#10 まだ、結わえないもの。
「……んぅ……」
鼓膜を、微かな寝息が揺らす。
次いで、衣擦れ。それも、少し聞こえる——くらいのものではなかった。
がさがさ、がさがさ、と。鳴り止まない騒音の中で眠り続けるのもまた難儀なもので、仕方なく俺は重い瞼をこじ開けた。
「ひとり、のこらず……」
ソファーのちょうど真下。
足の部分にぴったり頬をくっつけて、ソフィーは何やら物騒なことを呟きつつもまだ寝ているようだった。
それにしたって、やっぱり寝相が悪い。
彼女が横になっていたはずの布団は彼方へ、それどころか、未だソファへの攻撃を試みて寝返りを打っては、衣擦れと共にぽすん、と乾いた音を立てる。
「……どうせ、無駄になるんだろうな」
若干のため息が混じってしまうのを感じつつも、放っておくのもそれはそれで忍びない。
抱っこ——とまではいかないが、軽く彼女の体を持ち上げ、元いた布団の場所まで運んでいく。
こんなところで目覚められたらたまらないな、とは思いつつも、幸い危惧していたような出来事は起きず、無事に彼女を布団まで戻すことはできた。道中で何度か蹴られたけど。
「……力加減がおかしいんだって……」
見た目の割には、全然力強い蹴りだった。
痛む腕をさすりつつも、すっかり目は冴えてしまっていて。
ふと時計を見やれば、示しているのは六時ちょっとすぎくらい。夏休みなのに、随分と早い朝だな、なんて。
昨日に引き続きそんなことを考えつつも、顔を洗うために俺は、洗面所へと足を向けた。
◇ ◇ ◇
「……ぷはぁっ」
夏場の夜というのは、実に蒸し暑い。その甲斐あってか、洗顔という形で一晩中溜まり続けていたカタルシスから解放される瞬間は本当に心地が良いものだ、なんて。どうでもいいことを考えながら、まだ水が滴っているせいでぼやけた視界にタオルを擦り付ける。
そうしてから、頭も視界も随分と明瞭になって——俺は、ふと思い出した。
「……寝癖直しって、どっかあったかな」
昨日、散々くしゃくしゃになっていてとかすのに苦労した金髪。今朝も、変わらず彼女の寝癖はひどいものだった。
だからと言って、毎日毎日アレをとかすのも随分と堪えるものがある。何か、丁度いい打開策でもあればいいんだけど——と、棚を一つ一つ漁ってみるも、元々俺自身、さほど寝癖はひどい方ではないためにそう言った類のものは使ったためしがない。
流石に諦めるか、とその場から離れようとして——。俺は一つ、まだ開けてすらいない段ボール箱が床の隅に置いてあることに気がついた。
「仕送り 洗面所周り」と。辿々しい字体の油性マジックで書かれたそれは、別に開ける必要もなかったからこそ、ずっとそこに放置してあったわけだが……この際、寝癖直しはあった方がありがたい。できれば開けたくはなかったが、この際、もう仕方がないだろう。
尚更ため息の回数が増えるのを感じつつも、蓋を掴む手に力を込める。
案外、呆気ないものだった。
少しだけ埃をかぶってはいたものの、歯ブラシやら櫛やら洗顔クリームやら——甲斐甲斐しすぎるようにも思えるその内容物には、しっかりと寝癖直しも入っていた。
——案外、どうってことないじゃないか。
当然といえば当然ではあったが、中身の普通さと自分自身、そこまでこの箱を開けるのに大きな抵抗がなかったことに安堵しつつも、スプレーを一つ、取り上げる。
その時だった。
はらり、と。
絡みついていたらしい何かが、スプレーから離れて俺の目の前を落ちていった。
「——っ」
それが何か、なんて最初はわからなかった。
けれど、拾い上げてみればそれが何か、なんて。気がつくのにはそこまで時間を要しなかった。
その形状も、赤色も、こびりついた香りも——何もかも見覚えのあるリボン。
一瞬、息が詰まった。
どうせ、偶然紛れ込んだだけだ。そうに決まっている。決まっているはず——なのに。
どうしても、ただの偶然で片付けることは難しくて。何か意味があるような気がしてならなかった。
ただ、仮にそうだったとしても、少なくとも目に触れる場所に置いておきたくない。どこかへ追いやらなければ。
それは、わかっていた。わかっていたけれど、どうしても行動は伴わなない。
早鐘を打つ心臓、狭まる視界。半ば呆然としたように、その場に座り込むことしできなくて。
「カエ、デ……? もう起きているのですか?」
思考だけが絡まっていく中、不意に、足音と共にそんな声が聞こえた。それも、そこまで遠いものではないのが。
「ああ、こんなところに。おはようございます、カエデ」
「……おはよう、ソフィー」
ドアが開く手前、反射的に俺は、それをポケットにねじ込んでしまった。
「それでは、髪、お願いします」
「……あ、ああ」
俺の表情に不自然さでもあったのか、少しだけこちらをじっと観察して。でも、そこまで引っかかるところがなかったのか、彼女は昨日と同じ調子で寝癖直しをお願いしてくる。
むしろ、やらない方が不自然だ。先ほど慌てて取り落としてしまったスプレーを拾い上げ、ほつれた髪に何度か吹きかけたのち、昨日と同じように髪をといていく。
「……何だか昨日よりまとまりがいい気がします。これも“カガク”……ですか?」
「まあ、一応はそう、だな」
あまり意識を傾けていなかったものの、頭頂部のアホ毛を除いて、昨日よりもずっと彼女の髪はまとまりがよかった。
案外、相当な効果なんだな、と。俺も髪を一房つまみながら、少しばかり観察していた時、彼女は一つ、質問してきた。
「ところで、今日はどこかに出かける予定とかってありますか?」
「……いや、特にないけど」
実際、今日は——というより、今日も何もない。昨日の外出も不可抗力に近いものだったし。
そう端的に答えた時だった。
「であれば、丁度よかったです」
そう口にしたのち、彼女は満面の笑みと共にこちらを向くと、元気よく宣言した。
「私、“トショカン”に行きたいですっ!」
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