「アタシ」の物語

つくも せんぺい

bitter

ふかづめの紅

 若気の至り。そう片づけても、あまり可愛い気には繋がらないこと。


 アタシはあの頃、若さや未熟さを持て余して病んでいたんだと思う。強烈な甘い腐乱臭を放つリンゴ。毎日その臭気の中に居るように、日常はいつもアタシの吐き気を誘っていた。


 ただスッキリしたくて、こんな日常から抜け出したくて、アタシは命を壊した。弱いアタシよりもっと弱くて、小さくて……でもジージーうるさい、もがいても無力な命を、アタシは壊した。


 アスファルトに叩き付けた音は鈍く乾いていて、妙に耳に残った。


 溢れるくらいの命が存在するここは、アタシには住みにくすぎる。もちろん、アンタにもね。


 そう決めつけた。


 何匹も何匹も壊す中で、一匹だけ骨のあるのがいて、もがいた拍子にそいつの羽が欠けてアタシの爪の間に刺さり、痛みで手放してしまった。ジージーと耳障りな音を鳴らして飛び去ったそいつから目を切ると、赤く血が染みでていることに気づいた。生意気……小さいクセに、弱いクセに、うるさいクセに。拳を握りしめると、痛みは後から後から強くなった。


 もう、ずっと小さい頃の話ね。それから……虫には触れないわ。


 傷は塞がったけど、皮に透けて焦茶色の破片が残ってる。



 傍から見れば、きらめく十八歳(笑)の女の子の日課が、公園のベンチに居座ること。


 夏はいつ終るんだろう。そんなことを考えながら、アタシは今日もここにいる。


 エアコンの効かない部屋に居るより、日陰のあるベンチがいくらかマシ。図書館やコンビニじゃあ冷えすぎてお腹が痛くなるし、すぐバテる。それよりは、こうして氷アイスをガリガリ音立ててかじってる方が健康的ってもんよ。


 でも限定のリンゴ味は、あんまり美味しくないわね。そもそもリンゴ自体好きじゃないんだけどさ、安いのこれしかなかったのよ。


「ハァ……」


 なんとなしについた溜め息は、余計にアタシをバカバカしい気持ちにさせた。


 アイスからアタシに日陰を提供してくれている木に目線を移すと、一匹の羽根の欠けた虫がやかましく鳴いている。


 オスがメスを呼んでるのか、メスがオスを呼んでるのかは知らないけれど、一つだけハッキリしている事がある。それはその虫はあの日と同じヤツじゃないってこと。


 アタシの爪と皮膚の間に刺さっている羽根の色は、確かに目の前のヤツと同じ焦茶色で、欠けた箇所も同じに見えるけど、違うヤツだわ。生きてるわけないもの。あの時は小学生、今は高校生よ。

 でも、だからこそこうやって口に出さずに語りかけていたのかも知れないわね。


 同胞のカタキのアタシが側に居ても、コイツは逃げも襲って来もしない。ただうるさく鳴き続けているだけ。けどイライラしたりはしない。アタシはもう二度と触れないだろう。邪魔する気もしない。


 自然の摂理。ふと頭をよぎった言葉を、一番理解してないのは人間の中でもアタシだろうな。コイツは受け入れているんだろう。アタシの過去も、羽根が欠けてしまったことも、これからも。アタシに興味なんて無いのかも知れないわね。


 右手を何度か開いたり閉じたりすると、気配を感じたのかフッと静かになった。


 苦笑。


 やっぱり、アタシの記憶が消えないように。右手が宿した気配も消えないんだろう。小さな生命を壊した小さな頃の衝動は、もう無い。けれど、染み付いた臭いはきっと消えないんだ。誰も気づかないけど、同胞クンなら感じるわけね。


 爪を見つめると糸屑のような焦茶色の線があって、押すとまだチクリと痛んだ。


 あの時……ころがった死骸を見て、アタシが抱いた感情を、いまでも後悔してる。



 ――キモチワルイ



 そう、虫カゴも触らずに家に帰って、ひたすら手を洗った。


 その後は憶えてないけど、気づけばそれ以外の虫も触れなくなっていた。次の日、虫カゴは車にでも轢かれたのか潰れていた。


 あの頃の、あの狂ったような衝動にはもうならない。良い意味では大人になったし、悪い意味ではスレてしまった。理性が心のほとんどを支配しているのは、成長ではなく懺悔に近い気がした。


「――とりゃ」


 アタリもハズレもない棒を木に投げると、よりにもよってアイツにヒットした。けれど、一瞬ピタッと鳴くのを止めただけで、飛び去ったりはしなかった。またジージーとうるさくなる。


 ……骨のあるヤツだわ、ホントに。


「ねぇ」


 砂利の音がしていたけど、アタシのとこに来るのは予想外で、その言葉もアタシに向けられたものとは思ってなかった。


「ねぇってば」

「ん? アッ、アタシ?」


 木から声の方に目を向けると、砂利音立てたジャリボーイ。嗚呼、くだらないわね。


「何してんの?」

「ん? ああ」


 怪訝そうにする子に、アタシは顎で木を示した。


「セミ?」

「そっ、蝉」

「ふ~ん、ハイ」

「?」


 出された手には袋が握ってあって、受けとると冷たかった。


「……なんで?」

「お姉ちゃんに一本あげる。なんかいつもここに居るし」

「それはありがと、部屋にクーラーがなくて辛いわけだよ」


 アイスはさっき食べたわねぇ、リンゴ味。取り出すと、アラ、ステキな赤いパッケージ。こんなボウズそうはいないわ。


「……ありがと」


 深々と息を吐いた。


「……」

「……」


 知らない、しかも小学生に見える子どもに奢られたアイスを食べるのは、なんだか変な気分ね。


 シャリシャリ、ジージーと高音が響く頭は、暑さとあいなってクラクラと溶けてしまいそうだわ。


 リンゴの甘ったるい臭気と、それに反した薄い味が広がる。溶けてついた指のベタベタを舌で落として、また棒を蝉に投げつけた。今度は当てるつもりで。


「姉ちゃん悪いんだ」

「アイツは骨のあるヤツなのよ」


 淡々と言うと、子どもは丁寧に棒を袋に片づけて、アタシが捨てた二本も同じく拾った。


 そして、木に歩みよるとためらうことなく蝉を掴んだ。


 ジッ!っと一瞬鳴いた後、抵抗することなく蝉は子どもの手におさまっていた。


「こいつ、もう飛べないんだ」


 羽根が欠けているから、そう一瞬思った。けどしばらく蝉を見つめて、子どもは続けた。


「弱ってる。あんまり動かないもん。鳴き声は強いのに」

「……だから鳴くことしかしないのね」

「ジュミョーって言うんだよ」


 噛み噛みで出した言葉に、アタシは笑った。


「知ってるわ。ところで、君は小学何年生?」

「三年だよ」


 ……あの時のアタシより一つ上ね、でも、この子はずっとマセてるわ。人に奢るなんて考え付きもしなかったもの。


「なんでアイスくれた?」

「姉ちゃんいつもツマンナソーに座ってるからさ、メグンデアゲタの」


 生意気にムツカシイこと言うじゃない、マセジャリボーイ。


「こいつ、木に戻しとこうかな」

「あら、イジメたりしないのね」

「当たり前だろ、父さんが無闇に虫を殺すのはダメって言ったんだ」

「……そう」


 やっぱり、子どもの言葉は効くわね…。ムヤミニコロサナイ。きっとそんな単純なことも、アタシには異界の呪文だったんだろう。

 弱かったのね、写真では可愛らしいのにさ。


「ねぇ」

「何?」

「ソイツ……空に投げれば飛ぶかもよ」


「どうだろ……」


 信念が歪んだように、子どもは迷った表情を浮かべた。


「だってソイツ、飛びたいのかも知れないでしょ?」


 そう、飛びたかったかも知れない。たとえ飛べなくても、土に還りたかっただろう。焼けたアスファルトなんかじゃなく、温もりのある土の上に。


「明日はアタシが奢ってあげる。お姉さんがもっと高くて美味しいのを教えてあげるわ!だからやっぱ、飛ばすわ」


 有無は聞かなかった。子どもの手から蝉を取り上げ、空に投げた。



 ――アノ日も、そうすれば良かった。



「アイス、約束ね」

「わかってるわよ、ちゃんと来なさいよね」


 夕暮れ。涼しくなったりはしない。アタシ達はあのまま公園でボンヤリと過ごし、なんとなく一緒に帰ってる。暇そうにしてたけど、子どもは友だちが誰も公園に来なかったから諦めてアタシと居ることを選んだようだった。


「アイス奢りだから、君ん家でクーラーね」

「なんで?!」

「暑いからよ」

「……どーせ誰もいないし、別にいいよ」

「やったね。……えっちなことしないでね」

「……?」

「いや、なんでもないわ」


 小三ってこんなだったかしら?


「家にゲームある?」

「ある」


 他愛もない会話は、空間を満たしている蝉たちの鳴き声よりも重要じゃない。

 相手を求めたり、命を繋いだり、そんな意味ない。けれどなんだか心地良かった。


「セミ、飛んだね」

「骨のあるヤツだもの」


 拳を握ると、チクリと痛んだ。けれどアタシはうつ向かない。

 夕陽を切る一匹の黒い影が、きっとアイツだとアタシは笑った。


 なんだか、またアイスが食べたくなったわ。ソーダ味だけどね。


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