フィアマ

第86話

 “挽機工房”、すなわちヲルタオのカフェには、扉の魔法で戻ることになった。あっという間の移動を終えると、店の中で一人作業に没頭していたリンが、吃驚したように顔を上げて、皆を笑顔で迎えた。

「お帰り――なになに、皆一緒なんだ! ヲルタオ、今日は鉱石を採りに行ってたんじゃ?」

「そうだよ。でも偶然、ルカヱルさんたちに会ったの。インクレスを探しに行ってたところをね」

「へえ、凄い偶然。ルカヱルさんたち、インクレスに遭えたんだね、良かった」

 うんうん、と自分事のようにご満悦なリンは、はっとして、

「そうだ、ルカヱルさん! 顔を見たら思い出した、言っておかないといけないことが」

「なに?」

「“アトランティス”のこと。前に、私に聞いたよね? 聞き覚えがあったんだけど、ようやく思い出したの」

「あ――そうそう、似てる単語があるって話だったね。結局、何だったの?」

「“アトラス海”――昔、アヴァロンから西に広がる海は、そう呼ばれてたことがあったの。いまは大平洋パシファトラスって呼ばれてるけど、まだ世界地図が出来る前は、自分の見えてる海を自分たちの言葉で呼んでる人も多かったから。教科書のコラムにそんなことが書いてあったのを、思い出したの」

「アトラス海? ……俺は地図編纂課にいたけど、聞いた覚えはないですね。アヴァロンの昔の言葉ってことは、地方古語の一種だから、もう使われてないんですかね」

 セタは脳内に地図を広げ、世界中の海の名前を思い出すが、そのような名前の海域は思い当たらなかった。

「だろうね。アトラス海、か……ふむ」

 ルカヱルが納得したような息遣いを言葉尻に乗せた。

 アトラス海――海が合計でいくつあるかも分かっていなかった過去の時代においては、ジパングの東側に見える海と、アヴァロンの西に見える海が、互いに異なる海として認識され、で同一の海とは認識されていなかった。

 それゆえにアヴァロンの住人たちは、自分たちの方から見える海にアトラス海、という独自の呼称をつけた。地方でのみ使われる昔の言葉、すなわち、地方古語である。

 しかし今でこそ――つまり、世界地図が完成した今でこそ、アヴァロンとジパングの間にある海は一つだけで、両地方間での移動が可能だと分かっている。だから、誰もアトラス海という呼び名は使わない。言葉自体を知らない者がもはや大半だろう、昔の海の呼び名など。

(その地方古語アトラスが、アトランティスに語感が似てるのは、単なる偶然っぽい……か……?)

 セタの頭の中で、そこが判断に迷うところだった。数文字程度の文字列であれば、語感が似通ることはあってもおかしくない。

「でも、ごめんなさい。ルカヱルさんが言ってたアトランティスっていうのは、大陸? とか地方の名前なんだよね。海とは違うかなー、って」

 当のリンも、そのあたりの繋がりの強さを判断しかねているらしく、自らそう断る。

「いや、ありがとう。すごく参考になった。だからこそ、少し引っかかるところがある」

「何がですか?」と、リンがすぐに尋ねる。

「語感――いや、語源かな。私も長生きしてるからね、語源を思いつくくらいの知識はあるんだけど、アトラス……。まさしく、アトランティスって言葉が、その語源なのかも」

「え……?」リンは目を丸くした。

「アトランティスのことを知っていたひとが、かつてのアヴァロンにはいた。――のかもね。事情は分からないけれど。その呼び名について、興味が出てきたよ。もし機会があったら、少し詳しく調べてみる」

「そう? 役に立てて良かった! それに私も気になって来た――古代のアトランティス大陸、それを語源にした海の呼び名が、昔は使われてたかも、なんて。こういうの、なんていうのかな。そう――」

「浪漫がある?」

と、ヲルタオが言うと、リンが「それ!」と手を叩いた。

「あ、そうだった。ヲルタオのほうは? あの鉱石、やっぱりもうどこにも無かった……?」

「いや! 今回はあったよ、かなり見つけて来た」

 そういって、ヲルタオは金属製の箱を掲げた。「今から、さっそく仕込みに入ろうかと思う」

「さすが! いやー、でも良かったぁ。もう、二度と写真機を動かせないかと思ったもの」 リンはエプロンを解き、キッチンの陰に掛ける。「ルカヱルさん、セタさん。私、急ぎ写真機の仕込みをしたくて、ちょっと外すね。ヲルタオ、手伝ってくれる?」

「もちろん。暗室の中じゃ、碌に作業できないでしょ?」

「ありがと! お願いね」

 そうして、二人は席を外し、ルカヱルとセタだけが残った。

「おお、いよいよ写真機が――俺、どうやって使うのか、凄く気になります」

「ふふっ、私も。水の中とか、夜は使えないって言ってたけど、どんな風に動かすのかな、あの箱」

 セタは、頭の中でいろいろ想像を働かせた。「光を使って描く」とリンは大雑把に説明してくれたが、実際の駆動原理は、まだよく分かってない。

「――そうだ、ルカヱル様。さっきの話ですが……」

「アトラス海? セタは私の考え、どう思う?」

「一理あると思います。というか……そう言われて気付いたんですが、現代で使ってるも、少しアトラス海の名残がありますよね」

「――パシファトラス、でしょ」

「そう、それです。区切るなら、パシフ・アトラスですか? 単なる名前だと思って気にしてませんでしたが、あの名前の意味は――もしかして単にジパング側から見たときのあの海の呼び名と、アヴァロン側から見た時の海の呼び名を、混ぜただけ?」

「だろうね」

と、ルカヱルは呆れたように笑った。「確かに、昔のジパングにはいたのです。あの海のことを、パシフィスって呼んでた人が。だから、パシフィスとアトラスっていう、があった。それが完全に統一されたのは――たぶん、世界地図ができた時だろうね。その時、パシファトラスという呼称が付いた。昔からアヴァロンは航海技術が発達してたけど、交易船がパシファトラスを渡って直接ジパングに行くようになったのも世界地図が完成した後だったし」

「な、なら、本当にかつてのアヴァロンに、アトランティスの生存者が……?」

「今のところ、確かめる手段は思いつかない。けど、事情を全部知ってそうな人なら、思い当たるよ」

「白魔女様。――ですよね。だって、世界地図の作成者だから」

「そ」

と、ルカヱルは頷いた。「今度、図鑑を持っていったら、絶対に聞かないとね。世界地図に描かれたあの大海のこと」


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