綿菓子みたいな私たち
雨虹みかん
we are like cotton candy
第1話 オカメインコのほっぺ
高校の入学式。見慣れない廊下を歩いていると、知らない男子生徒に肩をとんとんと叩かれた。
「ハンカチ落としたよ」
その声を聞いた瞬間、理由は分からないけれど、自分の中で何かが始まるのが分かった。
彼の透き通った声は、私の耳にすぅーっと入り込んで全身に暖かく広がっていき、私の頬をほんのりと赤く染め上げていった。
私はオカメインコのように赤く染まった頬を彼に見られたくなくて、俯いたまま、ありがとうございますと一言お礼を言って教室へとすたすた歩いた。
こんなこと、少女漫画の世界だけだと思っていた。一目惚れだった。いや、「一耳惚れ」と言った方が良いかもしれない。
新しいクラスでの最初のホームルームは自己紹介だった。
次は私だ、とそわそわしていると、私の前の席の男子が立ち上がった。
「前川隼人です。よろしくお願いします」
この声だ。
はやとくん。
心の中で呟く。
はやとくん。はやとくん。一文字一文字を噛みしめながら心の中で呟いていると、
「次、君だよ」
と隼人くんが私に言った。
「え、えっと、真島葉月です。よろしくお願いしますっ」
椅子に座り、ふぅっと息を吐くと、隼人くんはふふっと笑っていた。
ホームルームが終わると私は隼人くんの肩をとんとんと叩いた。朝に隼人くんにされたのと同じようなやり方で。
「はやとくん、だよね?」
何度も心の中で名前を呟いたから、言い慣れてしまったけれど、それを悟られないように、怪しまれないように、記憶が曖昧なふりをして話しかけた。
「私、真島葉月。あの、朝はハンカチ拾ってくれてありがとう」
ああ、あの時の、と思い出したように隼人くんが頷く。
「いいえ。真島さん、これからよろしくね」
ましまさん、これからよろしくね。
なんて良い声なのだろう。
「隼人くん、よろしく」
私がそう言うと、あ、と思い出したかのように隼人くんが言った。
「SNSやってる?」
「やってる! ちょっと待ってね……はい!」
私は自分のアカウントのQRコードを画面に表示させた。
隼人くんが、QRコードを読み取るために私に少し近づくと、ふわっと爽やかな香りがした。しばらくすると、隼人くんのアカウントからフォローリクエストが来た。
ローマ字表記の名前にオカメインコのアイコン。可愛い。
「オカメインコ飼ってるの?」
「うん。ぴぃちゃんって言うんだ」
その透き通った声で「ぴぃちゃん」と言っているのが何だか不思議だ。私が思わず笑っていると、
「何か面白いことあった?」
と隼人くんが不思議そうに言った。
「ううん、なんでもない」
私が笑い続けていると、隼人くんもつられて笑い出した。
「隼人くんも笑ってるじゃん」
「だって、真島さんが笑うから」
気が付けばクラスメイトはみんな帰っていて、教室にいるのは私と隼人くんの二人だけになっていた。
「真島さんの笑顔いいね」
とくん、と胸が弾む。
「そう? ただ笑ってるだけだよ?」
「それがいいんだよ」
隼人くんが、あー笑いすぎて涙出てきた、と涙を手の甲で拭いながら言った。
こうして私の高校生活が始まったのだった。
夏休みが終わったばかりの高校一年生の八月のことだった。席替えをして離れてしまったけれど、私の席は隼人くんの席よりも後ろにあるため、授業中に観察できるのはもちろん、休み時間も隼人くんは自分の席にいることが多いため、姿を眺めることができる。
「隼人、何聴いてんのー?」
「ハヅキ、っていうアイドルのソロ曲」
騒がしい教室に、隼人くんの声が響く。小さく落ち着いた声なのに私の耳にはっきりと届く。
ハヅキ。
どきん、と胸が高鳴る。
ああ、もし隼人くんが私の名前を呼んだなら、こんな響きなんだ。
隼人くんは私の名前を呼ばない。
私はすぐにハヅキというアイドルを調べた。プロフィールを見ると私と同い年ということが分かった。その子は私とは正反対の容姿をしている女の子だった。
計算された八対二の流し前髪、艶々のロングヘアー、くるんと上がったまつ毛、ぷっくりとした涙袋。
ハヅキのブログを覗いてみると、私服で撮った自撮りが載っていた。
リボンタイブラウスにマーメイドスカート、黒のショートブーツ。ハーフアップにした髪は黒のリボンバレッタで留めてある。
どの写真でも、ハヅキの笑顔は優しかった。口を大きく開けずに、上品に微笑んでいる。彼女の笑顔は「笑う」より「微笑む」という動詞が似合った。
私はその日の帰り道、ドラッグストアに寄って、ハヅキがブログで紹介していたものと同じコスメを買った。
ラベンダー色の日焼け止めを顔全体に塗ってトーンアップさせて、その上をラメやパールの入っていない透明パウダーで軽くはたく。ハヅキのような平行眉を目指して、足りないところをグレーの眉パウダーでぼかしながら書き足す。まつ毛は毛先だけ軽く上げて透明マスカラを塗って束感とツヤを出し、カールキープもさせる。マットアイシャドウで少しだけ陰影を付けて、ぷっくり見えるように涙袋の影も書く。ほんのりピンクのチークを頬の高いところに乗せて、最後にティントリップを指でぽんぽんと馴染ませる。ストレートアイロンで癖毛を真っ直ぐにして毛先は内巻きにする。前髪は八対二に分けて巻いたあとスプレーで固める。最後にツヤ出しのスプレーを髪全体に吹きかける。もう少し、髪が伸びたらいいな、と思いながら。
初めは動画サイトに載っているハヅキのメイク動画を観ながらやっていたこのスクールメイクの工程は、今では何も観なくてもできるようになった。
好きな人のために可愛くなるのは楽しい。
スポーツブランドのパーカーは着なくなったしズボンは履かなくなった。ハヅキが好きなものを私も好むようになった。私はこうして「葉月」から「ハヅキ」へと変わっていった。
隼人くんとは席が遠くなって以来話す機会がなくなってしまい、二年生になるとクラスが離れてしまった。私と隼人くんの接点はなくなってしまった。ハヅキになってから一年半が経ち、高校二年生の冬になった。
私は一組で隼人くんは八組だから、廊下でも滅多に見かけない。最後に見たのは体育祭のリレーの時だろうか。一年近く話してないのにこの恋心は消えない。だけどこの恋心は誰にも話していないから、友達に協力してもらうことはできない。また、隼人君はSNSに滅多に投稿しないし、隼人くんの友達もSNSに隼人くんとの写真を載せないから、今隼人くんがどうしてるのか知らない。でも、あの声が頭から離れないのだ。
ある雪の日の夜のことだった。隼人くんのSNSに小さな雪だるまの写真が投稿されていた。雪で作ったのだろうか。可愛いな、と笑みがこぼれた。BGMが設定されていたので音量を上げて聞いてみると、それはハヅキのソロ曲だった。
私は気が付けば、隼人くんにDMを送っていた。
「隼人くん、久しぶり。ハヅキちゃん好きなの?」
すぐに既読が付いた。
「うん。ハヅキのファンなんだ。真島さんも?」
ましまさん。やっぱり私の名前は呼んでくれないんだ。
「うん、私も」
嘘だった。私はハヅキが好きなんじゃない。隼人くんが好きなのだ。
「そうなんだ。俺、友達にファン仲間いなくてさ。だから、これから語り合えたら嬉しい」
この日以来、私たちはハヅキについてDMで語り合うようになった。
最初は楽しかったが、これが結構しんどい。好きな人の恋バナを聞いているようなものだから。私はいつしかハヅキに嫉妬するようになっていた。
嫉妬する相手の真似をする毎日。メイクはかかさず、前髪は絶対に崩さない。私服はガーリーさも混じえた清楚系。そして私が一番気をつけていたのは笑い方だ。口を開きすぎないで、口角はきゅっと上げて、少しだけ歯を見せる。何度も鏡の前で練習したその笑い方は今では自然にできるようになった。
ある日の休日、私はショッピングモールにやって来た。冬物のバーゲンをやっていて、お店はたくさんの若者で賑わっている。
服を見ていると、ピンクブラウンの髪をゆるく巻いた可愛い店員さんが話しかけてきた。
「普段はこのような系統の服を着ることが多いんですか?」
「そうですね、よく着ます」
「こういった系統の服好きなんですね〜」
好き……?
私は店員さんの言葉に大きな違和感を覚えた。
私はこの服が好きなのか?
どうしてこういう服を着てる?
ハヅキになりたいから?
ハヅキになったら隼人くんに好きになってもらえる?
頭の中がぐるぐると回る。
私は誰?
葉月はどこ。
「すみません、また来ます」
私は何か大切なものを思い出したような気がした。
気がついたら自分を失っていた。
この一年半、葉月はどこにいたんだろう。
多分、もう葉月はいなくなっていた。
帰りの電車でスマホを見ると、SNSの通知が来ていた。隼人くんの投稿を見逃さないように隼人くんのアカウントの通知をオンにしている。アプリを開くと隼人くんの投稿が載っていた。
「18months いつもはこういうの投稿しないけどたまには笑」
その文字と彼女からもらったであろうプレゼントの写真が目に飛び込んでくる。
言葉が出なかった。
私がハヅキになっていた一年半は、隼人くんにとっては他の誰かを好きだった一年半だったんだ。相手はどんな女の子なんだろう。分からないけど、きっとハヅキの真似事なんてしない子だろうと感じた。隼人くんが好きになるのはきっとそういう子だ。
最寄り駅ではない駅で降りて、「ただ今の時間予約なしでもご案内できます」と入口のコルクボードに貼られている美容室に入った。
「真島です」
受付でそう言うと、
「真島さんですね。よろしくお願いします」
と美容師のお兄さんが言った。
ましまさん。
そうだ、私は真島葉月。
『真島さんの笑顔いいね』
隼人くんの声が脳内で再生される。
「ショートカットにしてください」
長かった髪の毛がはらはらと床に落ちていく。
ハヅキの髪の毛がはらはらと床に落ちていく。
明日学校で私の姿を見た人はきっと私が失恋したんだと思うだろう。
私が髪を切りに来たのは、失恋したからじゃない。
短い髪をした自分が好きだから。
ただそれだけだ。
「ありがとうございましたー」
カランカラーン、とドアに付いたベルが鳴る。首元が涼しい。
美容室から駅まではすぐだったが、駅の周りを散策してみたくなって、少し歩くことにした。
少し歩くと古い小さな公園があった。ブランコと滑り台だけの公園。
私はブランコに乗りながら空を眺める。
きい、きい、とブランコの軋む音がする。
雲がぼやけてきた。
ハヅキだったらアイメイクが滲まないように静かに泣くのだろう。
でも私は自然とわんわん声を上げて泣いていた。
ちゃんと覚えていた。
真島葉月はまだ存在していた。
おかえり、と心の中で思いっきり真島葉月を抱きしめる。
思いっきり泣いたらすっきりした。
ポーチから鏡を取り出し自分の顔を見ると、泣いたせいで瞼と頬が真っ赤になってしまっていた。
オカメインコみたいなほっぺ、と私はけらけら笑い出した。
あーおかしい。
笑い出すと止まらなくなって、何がおかしいのか分からなくなっても口を大きく開けて私は笑い続けた。
やっと笑いが収まると、ふぅ、とため息をついた。
帰ろう。
「あーあ、スカート汚れちゃった」
ブランコから降り、スカートに付いた砂を手のひらで払いながら、多分、洗濯したらもう履かないんだろうななんて考えていると、
『さっきの笑顔、良かったよ』
とどこからかハヅキの声が聞こえた気がした。
ばいばい、ハヅキ。
私は公園に背を向け駅に向かって歩き出した。
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