「竜」図鑑アトリエの魔女
漆葉
「魔女」と竜の図鑑
第1話
「どうか、竜の図鑑を作って欲しいのです」
「東の魔女」ルカヱルにこんな依頼が舞い込んだのは、朝のことだ。
スープを火に掛けていたのに、とルカヱルは少しだけ、部屋の奥を見遣る。
依頼人はジパングの役人だった。
「このプロジェクトには、ルカヱル様のお力が必要です。なにとぞ、ご助力をいただけませんでしょうか」
「んー……」
ルカヱルは、少し迷った。
スープが冷めてしまいそうだ。
ただしスープの温度を理由に役人を無下に扱うつもりはない。
「魔女」は達観した生物だが、基本的に人間に対して抜群に友好的である。一応、普通の人間と生物学的に異なる希少生物で、「魔女」には普通の人間が持っていない超常的な能力も発現しており、魔法と呼ばれている。
何より暇を嫌う生態であり、常軌を逸した生命力で送る途方もなく長い魔女ライフの大半を暇つぶしのために送る。
そのため“面倒ごとに巻き込まれた”という感覚が存在せず、むしろ面倒ごとを好む。もし役人が依頼を持ってきたとすれば、それが面倒であればあるほど、魔女にとっては魅力的なのだ。
――ただ“得意・不得意”は、もちろん魔女にもある。
ルカヱルは咳ばらいを、まるで枕詞のように挟んだ。
「図鑑っていうのは、私が竜に近寄って、観察して?」
「おっしゃる通りです」
「それで、図か絵を描いて?」
「ええ、まさに」
「それで……そう、
「可能であれば何卒。ただし」と、役人は咳払い。「我々としては、市民たちが竜の姿を知ることができる、学術的な書物を作りたいのです。――つまり、重点を置いているのは、竜の挿絵です」
むぅ……、とルカヱルは口を少し斜めにする。
「プロジェクトは、ジパングを始めとした各国で並行して進められていく予定です。他の魔女様にも、同様の依頼が打診されていることかと存じます。これまで竜のことは各地で伝承や口伝ベースで情報をやり取りしていますが、時折棲み処を移動する竜への
「そうはいってもですね……」
と、魔女が腕を組んで首を傾げて。
役人は顔色を窺った。「な、なにか不都合が? 申し訳ございません。長い時間がかかる“暇つぶし”を、どの魔女様もご要望とお聞きしているので……お気に召さなかったでしょうか」
「いや、そのですね。確かに暇つぶしとしては楽しそうなんだけど……」
「けど――?」
「私、絵心無いですよ」
「えっ……絵心が?」
さてそれから、絵心のなさを証明する作業が入った。ルカヱルは「あれを書いてみる。見ててください」と宣言し、どこからともなく取り出した分厚い自由帳に、袖からスルリと取り出した筆で絵を描き始めた。
数分して、役人たちは次々に目を細め、首を傾げ、少し唸り、やがて勇気あるものが、こう口を開いた。
「その……あ、あの、こんなことを聞くのは、失礼だと承知で大変恐れ入りますが」
「うん」
「いま、何を描いていらっしゃるので……?」
ルカヱルは、まるで気分を害した様子のない、自信満々な笑みを浮かべて、こう言い放った。
「花」
「……花」
ルカヱルが見ていた方向を役人が再確認すると、確かに花はあった。
ただ、ルカヱルの描いているモノが、花とは判断し難かっただけである。何をモデルに、どの部分を描いているのかすら分からないほどに。
そうして、役人たちは、いったん依頼の件を持ち帰ることとなった。
ルカヱルは役人が帰ったあと、花の咲いているところへと近寄って、自主的に少し描き足した。
完成した。
歪み切った花弁の輪郭と、陰影を狂わせる茎の射線に、サイズ感のおかしな葉っぱ――と解釈できるかもしれない抽象画アートが、そこに完成した。
「私にはこう見えてるんだけど……。やれやれだな」
とはいえルカヱルは、自分がこんな絵しか描けない理由を、数百年生きてきて、なんとなく分かっていた。
“自分に”――あるいは、“魔女に”絵心が無いのは、比喩ではなく文字通り、物の見方が「歪んでいる」からだ。
魔女は“マナ”という物質が視界に見えてしまう。
人間たちが技術の粋をかき集め、馬鹿らしいほどのエネルギーを割いてようやく結晶として抽出できる物が、常に見えてしまう。
例えるなら、輪郭のない湯気や煙に近い。
あるいは、揺らぐ光や水と言ってもよい。
ともあれ、マナが魔女たちの視界を「屈折」させるのだ。魔女の目にそのままの姿として映るのは、マナを一切持たない「人間」などである。
この世界の鉱石や植物と言ったものの多くは、マナを持っている。
さらに一部の希少生物も、マナを持っており。
その中でも特にマナの保有量が多い、強大な生物がいる。
それが、「竜」だ。
「私に竜は描けないよ。あんなに形のないもの、私から見れば、風や炎、雷と水――そんなのと、大差ないからね」
ルカヱルは独り言を零すと、手帳を仕舞い、筆を仕舞い、そして家の中へと戻って、ぬるくなったスープを温めた。
*
「――ルカヱル様。いらっしゃいますか?」
「なに? いますよ」
さて、しかし後日になって、役人は再び彼女を尋ねたのだ。
ちょうどガーデニングの最中だったルカヱルは、手に持った鎌をクルクルと器用に回しながら、家の裏手から姿を現す。
「何か御用? この間とは別件で、また暇つぶしのネタが出来ましたか?」
「いえ、別件ではありません。ルカヱル様、改めて、補佐を付けますので、竜の図鑑の作成をお願いできませんでしょうか」
「だから、私は絵が描けな――……え、補佐?」
ルカヱルは目を丸くした。
役人は少し緊張気味の声色で話を続ける。
「ぜひ竜の絵を描きたいという希望者が現れまして……。その者、絵の腕は確かなのですが」
「竜に生身の人間一人で近づいて呑気にスケッチなんて、自殺行為ですよ」
と魔女。
「全くおっしゃる通り」
役人は特に反論も無く、首を縦に振った。
「――あ、もしかして私の役割って、そういうことですか?」察しが行ったルカヱルが手を叩く。「その絵描きさんの手伝い、ってことね」
「はい」
と、役人は頷き、説明を続けた――
ルカヱルへの詳細な依頼事項は、絵描きの護衛とガイドとなる。その絵描きと共に大陸を回り、棲息する“竜”の外観と生態を全て図鑑に記録する。
まずは“ジパング”に棲み処を持つ竜から、南、西、北へ向かって順に大陸を進む――各国での交渉が上手く進んでいれば、他の魔女様たちも同じように図鑑づくりを始め、最後に大陸の中央の集合位置で各魔女たちの情報を持ち寄り、図鑑として編纂する。
「ふふっ、つまり文字通り、この大陸中を回ると? 本当に手間のかかる暇つぶしを考えてくれたね。しばらく退屈し無さそうです」
「恐縮です。依頼を受けていただけるようでしたら、周辺国に急ぎ通達します」
「それで――その絵描きさんは?」
役人は少し頭を下げて、体を一歩横に逸らす。
その背後から、成人前と思しき少年が覗いた。癖のある黒髪が目に掛かった彼は、ルカヱルと目が合うと、目を合わせたまま、一歩退いた。
「君?」
短く問う魔女。
少年は頷いた。
「せ、セタです――よ、よろしくお願いします」
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