第18話

「ま、しかたねぇ話だ。バイクに今すぐにでも触れてぇ気持ちはあるが、あんたのについても勝てる保証はまったくねぇ。だったら清流寺せいりゅうじのもとで泥水啜ってたほうがましだぜ。」


 桜木さくらぎが強がるように肩をすくめる。そして、その黒い目に獰猛で危険な光を宿らせた。


「それに、ここであんたらをぶっ飛ばしてついでに"郵便屋"の背信も手土産に戻れば清流寺せいりゅうじも俺を無下には扱わなねえかもしれねぇなあ。」


 桜木さくらぎが暗に暴力に訴えることをほのめかす。場の雰囲気が険悪になったのを察した僕はそっと手の中のビーカーを握りしめた。


 桜木さくらぎにもし本気で殴り掛かられたら、さしもの完璧超人である数奇院すうきいんといえども危ないことは間違いない。そうなれば僕もいよいよ腹をくくる必要があった。


 しかし、万が一のことがあったとき僕ははたして本当にこの液体を桜木さくらぎにかけることができるのだろうか? 倫理と義理とのはざまで僕が揺れ動いている間も、桜木さくらぎ数奇院すうきいんは一触即発の緊張を孕みながら問答を続けていた。


「もしもの話だけれども、桜木さくらぎくんが暴力に訴えたのなら獅子王ししおうくんが秘密のお手紙を清流寺せいりゅうじくんに渡してくれる手はずになっているの。」


「だから? 清流寺せいりゅうじも馬鹿じゃない。その手紙になんて書いてあろうが騙されるわけねぇだろ。」


「そう? 清流寺せいりゅうじくんは喜んで嘘を信じてくれると思うわよ。だって邪魔な桜木さくらぎくんを排除できる絶好の口実になるもの。清流寺せいりゅうじくんはそういう人でしょ?」


 発言の真偽を確かめるように桜木さくらぎ数奇院すうきいんのすました笑みをじろじろと凝視する。が、しばらくして数奇院すうきいんの真意を見破るのを諦めたのか踵を返した。


「ま、そんな棚からぼた餅ってわけにゃいかんか。お前がなんの用意もなしに俺の前に立つわけないもんな。」


 数奇院すうきいんに背を向け、教室の扉に手をかける桜木さくらぎ。その後ろ姿に数奇院すうきいんはにこやかに語りかけた。


「あらあら、そんなに素直に夢をあきらめないでもいいじゃない。桜木さくらぎくんが清流寺せいりゅうじくんの代わりをするだけの、簡単な話よ?」


「だから、俺は負け戦するつもりはねえよ。この高校で負けて賊軍になったやつの末路はさんざん見せられてきたしな。心配するな、今の話は聞かなかったことにしといてやる、お前らと密会したなんて知られたら清流寺せいりゅうじになにされるかわかったもんじゃねえしな。」


 桜木さくらぎはどうやら僕たちの誘いを断るつもりらしい、どうやら交渉は決裂したようだ。教卓の後ろで僕が静かにまぶたを閉じていると、数奇院すうきいんのため息がやけに大きく聞こえた。



「どうして桜木さくらぎくんはわたしが清流寺せいりゅうじくんに勝てないと勘違いしちゃうのかしら?」



「あ?」


 訝しげに振り返った桜木さくらぎ数奇院すうきいんが手の上の手紙を広げてみせる。ちらりと一瞥した桜木さくらぎはすぐに食い入るように手紙を凝視した。


「おいおい……。なんだよ、これは。」


 桜木さくらぎが心底から悍ましい陰謀を暴いたかのように後ろに後ずさる。驚異と畏怖で揺れるその瞳孔はしかし絶えず数奇院すうきいんの握る手紙に注ぎこまれていた。


 数奇院すうきいん桜木さくらぎに今見せている手紙は事前に教えてもらった段取りにはなかったものだ。当然その中身は僕も知らない。


 気になった僕は教卓の背後からなんとか手紙の文面を読もうとするも、絶妙に影になって視界に入れることはできなかった。桜木さくらぎに僕の存在が知られるわけにもいかないので、すごすごと大人しく教卓の後ろに再び隠れる。


 教卓のうすい金属板越しに桜木さくらぎの気が狂ったような笑いかけの声が聞こえてきた。


「うひっ、それじゃあ最初から俺たちはお前の手のひらの上だってのかよ? く、くくくくくっ! こりゃ清流寺せいりゅうじに勝ち目なんかねえな、お前の勝ちだよ!」


 数奇院すうきいんはなにも口にせず、ただその顔に薄っぺらい笑みを貼りつけている。その目の前で狂乱に呑まれたかのように桜木さくらぎが腹をよじって笑い転げていた。


「ひゃっハハハハハ、俺も清流寺せいりゅうじも馬鹿みたいだぜ、ほんとうにやってくれたなあ!」


 そのどこか異常な光景を前にしても数奇院すうきいんはまったくブレることがない。桜色の唇を持ちあげると、決断を迫るように優しく言葉をかけた。


「それじゃ、桜木さくらぎくん。最後にもう一度尋ねておきたいのだけれどわたしの味方についてくれるの?」


「ㇵ、ハハハハハ………。ああ、俺は勝ち馬に乗るのが大好きなんでな。そうさせてもらうぜ。」


 笑いがまったくおさまらない桜木さくらぎが窒息しそうになりながら愉しげに肯定する。教卓の後ろに隠れる僕はそのにわかには信じられない答えに驚いていた。


 あれほど急に桜木さくらぎの態度が一変したのはどう考えても不自然だ。それに桜木の様子がおかしい。いったい数奇院すうきいん桜木さくらぎに何をみせたのだろうか。


いずみくん。もう出てきていいわ。」


 数奇院すうきいんに促されて、僕は教卓の影から立ち上がる。すこし驚いた様子の桜木さくらぎはそれでもすぐに驚きを内側にひっこめた。


「なんだ、"銀行屋"のボウズも来てやがったのか。それに手に持ってるもんはなんだ? ………もしかしてヤベエ薬品かなんかか?」


 静かに頷く僕に納得した様子の桜木さくらぎ数奇院すうきいんに向き直り、手を振った。


数奇院すうきいん、お前が俺に"転売屋"の甘い蜜をなめさせてくれる限り俺はお前に従わせてもらうぜ。ま、といってもあんまり派手には動けないけどな。」


「ええ、別にいいわ。清流寺せいりゅうじくんにはわたしから話すつもりなの、あなたはその時が来たら清流寺せいりゅうじくんに手を貸さないだけでいいわ。」


 そうすれば、わたしが桜木さくらぎくんに"転売屋"をやらさせてあげる。


 数奇院すうきいんの言葉に満足げに頷いた桜木さくらぎは机の上のバイクの雑誌を回収すると、そのまま教室から出ようとする。その最後に、桜木さくらぎはこちらに振り返ると、意味深げにニヤリと白い歯を見せた。


「あ、余計なお世話かもしれねぇ。だが伝えとくと、清流寺せいりゅうじのやつまだなんか隠してやがるぜ。」


 桜木さくらぎが扉を閉め、再びこの廃教室は僕と数奇院すうきいんとだけになる。そこには、夜更けの静まり返った校舎が広がるだけだった。


 ……結局、桜木さくらぎは最後になにを伝えたかったのだろう?


 不思議に感じた僕は答えを求めてとなりの数奇院すうきいんに振りむく。しかし、目にしたのはここ数年一度も見たことのない、数奇院すうきいんの真剣な表情だった。


 一切の感情が消えた無味乾燥な表情の数奇院すうきいんがブツブツと独り言を呟き続けている。その眉間には深いしわが寄っていて、僕は驚いて口をぽかんと開けてしまった。


 いつもすぐに真実を見抜くあの数奇院すうきいんが悩んでいる。それは僕には天変地異の前触れのように感じられた。


しずか……?」


「………。」


 おずおずと僕が名前を呼ぶと、いきなり土の中から地表に引きずり出されたモグラのように数奇院すうきいんが目をパチパチとさせる。しばらく周りを見渡した数奇院すうきいんは、じわじわと現世にひき戻されているかのようだった。


「ごめんなさい、すこし桜木さくらぎくんの言葉が気になってしまって。」


 ようやく余裕を取り戻した数奇院すうきいんがいつも通りのよくわからない笑みを浮かべる。


清流寺せいりゅうじがまだなにか隠していることは予想してなかったの?」


「いいえ、逆。霧がかって捉えられなかったものが、ようやくわたしの前に足跡を残したの。ただ、まだそれは不確かであやふやなものなのだけれど……。」


 数奇院すうきいんはどこか僕を煙に巻くような言い草だった。どうも数奇院すうきいんには心当たりらしきものがあるらしい。


 自信家の数奇院すうきいんが断言を避けるなんて珍しいことだ。


「とにかく、これで桜木さくらぎくんはこちら側の人間となってくれたわ。」


 話題をそらすように数奇院すうきいんが口を開く。


 桜木さくらぎを寝返らせた一部始終を思い返した僕は、そういえばもうひとつ不可解なことがあったことを思い出した。


「そういえばしずか桜木さくらぎに見せていた手紙は……。」


「秘密。」


 僕の言葉を途中で遮った数奇院すうきいんはその色白な指を桜色の唇に近づける。


「奥の手は最後まで隠しておくものでしょう?」

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