彼の動き

『ピエリ・ラダス卿』


 勲章を手に、裏面に刻まれた私の名前を改めてのぞき込んだ。


 以前はこれを見るたびに誇らしかった。私が人を守ったということを、力を価値あるように使ったということを証明してくれるようだったから。辛い時もこれを見れば元気が出て、嬉しい時はさらにやりがいを感じさせてくれる証だった。


 でも今は……。


「……意味のない感想だね」


 誰もいない研究室で独り言で気持ちを整理することにも慣れてきた。それでも個人研究室なので、人に聞こえることはないが……。


[哀れだな。あの大英雄サマが部屋に閉じこもって独り言を言うとは]


「アカデミーにいる時はむやみに通信するなと言ったはずだ、ボロス」


 机の上を睨んだ。いろいろな筆記具を入れた入れ物……として偽装した通信用魔道具だった。


 このような形に偽装したのはもちろん安息領との連絡用だからだが、このように露骨に連絡するなと一体何回話せば分かるのだろうか。


 連絡した男はいつものように太い声で私の言葉を笑い飛ばした。


[はははは、これくらいで何を。あまり敏感にならねぇぜ、友よ]


「バレたら困るのは私よりも貴様らだと言っただろう」


[バレねぇようにあれこれ込めておいただろ? こちらもその周辺に人がいねぇってことくらいは見て連絡したぜ]


 厄介者め。


 こいつはいつもこんな風だ。利用しやすいのを越えて自分の方で利用してもいいと豪語するバカなのは良いが、その代わりに私の領域にも躊躇なく土足を踏み入れる。


 しかし、イライラしても堂々と問い詰めても笑ってばかりいる奴だから、私だけが損だ。理不尽な奴め。


「それで? 今度はまた何だ?」


[そこでやっていた仕事が気になってさ。そろそろ成果が出る時期になったんじゃねぇかと思ったぜ]


「まだ何年も残ってる」


[はあ、高名な大英雄サマは辛抱強ぇぜ。今まで待っていただけでも十年は経っていなかったかよ?]


「二十六年だよ、バカもの。貴様は時間感覚もないか?」


[はは、いつも同じことばっかで生きていたら、そんなこともあるぜ]


 気楽な奴め。


 ため息が出る。ずっとこいつに気を使うのもイライラしそうだし、話が出たついでに計画でも点検してみようか。


 そんな気持ちで軽くモニタリング用の魔道具を取り出した私は、作動させるやいなや眉をひそめた。


 一種の幻術系魔力でアカデミー敷地の様子を立体映像で見せる魔道具だ。ここに計画と関連したものが表示されるようにしておいたが、そのうち邪毒陣が半分程度消えていた。その上、見ている今も一つずつ消えているところだった。


「これは……」


[何だ、何か面白ぇ匂ぇがするんだぜ]


「……確かにそうだね」


 感嘆すべきか、それとも呆れるべきか分からない。まさかこっちの方が先にバレるとは。


 消えるパターンを見れば、これは個人の仕業ではない。多分三つから四つほどのグループだ。


 邪毒陣を隠蔽する際に使った隠蔽術はかなり強力だが、それを探知する魔道具は警備隊と修練騎士団の両方が持っている。


 そういえば元執行部長のガイムス君は今回の邪毒陣の本質を見抜ける特性を持っていた。なら修練騎士団か? それとも警備隊と協業したのか?


 しかし、警備隊であれ修練騎士団であれ、今まで気づかなかったことを突然知った理由が分からない。急にそれを突き止めるような人物は私が知る限りいないのに。


 ……いや、そういえば。


 そこまで考えが到達した瞬間、思わず微笑んだ。


[あんまり気分が悪くなさそうだな? あれ撤去されたら良くねぇんじゃねぇかよ?]


「そうなんだが……まぁ、見れば分かると思うよ」


[また秘密かよ? まったく英雄サマは……]


「それにしても、ローレース部隊はどのくらいある?」


[あぁ? あのおもちゃ部隊のことか? お前が提案した単位で大体三部隊ほどだぜ]


「二つの部隊をアカデミー周辺に潜入させろ」


 ボロスはしばらく黙っていた。


「どうした?」


[……それでもいいのかよ? その部隊かなり心血を注いで準備したはずだが]


「どうせ量産体制に入ったから大丈夫だ。運用する奴らは誰になろうが関係ないし」


[はっ、どうせ量産できるから捨て石として使っても構わねぇって? 大英雄サマもかなり堕落したな]


「一言多いだ……」


 その瞬間、部屋の外から近づいてくる気配を感じ、通信を強制的に切ってモニタリング用の魔道具を隠した。


 直後、誰かが部屋のドアをノックした。


「はい、お入りください」


 研究室にかけておいた侵入防止結界をドア側だけ解除した。間もなくドアが開き、一人入ってきた。


 とても美しいが年齢の割に背が高く、それ以上に強くて才能あふれる美少女。テリア・マイティ・オステノヴァさんだ。


 出会って間もないが、幼い年でも尋常ではない能力を見せて、かなり頭に強く刻印された子だ。


 先生の真似のために心にもない笑みを浮かべて応対する。


「どうしたんですか、テリアさん?」


「こんにちは、先生。急に訪ねてきてごめんなさい」


「いいえ、いつも学びを追求する生徒がいるというのは私にも嬉しいことです」


 テリアさんは私の言葉に明るく笑った。綺麗で美しい笑顔だった。


 ……こんな綺麗な笑顔を見て真っ先に思ったのが〝あの笑顔がいつ汚れるか〟なんて、私もずいぶん歪んでいるね。


「ありがとうございます。実はラダス先生にお願いしたいことがありまして」


「そんなに格式をとる必要はありません。気軽に話してください。ご希望の席にお座りください。お茶は何がお好きですか?」


「ありがとうございます。すぐ終わる用件なのでお茶は大丈夫です。どうせ全部飲めないと思うんですの」


 テリアさんはドアを振り返り、少しためらっているようだった。誰が聞いてはいけない種類の話か。


 魔力でドアを操作して閉め、侵入防止結界を復旧した。するとテリアさんは安堵の胸を撫でおろした。


「ありがとうございます。少し敏感かもしれない問題ですので」


「敏感な問題……なら勉強ではないですね。あ、試験問題の流出とかはダメですよ?」


「あはは、そんなことないですよ」


 ドアを閉めたのに不安なのか、それとも本来の性格が慎重なのか、テリアさんは机の向こうから身を差し出し、手を口元に当てて小さくささやいた。


「実は誰かがアカデミーに密かに邪毒陣を設置したようです」


「ほう? そんな質の悪いいたずらをする生徒がいましたか。それともまさか部外者が?」


「そこまでは分かりません。それでも邪毒陣が設置されたこと自体が大きな問題なので、修練騎士団でも探していますの。ところで……どうも邪毒陣ですから不安ですので」


 つまり、生徒レベルで耐えられるか不安で私を訪ねてきたということか。そういうこともあるだろう。私が撒いておいた邪毒陣の数はすごいから。


 しかも、修練騎士団の首脳部のメンバーなら、邪毒陣の用途ぐらいは簡単に分かるだろう。用途と数量を考えると、それが単なるいたずら程度に終わらないということくらいはバカでも分かるだろうし。


 それで名声のある私に訪ねてきて助けを求める、と。一理ある話だ。


「私の助けが必要かもしれませんね。そう思って来たんですよね?」


「はい、そうですの。できるだけ私たちだけで解決したいのですが、万が一のためですわ」


「よくお考えでした。自分で解決しようとする熱意も重要ですが、万が一の事態に備えることもとても重要なことです。私も別に備えます」


「ありがとうございます! さすがラダス先生ですわね!」


「ふふ、これくらいは当然やるべきことですよね。しかし修練騎士団の方も注意を怠らないでください。邪毒陣をそれだけ撒いておけば邪魔になるのは嬉しくないでしょうし、監視する手段も用意したはずですから」


「ああ、それは恐らく大丈夫ですの」


「ほう? なぜですか?」


 テリアさんは相変わらず明るく笑っていた。しかしその瞬間、私の目にはもうその笑いが天真爛漫に見えなくなった。


「監視はしっかりしているはずですわ。恐らく私たちや警備隊が動いていることにも気づいたのでしょう」


「それならもっと危険なのではないでしょうか?」


「大丈夫ですの」


 彼女の目をどう説明すればいいだろうか。


 明らかに顔は完璧に笑っていた。怪しいと言える要素も全くなかった。それでもその目から私が感じたのは冷たさだけだった。目の中で揺れる魔力……まるでジェリアさんの『冬天』に直接向き合ったようだ。


 あるいは私のすべてを見抜くような……過去、私がまだ騎士団にいた時代〝ある人〟から感じたことと似た感覚だった。何よりもその魔力はまるで露骨だった。


〝あの笑顔がいつ汚れるか〟なんて、バカみたいな考えだったね。もう十分〝汚れた〟子だった。


「私なら生半可に動くよりはむしろ次の機会を狙いますわ。それだけの隠蔽術を使って邪毒陣を秘密裏に散布するほど慎重であればですわね。すでに邪毒陣を多く失った状態で無理をすることと、次の機会を狙うこと。どちらがもっと安定的かは明らかでしょう」


「なるほど。確かに一理あります。それは直接考えたんですか?」


「半分くらいはですね。半分は他の人から聞いた話ですの」


「ふふ、優秀な人材がいるようですね。いいですよ。その件についてはさっき言った通りに処理しましょう」


「ありがとうございます!」


 その言葉を最後にテリアさんは部屋から出た。


「……面白いね」


 思わず呟いてしまった。そうでなければ耐えられないほど、あらゆる考えと感情が頭で渦巻いている。


 多分、いや十中八九テリアさんは知らないから来たのではない。無邪気に修練騎士団の行動を全部暴きに来たバカでもない。


〝私なら生半可に動くよりはむしろ次の機会を狙いますわ。それだけの隠蔽術を使って邪毒陣を秘密裏に散布するほど慎重であればですわね〟


 言うこと自体は不思議ではない。しかし、あえて言う必要はない話でもあった。


 普通は私が気をつけろと言った時に「はい、そうします」と一言だけ言えばいいのだ。ところがあえて監視を前提とする推測に言及し、あんな話まで持ち出した。しかも露骨な眼差しまで。


 まるで……と言うように。


 そんなことをここまで来て言った理由はただ一つ。


 ――私は貴方の正体を知っている。だからでたらめなことはしない方がいい。


 その『警告』を、私に伝えること。


 恐らく計算に入れた行為。


 単なる考え過ぎかもしれない。私がこのように考えるのも、ただ彼女の気配が変だったという感じのためであり、論理的な理由はない。


 そもそも今の私の正体を知っている者は同じ安息八賢人の奴らだけ。他には安息領に属した奴らさえも私の正体を知らない。私の家族を死なせた奴らさえも同じだ。


 ……でも、オステノヴァ公爵家の情報力なら私が変節した理由を見つけるかもしれない。それが安息領に直ちにつながるわけではないが、推測程度はできるだろう。


 もしテリアさんの独断ではなく、オステノヴァ公爵の指示を受けて動くのなら、ここで生半可に行動するのは愚策だ。


 しかし動く方法がないわけでもない。たとえば自分自身の尻尾を全く出さない方法とか、あるいは……バレたという事実を逆に利用する方法とか。


 いや、最初からテリアさんの狙いは、私のやり方をそんなものに制限するものだったのかもしれないね。


 興味と楽しさが心の奥底で沸き上がって、私は思わず笑い声を流していた。


―――――


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