第85話
*
いわゆる「インクレス」と呼ばれる竜の実態は、小さな小さな竜の集合体だった。ゆえに一体一体の竜が持つマナは決して大きくないが、無数に集い、群体として動くことで、実質的なマナの総量は莫大なものになる。その上、マナを介して共鳴する能力を持ち、統率された集合意識体としての側面も持つ。
その個体の体表は黒く陰りながらも、常に仄かに発光している。太陽光の届かない深海では相対的に眩く感じるが、海面に近付くほど光は目立たないものになる。だから例え海面に近いところにインクレスの個体がいたとしても、網にもかからないような小さな体躯も相まって、小魚と見間違えてもおかしくない。そもそも、伝承に謳われる波紋模様越しでは、海中のインクレスを見つけ出すことはできないのだろう。
また特異的なことに、極めて透明度と硬度の高い結晶の中で蠢きながら過ごす。アルマジロやカタツムリが持つような一種の“防御形態”だと予想され、魔女の力を以てしても砕くことは叶わない。
かたや自らの力で殻を破り外に出てくれば、マナを共鳴させる攻撃的な面が表に出る。竜の群体が織り成すシルエットは、まさに巨竜のように見える。これまで観測された記録がないことが信じられないほど異様な生態だが、さもありなん、その生息域は「深奥」であり、単に深海というよりも、この星の中心に近い所である。
だからこそ、常人に観測できなくても、インクレスは世界全土に影響を与えうる。
*
「これがインクレスですか」
ヲルタオはしげしげと、セタのスケッチを見つめた。
セタの作品史上、最速で仕上がったインクレスのスケッチは簡素な出来だった。しかし、その簡素さが、インクレスの個体を正確にとらえたことを意味していた。
場所は技科学院工房が保有する、研修所である。その一室に魔女が集まり、セタの絵を見ながら話しあっていた。
セタは、さながら議事録係のように、彼女たちの会話を脇で静かに聞いていた。
「ルカヱルさんの仮説によれば、インクレスに関することが色々説明できますね! 群体としてのインクレスは、この世界の深奥に潜んでいる。そしてそれぞれの個体同士が起こす共鳴が、結果として海面の波紋として現れると」
「そう。それに、海流が乱れるっていう事例も説明できる。海流は深い所の流れに基づく大きな水の流れだけど、インクレスそのものは、その深いところにいるから」
「海の流れを御するほどの力があるということですか」
「まだ分からないところも沢山あるけどね。特に、鳴き声」
「鳴き声? どのような?」
「……」
ルカヱルは、難しい表情を浮かべて咳払い。
「キゥ……“Qraaaa”ァァ……って感じ」
「ふむ。だいたい分かりました。でも鳴き声って、図鑑には乗せにくい情報ですね」
「確かに」ヲルタオの不意な指摘に本質を感じたルカヱルは唸った。
「それで、どうしてその鳴き声が気になってるんでしょうか」
「これと同じ鳴き声の竜を、実はメガラニカで見つけたことがあるの。名前は――私が付けたんだけど、ミレゾナっていう、牙が鉱石で出来てる竜」
「面白い生態ですね」
「それだけじゃない。ミレゾナも、自分の抜けた牙とマナを共鳴させることが出来たの。そこが、なんだかインクレスに似ているなって」
「鳴き声だけじゃなく、生態も似ていると。竜にしては珍しい」
「もしかすると、同族、同種なのかも」
「あるいは、成体でしょうか。成長した姿なのかも」
「なるほど。そういう考えもあるか」
はっとして、ルカヱルは顎に手を当てる。「考えたことなかったけど、確かに、時間が経つと姿が変化する竜はいる。メガラニカでもね、ハーグリャっていう竜が居て」
「ハーグリャ?」
「芋虫みたいに常に地面を這う竜だったんだけど、このまえに見た時は、空を飛べるようになってた。姿形も、まるっきり変わってね」
「ちょうちょみたいですね」
「どっちかというと蛾だね。毒がある――色々あって、最終的には無毒化したんだけど」
「ルカヱルさんの話を踏まえると――インクレスの成長した個体が、ミレゾナのような竜になるっていう可能性はありそうです」
「うん。あとは……」ルカヱルは、木目の机をじっと見つめて俯く。「あと、もう一個言っておきたいことがあったはず――」
「結晶の件では?」
と、セタが背後から短く告げると、ポン、とルカヱルは手を叩いた。
「そうだ忘れてた。ヲルタオこれ見て。さっきも話をした、結晶を拾って来たの」
ルカヱルは、透明な結晶を机の上に広げた。
ヲルタオは拾い上げた欠片を見つめる。マナを観察し終えると、「初めて見た」と呟いた。
「これ……気のせいかもしれないけど。コークスに似ていますね」
「コークス? 石炭ってこと……?」
「若干違いますが、石炭から作るものなので中身はほぼ同じようなものです。この結晶は、それに似ています」
「石炭に――??」
ルカヱルが首を傾げる。セタもピンと来ていなかった。
なぜなら、コークスは黒く、机の上に置かれた結晶は透明である。似ても似つかない。いくらなんでも、それはないだろうと。
「ティナさーん」と、突然ヲルタオが部屋の外に呼びかけると、どたどたと足音を立てて扉が開き、ティナが姿を現した。
「は、はい!?? はい! なんでしょうか!?」
一目で緊張が見抜けるほど表情と声を強張らせたティナと対照的に、ヲルタオは平然とした口調で続ける。
「どこかに石炭ありません? 船に使う奴」
「ありますあります!!」
ティナは忽ちその場から離れ、すぐに戻って来た。手には黒く焦げたような外観の袋を持っており、「こちらです」と告げた。
「ありがとう。ちょっと見せてね」
ヲルタオが袋の中の黒い塊一つを摘まみ上げ、透明な結晶の脇に置いた。それらの対照的な物体を見比べたルカヱルの表情は、次第に驚きに染まっていく。
「――確かに。ちゃんと見ると、完全に同じじゃないけど、限りなく似てる」
「そうですよね」
「じゃあこれ、なに?」
ルカヱルは透明な結晶のほうを摘まんで持ち上げる。「これも、もとは炭ってこと……? こんな、氷みたいな見た目なのに。セタ、どう思う?」
「――正直、俺の目から見ると、二つとも全く違うものにしか……」
「興味深い。ティナさん、君は?」
今度は、ヲルタオが尋ねる。ティナは肩をびっくりと揺らして、じっと石を見つめた。
「あ、あう……。わ、私の目から見ても、二つは違うものにしか見えません……。外観は……」
「そっか。人間の目で見れば完全に違うものってことね」
「で、でも……。例えば腐食した鉄の錆も、同じ錆びでも色が違うことがある……往々にして見た目の問題は、本質じゃないのかも……」
「赤さびと黒さびのことね。ふむ」
ヲルタオはどこか納得したらしく、「うん、リンにもこの話をしてあげよう。ちょうど、写真機用の材料もなんとか拾えたところだったので、良い機会です。ルカヱルさん、挽機工房に戻りませんか?」
ルカヱルが頷いて応じたので、ヲルタオは緩く微笑んだ。
「せっかくです。また、コーヒーでも淹れましょう」
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