飲兵衛達が歩く月の夜

第1章 三月は春、賀茂川にて

第1話 春、賀茂川、留年

 春は三月。

 花の香りを孕んだ風は、温もりと共に京の街に季節の到来を告げていた。


 夕暮れ時の町が茜に染まる頃。

 空には静かに満月が昇り。

 どこかで酒の街が門戸を開く。

 

 ○


 賀茂川沿いに存在する小さなベンチで、彼女は酒を飲んでいた。

 ベンチのすぐ横には桜の木が満開の花を咲かせている。

 僕が近づくと、彼女はヨッと手を上げた。

 その姿を見て、僕は呆れてため息を漏らす。


「先輩、何やってるんですか……」

「何って、見たらわかるでしょ。酒飲んでんのよ。飲むって言ったじゃん」

「いや、聞いてはいましたけど。何でもう飲んでるんですか。呼び出すなら、せめて待っててくださいよ」

「あんたが遅いから待てなかったのよ……」


 彼女は、ロングサイズの缶ビールを手に持っていた。

 酒を煽るその姿は、まるで飲み屋に居るおっさんだ。

 とても同じ学生とは思えず、もはや見ていて清々しい。


「一応これ……差し入れです」


 スーパーの袋をベンチに置くと、先輩は目を光らせた。


「何買って来たの?」

「エビスビールです」


 すると彼女は僕を人差し指でビシリと指差す。


「あんた合格」


 差し入れに合否をつけないでほしい。

 彼女は躊躇せずに袋に手を突っ込むと、新しい缶を取り出した。

 そしてなんの躊躇もなく缶を開ける。


「先輩、ちょっと待ってください」

「何よ」

「手に持ってるそっちのビール、まだ残ってるんでしょ?」

「チビチビ飲んでたらぬるくなっちゃってね。あげる」

「要りませんよ」


 冗談かと思って僕が笑うと、彼女は真顔でこちらを見た。

 どうやら冗談ではないらしい。


 これを飲んだら間接キスになるのか……。

 彼女とはそれなりの付き合いになるので、別に今更ではあるのだが。

 意識しないかと言うとそれは嘘になる。

 何故ならこの酒飲み女は、何だかんだ顔は良いからだ。


 髪を風になびかせながら賀茂川を虚ろに見つめる彼女の横顔は、普通にしていればそれなりに絵になるだろう。

 もちろん、酩酊して「ぐっぷ」としゃっくりしているので絵になることはない。


 僕は黙って彼女の横に座ると、手渡されたビールを口にする。

 完全にぬるいわけではないものの、確かに買って来たばかりのビールには負けた。


 すると「コラ」と頭を小突かれた。


「乾杯しなさいよ、せっかくなんだから」

「何がせっかくなんですか……」


 理不尽な人だ。

 でもこれを「理不尽だ」と思わなくなる程度には、僕たちの付き合いは長かった。

 これが僕たちのいつものやり取りだからだ。


 僕がビールの缶を差し出すと、コンと缶がぶつかる音が響く。


「そう言えば、他のみんなは来てないんですか?」

「来ない。今日はあんたと私のサシ飲みよ。たまには悪くないでしょ」

「どうせ逃げられたんでしょ?」


 僕が尋ねると、彼女は黙り込んだ。


「やっぱり」

「……うるさいわね。先輩の誘いを断る後輩はみんなクズよ」

「無茶な飲み方させるからでしょ。アルハラって言うんですよ、そう言うの」

「一緒にしないでちょうだい」


 皆が逃げるのもよく分かる。

 この先輩の飲み方について行けるのは、サークル内では僕くらいだからだ。

 僕は昔から酒が強く、酔いつぶれた経験がない。

 酒豪で有名な親戚のおじさんと飲み比べて勝った事もある。


 だからよく、この先輩――長谷川トモの飲み相手に選ばれるのだ。


「それで、どうだったんですか? 卒業のかかった後期試験」

「落ちたわ」

「えっ?」


 耳を疑う。

 彼女は平然とした顔で賀茂川を眺め、ビールを飲んでいた。


「留年確定よ。命を懸けた憲法Ⅱ。穴埋め形式の問題で、会心の出来だった」

「じゃあ、何で……?」


 彼女はまっすぐ僕に顔を向ける。


「解答欄が一個ずれてた」

「最悪だ……」


 思わず寒気がした。

 その時の先輩の焦りは、尋常じゃなかっただろう。


「そう言うのって、教授に言ってどうにか慈悲をいただけないんですか?」

「ダメよ」

「でもやってみないと」

「焦って書き直そうとして全部答え消したから」

「あぁ……」


 どうしようもない。

 前からどうしようもない人だとは思っていたが、人生もどうしようもなかった。


「何か失礼なこと考えてるでしょ」

「いえ、別に……」


 ごまかすようにビールを飲むと、彼女はポンと優しく僕の肩を叩いた。


「そんなわけで、四月からよろしく」


 先輩こと長谷川トモはそう言うと、イタズラっぽく笑った。

 留年が確定したその日。

 学生からしたら最悪の状況の中、今日も彼女は元気に酒を飲んでいる。

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