非難めいた視線を投げかけた。


「……妖怪じゃないんだったら背後から忍び寄らないでほしいかな。」


「ごめんやって。」


 申し訳なさげに手をわたわたと振る梅小路うめこうじとの間で会話が途切れる。そういえば、こうして言葉を交わすのは梅小路うめこうじが旧図書室から転がり出ていって以来、初めてのことだった。


いずみはんはうまいことやっとるか?」


「あ、うん。」


数奇院すうきいんはんは……。まあ、大丈夫なんやろなぁ。」


 梅小路うめこうじは苦々しげに目を細める。僕との関係を詮索されてからこのかた、数奇院すうきいん梅小路うめこうじを目の敵にしていた。それは梅小路うめこうじもまた然り、である。


 剣呑な色を瞳に映す梅小路うめこうじを前にして、僕の心はキュッと痛んだ。


 友人同士が気まずい雰囲気になるのはいたたまれないものだ。ちょうど用事もあった僕はさっさとこの場を退散してしまうことにした。


「ごめんだけど今日は用事があるんだ、また教室で話をしよう。じゃ。」


 踵を返して廃教室へと向かおうとした僕の手首を、背後から掴まれる。


「まあまあ、そないに急がんでええやないか。」


 柔らかなその声色とは裏腹に、僕の腕を掴む手には万力のような力がこめられていた。ピリピリと鋭い痛みが走る。


「ちょっと、話してこか。」


 ニコニコと快活な笑みを浮かべる梅小路うめこうじは、どこか空恐ろしかった。



 ことりと目の前に、ビーカーに入った麦茶が差し出される。残暑の熱気にやられてジワリと汗をかいているそのビーカーがカラカラと音を鳴らした。


「ごめんやで、今コップがひとつもないんや。こっちに来たばっかやからな。」


 言い訳をするような言葉と共に向かいの丸椅子に座った梅小路うめこうじは自分のぶんの麦茶を机の上に置く。


 ここは梅小路うめこうじが移ってきた旧化学室である。教室の背後の戸棚には、きれいに整理された器具がほこりを被りながらずらりと並べられていた。


 電灯がついていないのにもかかわらず、教室は明るい。ピカピカと星の光が薄暗い旧化学室にさしこんでいた。


「いいところを見つけたね。」


「そうやろ、椅子がプラスチックで固いのはいただけんのやけど、それ以外は全部気に入っとるわ。」


 梅小路うめこうじが自慢げにくいっと眼鏡の場所を直す。レンズの奥から真紅の瞳が僕を見透かすように凝視してきた。


 どこか、梅小路うめこうじの様子がおかしい。ぼんやりと浮かんできた不安を振り払うように、僕は質問を投げかけた。


「それで、いったいなんの話なんだい?」


 梅小路うめこうじがその猛禽の目を細める。その小さな口から放たれた言葉は鋭いナイフのように僕の心臓をぐさりと突き刺した。


「あの日、数奇院すうきいんはんに邪魔された話の続きや。」


「………はい?」


 梅小路うめこうじがにっこりとほほ笑む。ばさりと机の上に広げられたのは分厚い書類の束だった。


「面白かったで、これ。いずみはんがいろいろと証拠かき集めたんやろ。」


 その表紙に無機質なインクで記された内容は、■■■中学におけるいじめの告発書。


 確かに中学生の僕がかつて教育委員会に送りつけた最後の切り札だった。


「どうやってこれを……。」


 思わず口をついて出た僕の問いかけには答えず、梅小路うめこうじは一枚一枚丁寧にクリップで留められた書類をめくっていく。


いずみはんが自分から濡れ衣を被りにいったって知ったときにはびっくりしたわ。そこまでしてイジメを止めにいけるぐらい人間、大人にもほとんどおらんのに。」


 なにやら楽しげな梅小路うめこうじは僕をじっと見つめてくる。吸いこまれそうなぐらい真っ赤な目はどこか熱を帯びていた。


「知っとる? うち、今まで世の中のことがずっと嫌いやったんよ。」


 学校ではいっつも生意気やって先生に怒られてな。カラカラと笑う梅小路うめこうじが語るには、偉そうにしているくせにちっとも尊敬できない世間の人々に失望していたのだという。


「うちはな、うんざりしとるんや。世の中の大人は政治家も警察も先生も、み~んな口では正しいこと言っといて裏では腐っとる。」


「そんなことは……。」


「じゃあ、なんでいずみはんのほかには誰も数奇院すうきいんに逆らおうとせんかったんや? どうして神子かみこ高校の生徒をほっとくん?」


「事情がある人もいるでしょ、家族とか。」


「それはいずみはんも同じちゃう? 現にあんたは今勘当されとるんやろ。いずみはんができてなんで先生にはできんのや?」


「………。」


 言葉に詰まった僕をにこやかに見つめながら、梅小路うめこうじはゆっくりと言い聞かせるように口を動かした。


いずみはんはええ人やで。だからな、気になんねん。」


――――――――どうして数奇院すうきいんとつるんどるんや。


 ぞっとするほど冷たい声がする。僕は目の前の少女の変貌に言葉を失った。


 笑っているようで、笑っていない。口は弧を描いているのにも関わらず、その深い赤の瞳はグチャグチャとした苛立ちと怒りが渦をまいていた。


数奇院すうきいんは、紛れもなく悪や。なんの罪悪感もなく同級生を死に追いやる最低のクズ、弱者の搾取の上ですまし顔を浮かべとる気色悪い人の敵や。」


 梅小路うめこうじの頬が興奮で赤みがかっていく。僕はただただその勢いに圧倒されていた。


「あんなやつと一緒におったらいずみはんまで染まってまう。アレはいずみはんにとってただ単なる害悪や!」


 すでに笑顔すら消えた梅小路うめこうじは声を荒げ、嫌悪を露わにする。僕のほうに身を乗り出してきたかと思うと、肩を痛いくらいの力で掴んだ。


数奇院すうきいんなんてほっとくんや! あんな邪悪と関わる必要なんてないやろ!」


「っ!」


 肩を握り締める梅小路うめこうじの手に力がこめられ、その指が肉に食いこんでくる。痛みに顔が歪む僕に気がついた梅小路うめこうじは取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべると、手を放した。


「ごめんやで、つい熱くなってしもた。でも、いずみはんはこないな高校にいてええ人やないのは本当や。」


 仕切り直しをするように咳払いをした梅小路うめこうじはしかし、その瞳に危険な輝きを覗かせたままだ。僕はまるで金縛りにあったかのように体が動かなくなってしまった。


 なんなんだ、この目の前の少女は。いつもの快活で明るい姿と今の梅小路を結びつけることのできない僕は心底恐怖した。


 今、僕の前で口を開いている梅小路うめこうじは、いったい誰だというのだろう?


 歪んだ笑みを浮かべたままの梅小路が、熱病に侵されたかのように言葉を紡ぐ。


いずみはん、数奇院すうきいんなんて捨ててしまうんや。そうすればうちがパパに頼んできちんとした場所に戻したる、こないけったいな高校から救ったる。」

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