浄潔世界

『バルセイ』の私は特に生来邪悪だった人ではなかった。しかし、ある事件によって私は〝堕落〟してしまって、それによって悪役になってしまった。


 そしてその堕落の原因を提供した事件が、『バルセイ』のファンたちが〝始まりの洞窟事件〟と呼んだ事件だった。


「人払いをする方がいいのかしら?」


「はい、お願いいたします。あ、トリアは大丈夫です」


 邸宅の書斎に入るやいなや、母上の指示でトリア以外の全員が退室した。


 やがて書斎に母上と私、そしてトリア三人だけが残るようになると、母上は優しい笑みを浮かべながら私を振り返った。


「よし、できたわね。で、お願いって何?」


 母上の声と眼差しは暖かくて優しかったけれど、私は緊張で唾を飲んだ。


 なぜなら……今から話すことは『バルセイ』の最も重要な事件と関連したのだから。


 前世もゲームも、証拠のないことは話せない。母上はいい御方だけど、空想でしかあり得ない空虚なことを信じる御方ではないから。


 しかし、これからやるべきことのためには、必ず母上の許可が必要だ。


「母上、最近クラウン山脈について調査が進んでいますよね?」


 そう切り出した瞬間、母上の眼差しが少しだけど鋭くなったことを感じた。


 直後、母上の視線がトリアに向けられ、トリアは首を横に振った。すると母上の視線がまた私のところに戻った。


「それは急にどうして聞くの?」


「お願いしたいことがあります」


「どんなお願い?」


「それは……申し訳ございません。まずクラウン山脈のことを確認しないと申し上げられません」


 頭を下げて無礼を謝りながらも、言葉だけは大胆に。


 実は心では少し怖かった。別に反抗とも言えないレベルだけど、これくらいの口答えさえもこれまではしたことがなかったから。


 幸い、母上は私の答えを不快に思わなかった。


「そこまで言うのを見ると、結構決心したみたいだね?」


 母上はそう言って、トリアを見て頷いた。するとトリアは少しため息をつき、口を開いた。


「最近、クラウン山脈一帯で不穏な噂が広がっています。実際、事前調査では邪毒に侵食された地域が増えたり、魔物が増えたという報告がありました。今は山脈一帯の危険度が高くなっています」


 邪毒。


 万物に否定的な影響を及ぼす特異な魔力のことだ。


 邪毒に汚染された生物は身体機能が故障して死んだり、あるいは本来の自我と形態が歪んで醜悪な怪物になってしまう。そのように変異した怪物がこの世界で〝魔物〟と呼ばれる存在だ。そして魔物たちは普通の生物とは格が違う身体能力と魔力を持ち、他の生物に敵対的な危険生物だ。


 すなわち邪毒に汚染された地域ということは、邪毒が命を脅かすだけでは足りず、魔物まで出没する危険地域という意味だ。


「やっぱりそうだったのですね」


「やっぱり、ね。何か知ってるの?」


 はい、ゲームでもそうだったんです。


 ……とは口が裂けても言えないけれど、とにかくその異変の原因が分かるのは事実だ。


 始まりの洞窟。正式名称はない。けれど多くのことが始まった場所だからプレイヤーたちが呼んでいた名前が固まった。


 そこである事故が起き、私に対するとんでもない誤解が生じ、皆に嫌われた。そして続いた憎しみと嫌がらせに苦しんでいた私は結局堕落してしまった……のがゲームの設定だった。


 その事故がクラウン山脈の異変と関連がある。


「ちょっと聞いたものがありまして。それより母上、お願いいたします」


「あら、何かしら? 何か不安な感じだわね」


 不安とは爪の垢ほども感じられない顔で笑っているくせにどういうことですか。


 そう言いたい気持ちをこらえて本論を切り出した。


「まもなく山脈に本格的な調査隊を派遣する予定ですよね?」


「そうよ」


「その調査隊に私も参加させてください」


 その言葉に対する二人の反応は、まぁ予想通りだった。八の子供が危険地域に行くなんて、良識のある大人なら許せないよね。


 母上の許諾を求めたトリアが先に口を開いた。


「ダメです。クラウン山脈一帯は今原因不明の邪毒増加現象の真っ最中です。そんな場所に幼いお嬢様を行かせることはできません」


「愛する娘のお願いはできるだけ聞いてあげたいわ。けれど、これだけは私もトリアに同意よ。愛する娘が危険な場所へ足を踏み入れることは許せないわよ」


「大丈夫です。どうせ調査隊には護衛を十分派遣される予定でしょう? そして今日、私がディオス公子を相手にしながらお見せしたものをお考えくださいませ」


 そう。そもそもディオスとの決闘はこの瞬間のためでもあった。


 もちろん一番大きな理由はディオスへの怒りだったけれど、ついでに私の力を披露する場にしようという考えもあった。特に最後に地面を吹き飛ばしたのはなおさら。


 しかし、母上は真剣な顔で首を横に振った。


「ディオスも同年代の子供よりは強いけれど、それでも子供よね。最下位の魔物一匹くらいならなんとかなるかもしれないけど、今のクラウン山脈のように何が起こるか不安定な場所なら話が違うのよ」


「大丈夫です。私が前面に出て戦うわけでもありませんから。もし何が起こっても護衛が来るまで耐えることくらいはできると思います」


「子供が追加されること自体が護衛には負担になるわよ」


 うっ、まったく憎らしいほど正論だ。


 しかしまぁ、言葉だけで母上を説得できるとは最初から思っていなかった。


 その時、トントンと扉の方からノックの音がした。


 やっと来たね。


「失礼します」


 母上の許可を得て入ってきたのは私と同じ年の少年だった。


 赤いくせ毛と赤色の目をした美少年。我が家の執事長であるハンスさんの息子であり、私の専属である見習い執事、ロベル・ディスガイアだ。


「ロベルだね。どうしたの?」


「はい、奥様。テリアお嬢様が頼んだものを持ってきました」


「テリアが?」


「はい、私が少し前に別にお願いしました。ロベル、私にちょうだい」


 ロベルが渡した包みをほどいた。


 出たのは私の手より少し大きいくらいの銀色のメダルだった。もちろん、ただのメダルではない。魔力を注入すると設定された機能を遂行する道具、すなわち魔道具だ。


 それを見た母上が首を傾げた。


「それは旦那様が残した邪毒魔道具だね。それはなぜ……」


 母上が話を終える前に、私はいきなり魔道具に魔力を注ぎ込み、最大出力で起動させた。


 魔道具から真っ黒な魔力がムクムクと盛り上がった。見るだけでも悍ましくて不快な魔力。これが邪毒だ。


 この魔道具は研究用なので濃度が非常に微弱なレベルだけど、それでも最大出力を長く浴びれば手に軽い障害が残ることもありうる。


「テリア、こっちに……!」


 母上は突然の行動に驚きつつも、魔道具を回収しようとした。しかし、その前に私が先に魔力で魔道具を覆った。


 その瞬間、魔道具に被せられた真っ白な魔力が急速に膨張し、大きな光の塊になった。


「これは……」


 母上はもちろん、淡々と立っていたトリアも驚いたように目を丸くした。特に反応がない人は、これが何なのか分からないロベルだけだった。


 膨張した魔力は邪毒とは正反対で、見ただけで汚れがきれいに洗い流されるような感じを与えた。その上、魔道具から噴き出してきた邪毒は跡形もなく消えてしまった。


 清らかで邪毒を消す魔力。邪毒を浄化する浄化系特性の力だ。それなりに希少ではあるけど、それだけではあまり特別ではない。


 しかし、私の魔力はそのような〝一般的な〟浄化特性とは異なる点が一つあった。


「魔力が……増幅された?」


 母上がぼーっと呟いた。


 本来、浄化系は邪毒と相殺する形だ。同じ量の魔力でどれだけの量の邪毒を浄化できるかは特性の等級によって異なるけれど、とにかく浄化すればするほど魔力が減るだけだ。


 たった一つの特性だけを除いて。


「奥様、これはまさか……『浄潔世界』なのですか?」


「そう……みたいわね」


『浄潔世界』


 そう、それが私の特性。浄化系の頂点であり、オステノヴァ公爵家の始祖様のものだという二つの特性の一つだ。


 邪毒に対してだけは神に比肩するほど絶対的な浄化能力と共に、『浄潔世界』だけが持つ権能――浄化した魔力を自分のものに還元する能力。


 世界唯一、邪毒を浄化するほど強くなる規格外の力である。


「テリア。いつ特性に覚醒したの?」


「先日です」


 実は正確な時期は私も知らない。そもそも前世の記憶を思い出すまで、私は特性を覚醒できなかったとだけ思っていたから。ゲームでも「実はすでに覚醒したが自覚できなかっただけだ」と言及された程度だったし。


「もちろん、私の強さが調査隊の役に立つほどではありません。それは私もよく知っています。でもクラウン山脈に邪毒が蔓延しているのなら、単純な強さ以上の危険が調査隊を脅かすかもしれません。そして……」


「邪毒が関係しているのなら、貴方の能力より役に立つ力はない。……そう言いたいんだよね?」


「はい」


「……はぁ。分かったわ、一度検討してみるよ。確かに貴方の能力が本当に『浄潔世界』なら、むしろ調査隊に参加してほしいとひざまずいて頼んでも足りないくらいだから」


 やっぱり。子供をむしろ調査隊に入れたいと言うほど、『浄潔世界』という特性の力は大きい。


「ただ、検討するっても許してくれると決まったわけではないわよ。そして、貴方の能力についてももっと厳密に検証しなければならないし」


「はい、すぐに決められないのは私も理解しています。では、良い結果をお待ちしております」


「分かったわ。あ、それでもこの話だけはしないとね」


 その言葉に私は緊張で身を引き締めた。でもそんな私とは違って、母上は私に近づき、優しく笑って私の頭を撫でてくれた。


「おめでとう。五百年間たった一度も現れなかった偉大な能力を持つようになるなんて、母としてとても誇らしいよ」


「……ありがとうございます」


 少しくすぐったい気分だ。


 でも悪くはない。たとえ努力ではなく生まれつきの才能による称賛ではあるけれど、褒められることを一体誰が嫌がるだろうか。


 ……こんな偉大な能力を持っていながらも、それに気づかず堕落したゲームの記憶さえなかったら、もっと純粋に喜ぶことができたはずだけど。


 そんなくだらない考えを頭の隅に押し込めておいて、私は幸せな気持ちをいっぱい込めて微笑んだ。


―――――


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