其ノ十九 井戸

 安子様は、その底知れぬ暗く古い井戸の中を、ただぼんやりと眺めていらっしゃいました。


 ああ、もういっそ、この井戸の中に落ちたなら、私は楽になれるのでは無いか。


 その様な恐ろしいささやきが、安子様のお心をかすめて行きました。


 子供たちの事は……。恐らく牧野のおいえの事しか頭に無いお義母かあ様が、早々に夫に後添のちぞいをめとり、わたくしの事など、皆すぐに忘れておしまいになるでしょう。


 それよりも何よりも、わたくしは今すぐに彼岸あちらへ行って、一刻も早く楽になりたい。


 暗闇が四方を覆い、それよりほかの事など、とてもお考えになる力など残されては居ない安子様は、只々ただただ見えない何かに導かれる様に、その井戸の縁に御手おてをお掛けになったので御座います。




次章に続く

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