アンダンテ

望月くらげ

第1話

 冬、というにはまだ早いけれど、十一月の半ばになり朝晩は随分と冷え込むようになった。暦の上では少し前に冬になったらしいけれど、ようやく色づき始めた木々はどちらかというと秋を主張しているように見えた。

 家を出ると、赤や黄色に染まった並木道を抜けて待ち合わせ場所であるコンビニに向かう。中一の冬から付き合うようになった神辺朝人とは、小学校の校区が違うのでお互いの中間地点であるコンビニ前で待ち合わせして一緒に通学している。家まで迎えに行くよ、と言われたこともあったけれど、両親に見られたときに気恥ずかしいので、こういう形になった。

 少し急がないと、朝人は来るのが早いから……そんなことを考えていると「あーっ!」という耳を劈くような声が聞こえてきた。

「光莉じゃん!」

「純也くん……。あのね、年上に呼び捨てはよくないって何回言ったらわかるの。光莉お姉ちゃんとか、せめて光莉ちゃんとかさ」

 隣家から顔を出したのは六つ年下の男の子、片野純也だった。光莉のことを友達か何かだと思っているのか、会うたびこの調子だ。

「光莉は光莉だろ! それに身長だってそのうち追いつくし。今だってそんなに差、ないじゃん」

「そんなわけないでしょ」

 隣に並んで背伸びをする純也にそんなわけないでしょ、とため息を吐きながら視線を向ける。いくら光莉が小さい方だといえ、小学三年生の純也と大差ない訳がない。

「ちぇー。早く大きくなりたいな」

 ついこの間まで遊びに夢中になって公園でお漏らしをしていたとは思えない純也の言葉に笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。

「まあそんなこと言わずにさ、自分のペースで成長するのが一番だと思うよ」

「……ふん」

 光莉の言葉が気に入らなかったのか、鼻を鳴らすと純也は歩き出す。小学校と中学校までは途中まで同じ道のりで、自然と光莉もその後ろを歩くことになる。

 身長が違えば歩幅も違う。先に歩き出したはずの純也に光莉が追いつくまでに、そう時間はかからなかった。何も話さない純也の隣を光莉は歩く。少しだけゆっくり、純也の歩くペースにあわせるようにして。

 暫く歩くと、コンビニ前に立つ朝人の姿が見えた。

「じゃあ、私は朝人くんと一緒に行くからここで分かれるね」

「……ふん。あんな奴のどこがいいんだか」

「はいはい。気をつけて行くんだよー」

「子ども扱いするな!」

 舌を出しながら駆けていく純也の姿に笑みを浮かべながら、朝人に手を振った。

「おはよう、待たせてごめんね」

「おはよ。また純也に絡まれてたの?」

「なんか妙に懐かれちゃってさ」

「……懐いてるというかなんというか」

 聞き取れないほどの声量で朝人は何か呟く。「どうしたの?」と光莉が首を傾げて見せても「なんでもない」と言って肩をすくめるだけだった。

「ところで、今日の数学の課題やった?」

「一問だけわからなくて。あとで教えてくれる?」

「仕方ないな」

 差し出された手を握りしめながら「ありがと」と笑う。こんな時間が光莉はたまらなく好きだった。明日も明後日もその先も、ずっとこうやって朝人と一緒に笑っていられると信じていた。――あの日までは。


 その日の放課後も、光莉は朝人と一緒だった。あと一ヶ月もすれば赤や黄に染まった木々も枯れ果て、雪もちらつき始めるかもしれない。

 数ヶ月前まではお互いに部活があったせいで、放課後一緒に帰るなんて殆どできなかった。けれど夏の最後の大会が終わり、秋になりお互いに引退してからはこうやって毎日一緒に帰っている。寄り道をしておやつを食べたり、公園で日が暮れるまで話したり、そんな他愛もない時間が楽しくて仕方がなかった。

「受験面倒くさいなー」

「ホントだよ。朝人くんは余裕だからいいじゃん、私なんて同じところ行くにはもっと頑張らなきゃって言われちゃったよ」

 市内でも有数の進学校に行くことを決めている朝人とレベルを合わせるには、光莉の成績では厳しかった。朝人は一つレベルを下げてもいいと言ってくれてはいたけれど、そんなことをさせたくなかった。

「わからないところ教えてあげるから、一緒に頑張ろ」

 そんな光莉の気持ちを、朝人は尊重してくれていた。

「高校行ったら電車通学にする? それとも自転車?」

「んー、電車もいいけど自転車なら帰りにいろんなところ行けるよね」

「じゃあ雨の日だけ電車とか」

「それいいね」

 こんなふうに先の話をして、下がっていた光莉の勉強へのモチベーションを朝人は上げてくれる。しんどいことも多い受験勉強だけど朝人が一緒だから頑張れていた。

「そういえばさ、来月光莉の誕生日だよね。何か欲しいものある?」

「んー」

 朝人の言葉に光莉は少し考える素振りを見せる。けれど、本当は欲しいものなんてとっくの前から決まっていた。

「朝人くんと一緒にいられたら、それが一番嬉しいかな」

「……ったく、そんな可愛いこと言って。そうじゃなくて、一緒にいるけどちゃんとプレゼントさせてよ」

「えー、うーん。でもさ、ホントそれが一番嬉しいんだもん。強いて言うなら、朝人くんが選んでくれるなら何でも嬉しい」

 去年はお互いに家の用事があって当日には会えなかったし、一昨年はまだ付き合っていなかった。だから今年の誕生日は、どうしても一緒に過ごしたかった。

「じゃあ、当日デートして、その時に買いに行こ。あ、そうだ。言ってた映画の前売りもうすぐ出るって。前に見に行ったのも面白かったけど今度のもよさそうだよ。今度、勉強の息抜きがてら行こうよ」

「やった!」と、返事をした、つもりだった。激しい衝撃を受けて一瞬、何が起きたのかわからず、次に意識がハッキリしたときには全身に強い痛みが走っていた。

「光莉! 光莉、大丈夫!?」

「朝人、く……」

「今、救急車呼んだから! 大丈夫だから!」

「う……」

 衝撃ほどの怪我はしていないようで、どうにか身体を動かすことができた。真っ青な顔で朝人が光莉を見つめているのが見える。

「だいじょ、ぶだよ」

「大丈夫じゃないよ! バイクにぶつかられて、意識失ってたんだよ! 俺が道の方を歩いてたら……こんなことにならなかったのに……」

「そしたら、朝人くんが轢かれてた、でしょ」

 心配かけないように笑って見せる。大丈夫だよ、と伝えるためにVサインを見せると、朝人は少しだけ安心したように表情を崩した。

 幸いと言うべきか、痛みはあれど動かせない箇所はないので、どうやら骨折まではしていないようだった。警察と救急車はほぼ同時にやってきた。バイクの運転手が警察に話をする中、光莉は朝人とともに救急車に乗せられ、病院へと向かった。そのときは、まさかあんなことになるなんて思ってもみなかった――。


 母親が仕事を切り上げ駆けつける頃には、一通りの検査は終わっていた。骨に異常はなく、ぶつけられた左腕と左足の打撲だけで済んだのは不幸中の幸いだと言われた。ちなみにバイクの運転手にも怪我はないらしく、それはそれで安心だった。

「ホントに、もう」

「ごめんって」

 人気のない待合室の一番奥、四人がけのソファーに座る光莉の前で、母親は頭を押さえながらため息を吐いた。

「どうせ周りも見ずにフラフラしてたんでしょ。だいたい光莉は――」

 病院に飛び込むように入ってきたときは血相を変えていたというのに、無事だとわかると小言を言い出すのは一体何なのだろう。とはいえ、本当に心配してくれていたことはわかっているから、喉元まで出かかった文句は飲み込んでおくことにした。

「あとは頭を打ってるかもしれないから、そっちの検査結果が出たら帰ってもいいらしいよ」

「じゃあもう今日はどこかで食べて帰りましょ。朝人くん、だったかしら? 一緒にどう?」

「や、えっと、僕は家で用意してくれてると思うので」

 先程、彼女――光莉の母親と初対面した朝人は、どこかよそ行きの口調で挨拶をしていた。普段とは違う一面にむず痒くて笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。

「それじゃあ――」

 母親が何か言いかけたそのとき、パタパタと病院のロビーを走る音が聞こえた。真っ白の服を着た看護師が、一目散に光莉の方へと駆けてくる。どうしてだろう、その姿に嫌な予感が胸を過った。


「それ、で」

 三日後、光莉の部屋に朝人はいた。あの事故の日からずっと学校は休んでいた。万が一があると大変だから、となるべく人との接触を避けるようにと医者から言われたのだ。

「頭にね、大きな腫瘍があるんだって」

「腫瘍って……」

 あの日、朝人に帰るように伝え、母親と二人で医者から聞いた説明を自分なりの言葉で伝える。上手く飲み込むことができなくて、どうしても受け入れたくなくて、朝人が心配していたのはわかっていたけれど、今日まで連絡を返すことすらできなかった。

「場所が悪くて、開いて取ることもできなければ、リスクが大きすぎて放射線治療もできない。このままだともって三ヶ月だって」

「三ヶ月って……嘘、だよね」

「嘘だったら、よかったんだけどね」

 冗談ですよね、と医者に聞いたのは光莉だったか母親だったか今では思い出せないし、どうでもいいことだ。悪い冗談だと笑い飛ばしたかった。どうして事故にあって念のために受けたCTで脳腫瘍を発見されて、さらに余命宣告までされなければならないのか、理解できないし納得したくもなかった。

 ベッドに座る光莉の目の前で、クッションの上で正座した朝人の表情が真っ青になっていた。朝人にそんな顔をさせたくなくて、光莉は明るいトーンで「でもね!」と両手を打った。

「治療法がないわけじゃないの」

「ホントに!? でも、さっき手術も放射線治療もできないって」

「まあ、うん。今はまだ治療法がないの」

「今は……?」

 光莉の言葉が引っかかったのか、朝人は怪訝そうに繰り返した。笑って言おうと思うのに、どうしても表情が歪む。

「未来には治療法ができるかもしれないって」

「どういう、意味?」

「コールドスリープ。前に見に行った映画でやってたから、知ってるよね」

「コールド、スリープ……って、あんなのSF映画の中の話しで……」

 現在、治療法がない病気に対して未来でなら助けることができるかもしれない。そんな願いの元、生まれた延命治療。それがコールドスリープだった。

「三ヶ月で死ぬか、それともいつかわからない未来を信じて冷凍保存されるか――。困っちゃうよね、こんなこと決めろって言われても」

 肩をすくめて見せるけれど、どうしても言葉が震えてしまう。

「私……どうすれば、いいかな……」

 両親はそれでも光莉に生きていてほしいと、少しでも可能性があるのならコールドスリープすることを願った。でも光莉自身は迷っていた。

「もしも目が覚めてお父さんもお母さんも死んじゃってたら……? 朝人くんだって私以外に好きな子ができるかもしれない。おじいちゃんになってるかもしれない。そんな世界で目覚めるぐらいなら、今このまま死んでしまった方がって――」

「嫌だ!」

 朝人は光莉の言葉を遮ると、その身体を痛いぐらいキツく抱きしめた。

「光莉が死ぬなんて、嫌だ」

「朝人くん……」

「俺、待ってるから。光莉が目覚めるまでずっとずっと待ってるから。だから、だから……!」

 朝人の瞳からは大粒の涙が溢れていた。出会って二年以上が経つけれど、こんなふうに泣いている姿を見たのは初めてだった。

「ホントに、待っててくれる……? 私のこと待ってたら、朝人くんずっと一人だよ?」

「光莉こそ、目が覚めて俺がじいちゃんになってても、ちゃんと好きでいてくれよ」

「当たり前じゃん」

 泣いて泣いて、それから口づけて――光莉と朝人はいつまで続くかわからない別れを選んだ。いつの日か、再び出会えることを願って。


「――ねえ、先生。コールドスリープしたら寒いかな」

 ふとした疑問を光莉がぶつけると、白衣を着た医者は優しく微笑んだ。

「感覚はないはずだよ」

「そっか。……来月公開の映画、見たかったなぁ」

「……目が覚めたら、DVDが発売してるよ」

 機械の中に入っているとは思えないほど他愛ない会話を繰り広げる。普通の会話をしていないと、恐怖に打ち勝てそうになかった。

「それじゃあそろそろお薬を入れるよ。このお薬が入るとだんだん眠くなる。そして次に目覚めたら――未来の世界だ」

「目覚める、よね」

「……きっと」

『必ず』とは言わなかった。『必ず?』とは聞けなかった。腕に刺された注射針から液体が身体に入ってくるのを感じながら、光莉は長い眠りについた。



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