七、早く君の声が聴きたいです ※注



 崖を越えた先には森が広がっており、その奥に黒衣の青年が教えてくれた霊泉があった。


 驚くほど透明で、森の中にできた泉にしてはそれなりに深い。霊泉に入るため、櫻花インホアは左手に巻いていた布や紫色の細い腰紐を解き、纏っていた道袍を脱いで薄い衣一枚だけになった。


 道袍は上手く畳めないのでそのままにしており、巻いていた布も腰紐も無造作に置かれている。いつまで経ってもこればかりは苦手で、気付けばいつも肖月シャオユエが綺麗に畳んでくれていた。


 冷たい霊泉に爪先からゆっくりと浸かっていく。足がぎりぎり届くくらいの深さの霊泉で、油断すると口元まで浸かってしまう深さだった。


 手を伸ばし、白蛇姿の肖月シャオユエを両手に乗せるように湖畔から持ち上げると、揺らさないようにそっと自分の方へと持っていく。


 左手の甲に浮かぶその墨色の紋様は、太陽のような月のような抽象的な紋様で、最初に見た頃よりもだいぶ濃くなっている。


 これが完全な黒になった時、自分の寿命は尽きるのだろうか?


 あと三年あるかどうか。


(私は、まだやることがあります······もう少しで、それが叶うかもしれない)


 死んでも良いと、死にたいと、思った時もあった。けれども、あの日。ひとつの希望が櫻花インホアを暗闇から掬い上げた。


 閉じられた肖月シャオユエの瞳。白蛇姿のその瞳は、開いている時はとても小さくて可愛らしいのだ。


 いつからだろうか。


「君が静かだと、なんだか落ち着きません」


 いつから、だろうか。


「私は君に、必要ないと、ひとりが好きと言ったけれど、」


 君が、傍にいてくれるせいで。


「君がいないと、私は······」


 白蛇をその胸に抱きながら、落ち着く温度に眼を閉じる。


 あたたかい。


 いつだって、君はあたたかい。


「早く君の声が聴きたいです」


 どうか、その青銀色の瞳を開いて、いつものように笑いかけて欲しい。


 森の木々の隙間から薄っすらと差し込む陽射しは、空から零れた光のようでなんだか神聖だった。


 櫻花インホアは閉じていた瞳を見開く。


 いつものような「ぽん」という間の抜けた音もなく、気付いた時にはその腕に抱きしめられていた。冷たい泉の中にいるのに、その突如触れられた温もりに安堵している自分がいる。


 薄い衣一枚しか纏っているものもなく、水に濡れて肌色がわかるくらい透けてしまっていた。


 本当なら恥ずかしくて死にそうになるはずなのに、今はそんな気持ちよりも、目の前に確かに"いる"ことが嬉しくて。その腕の中に抱かれていることに安堵する。


「心配かけてごめんなさい」


 耳元で囁くように呟くその声は、本当に申し訳ないという気持ちが伝わって来る。いつもの衣を纏ったままの肖月シャオユエは、白髪から滴る雫が頬をつたっても、拭うことはしなかった。


 泉の中でふたり。

 そのわずかな温もりを求めるかのように、離れられずにいる。


 なにより、櫻花インホアを抱きしめたまま、放したくないという気持ちの方が強かった。


肖月シャオユエ、あの時の約束を破りましたね?」


 肩越しにかけられた言葉に、「?」と肖月シャオユエは首を傾げる。


 約束?


「私なんかのためにその尊い命を懸けたりしないと、最初にそう約束したはずです」


 櫻花インホアの表情は見えないが、言いながら口が尖っていることだけはわかる。きっと、頬も膨らませているのだろう。


 それを想像すると、叱られているはずなのになんだか微笑ましく思ってしまう。


 しかし、確かに今回は一歩間違えたら危なかったかもしれない。


 あの時の咄嗟の判断が間違っていたら、その結果は違っていただろうし、運が悪ければその時点で壺が限界を迎え、瘴気がこの地を覆い、最悪の事態になっていた可能性もあった。


「うん、本当に、ごめんね? あなたを不安にさせた、俺が全部悪い」


「わかってくれればいいんです。今後は同じことがあっても、絶対に私を庇ったりしないでください」


 それは、約束できないかな、と肖月シャオユエは心の中で首を振りつつ、抱きしめていた身体を放す。


 改めて櫻花インホアの姿を見ると、濡れて透けてしまっている肌がやけに色っぽく、今更ながら自分の理性を褒めてやりたいと思った。


 ふと、透明で澄んだ泉の中に見えたモノ。左手に浮かんでいる奇妙な紋様に気付く。


「これ、なに?」


 その手首を掴み、自分の目の前に翳すように掲げさせ、左腕を腰に回して抱き上げる。そのせいか、爪先立ちをしていた櫻花インホアの足が泉の底から離れ、水の中に浮いた状態になった。


「この刻印、もしかしなくても、あの黒竜サマがやったの?」


 左手に刻まれているその紋様を見たのは、実は初めてだった。浮かぶ濃い墨色の刻印は、櫻花インホアの寿命を表わしているのだろう。引っ込めようとする櫻花インホアに対して、肖月シャオユエの指先に力が入る。


黑藍ヘイランを悪く思わないであげてください。あの子は四竜ですが、一度命を落としたせいで、それまでの記憶が無くなっているんです。四竜は流転するので、常に欠けることはないと聞きます。しかし命を落とせば、姿は同じでも性格や思考が変わることも稀ではありません」


「そんなこと、俺には関係ないし、興味もない。同情はするけど」


 櫻花インホア黑藍ヘイランを友として扱っているのに対して、「お前なんてよく知らないのに、絶交とか馬鹿なのか!? そもそも友ですらないぞ!」という態度が、その証拠である。


 他の四竜たちがそれに触れないのは、鷹藍インランの意向であるが、それを仮に知っていたら、あんなことは起こらなかっただろう。


肖月シャオユエ。私はあなたに言っていないことがたくさんあります。でも、いつか、」


「俺は、あなたが好きだよ。それは、ちゃんと伝わっているよね?」


 掴んだままの左手を自分の口元に運び、肖月シャオユエはその手の甲に唇を落とす。その瞳は櫻花インホアを真っすぐに見つめたまま、一度も揺らぐことはなかった。


「私、は······、」


 頬が耳が熱い。

 その唇が触れている左手が、熱い。


 胸の鼓動が、どくんと跳ね上がるくらい身体中に大きく響き、息苦しい。


 その次の言葉が、喉元まで上がってきたが、呑み込む。


「ごめんね、ちょっと嫉妬した。こんなことをしても赦されてる、あの黒竜サマに。俺はもう平気だよ。これ以上浸かっていたら、あなたの身体が冷えてしまうから、」


 解放された手首に安堵したが、触れ合ったままの身体の熱が下がらないことに困惑する。


 促されるままに泉から出て、普通なら寒さを感じるはずなのに頬が熱い。濡れた衣を脱いで道袍を纏っている間も熱が治まらず、櫻花インホアを悩ませ続けた。


(私は······、私の、気持ちは········?)


 そんなものは、もうずっと前に、解っていたはずなのに。


 着替えている間、肖月シャオユエ櫻花インホアを見ないように背を向け、焚火の準備をしてくれていた。その気遣いも、優しさも、強い想いも。


 君のことを想うと、なんだかあたたかい気持ちになる。

 真っすぐに向けてくるその気持ちが、嬉しい。 

 いつもくれるその何気ない言葉が、嬉しい。


 この気持ちを、なんと呼べばいいのか。

 それを口にできたなら、良かった。

 

 しかし自分の中の暗い部分が、浮かび上がっては何度も、冷たい地の底へと誘う。


 大切なものはいつも、この手の中から零れ落ちていくのだ、と。


 忘れるな、と。その影が頭の中で囁く。その度に思い知らされるのだ。


 お前の強運は、他の誰かを不幸にする――――。

 あの悲劇も、お前が生んだのだ、と。


 忘れるな。

 忘れるな。

 


 それでも、希望は確かにここに"ある"、ということを――――。



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