第54話 或る保護者の告解

 7月末。予約した飛行機の便の都合で、ひなのさんの方が先に帰省した。

 とは言っても、私も8月の頭には帰省をするのでほんの2、3日の違いでしかない。


 お盆に開催される京都の大文字を見るために、早期帰省を選択した私たち。今更ながらどっちの両親もよく許してくれたな、と思う。

 完全に偏見だけどさ。ひなのさんの実家くらいの田舎の家族なら、お盆にご先祖様のお墓参りをすることを、もうちょっと神聖視していてもおかしくなかったから。あ、でも3人娘を全員地元の外で1人暮らしさせている点を鑑みれば開明的・・・ではあるのか。ひなのさんの姉2人は短大と専門学校に行っているので、イカ漁の跡継ぎを誰もしなさそうな東園家である。


 そんな将来廃業待ったなしの東園家へと帰省したひなのさんとは、ほぼ毎日のように電話はしていた。恋人であることは隠していても親友とは言っているからね。お正月時点ではひなのさんのお父さんからはどうやら私は気に入られているという話もあったし。ひなのさんの弟子ポジションで見られているということだったが。


 お互い大体1週間くらいの帰省にする予定なので、私が帰省してちょっと経ったくらいにひなのさんは京都に戻ってくる。ひなのさんは私成分不足で禁断症状が出たりしないか心配だ。いや、普段からそんなに高頻度で顔を合わせているわけでもないから、大丈夫だとは思うけどさ。恋人としての時間を過ごすときの私たちは最近度を越して濃密だが、日常生活では結構お互いの時間を尊重するというか、割とさっぱりしているところはある。


 それはともかく。

 私は帰省までの数日は、宿題がメインで時折友達と遊びに行ったりしながら、後は1日1時間くらいは第3音楽室の鍵を飾城先生から借りて、ピアノの練習をして過ごして……何事もなく時間は去っていき、私は名古屋へと帰省する。


 ということで、このたびは名古屋の実家での私の暮らしに迫ろうと思う。




 *


 金曜日に帰省したので、翌日の朝早くに両親を引き連れてお墓参りにはもう行った。お墓とか日陰が碌に無いし屋外だから暑いからね、早い時間に行くに限る。

 地元の友人とも遊ぶ約束はしていたが『夏休みなのに、なにも土日でどこか行くのもダルい』ということで平日になっている。お父さんが家に居るのに友達との約束を入れるのも申し訳ないと思っていたから渡りに船ではあったけれども、でも私の友人ってなんか混雑を避けたがる人間が妙に多い気がする。


 それで、お昼にそうめんを食べているときにお母さんから午後何をするのか聞かれて。


「んー? 特に予定も無いし、部屋でピアノでも弾こうかなって」


 と、普段と変わらないトーンで何の気もなしに告げたら、両親はそれを一旦流そうとしたが、違和感に引っかかったようなリアクションを取った。


 そしてそんな奇妙な返答を取られたことで気付く。


 あ。私、この家でピアノを弾くの1年以上ぶりだった――と。



 私は実家に帰省すること自体は、そこそこ高い頻度で行っていた。毎月……ではないけれど2ヶ月に1回くらいは。新幹線を使わなくても2時間半くらいで帰れるのだから、普通の土日とかでも帰っていたし。

 しかし、その何度もあった帰省タイミングの中で思えば私は一度としてピアノを演奏することは無かった。自分の部屋に置かれているのにも関わらず。


 今になって思えば意識して遠ざけていた節すらある。

 1年前の夏休み。エラールのピアノを自分で弾いたときに、私は既に『ピアノ』というものがひなのさんと共にあるものだ、という認識に既にすり替わっていた。自覚をしたのはその時点だったけど、ともかくひどく自分の演奏……ううん、『1人の音楽』が無味乾燥に思えてならなかったのだ。


 それが打破されたのが、今年のゴールデンウィークで。

 今の私は『東園ひなの』という天才銀髪少女が理解した音楽、されど彼女の実力では表現しきれなかった音楽を代弁する存在――ひなのさんのためにしか、ピアノを弾けない少女――となっている。



 お父さんは結構言い出しにくそうに渋ってから、私の演奏に同席させて欲しい旨を、そうめんをめんつゆにびたびたに浸しながら言った。


「……? まあ、いいけど。

 なんか、そんなに迷う要素あった、お父さん?」


「――いや、明菜はもう女子高生じゃないか」


 ……あー。そういうことね。

 ピアノがあるのは私の部屋だ。年頃の娘の部屋にむしろお父さんの方が臆している、と。

 別に普段使いしていないから、大したものはもう無いんだけどな。お父さんの方が気にしすぎなような、とも思うが、一般的女子高生はもっと拒絶するものなのかもしれない。


 反抗期とか特に無くこれまで生きてきたけれども、よくよく考えてみれば。ひなのさんと付き合っているなんていう特大の秘密を抱えている今は、反抗期どころの話ではないかもしれない。




 *


 お父さんには適当に椅子にでもかけてもらって、私は久方ぶりにアップライトピアノの前に座る。最後にアップライトピアノに触れたのって……あのボランティアコンサートだよね、うん。


 何を弾こうか悩んでいたが……うん。ちょっと試したいことが生まれた。

 ゆったりとしたフレーズから、広がるように序盤は進行する。お父さんは、この時点でピンと来たみたいだ。


 私が弾いているのは、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソ。

 スローな部分と終盤の高速パッセージ、技巧を魅せる部分が随所にあって聞き応え、というか漠然としたカッコよさがある曲だ。

 ……ただしそれらの技術的要素の割に、この曲の難易度はそれほど高くもないというのも重要なポイントである。端的に言えば、難しく見えるのに弾いてみると意外と簡単、というタイプの楽曲だ。


 だから私も中学のときに何度か発表の場で弾いたことがあるけど、正直その中学時代ですら、これをほぼ完璧に演奏できている生徒は居た。そういう点で言うと、中学生レベルの演奏技巧で一応完成してしまうような楽曲なので、あんまりピアノ奏者にとって有難がるような曲にはならず、結果ピアノ奏者界隈から表に出ることの少ない……一般的知名度があまり高くない楽曲だ。



 そして。そのような中学時代に度々弾いていた曲を選択したのは。

 ――うん、ひなのさんと無関係だから。あ、でも『カプリチオーソ気のおもむくままに』の話ならした気はするが、流石にこれは誤差で良いだろう。


 そんなひなのさんに関係の無い曲を弾いたとき。果たして私の演奏はどうなっているのだろうか。

 また、お父さんはどのような反応をするのか。


 それが、気になった。



 約6分に及ぶ演奏が終わる。

 お父さんは、開口一番にこう告げた。しかし、それは素早く声に出たものではなく、ゆっくりと絞り出すかのような声色であった。



「……変わったな。ああ、そうだろう明菜?」


「――見抜けるものなんだね、お父さん」



 ……正直、驚いた。私の演奏の変化は飾城先生も気付いたこと。だから音楽に触れてきた『本物』ならば分かることだとは当て推量していた。

 しかし前提条件が違う。


 あの先生が気付いたのは『私の楽曲』ではなく『ひなのさんの楽曲』を弾いたときで、元々用意していたクラシックの4曲では分からなかったはずのものだ。


 だけど、お父さんは。

 メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソで、気付いたのだ。


 その理由は、すぐにお父さんから語られる。


「……何年、明菜の演奏を聴いてきたと思っている? 年季が違うのだよ、年季が」


「……ふふっ、そうだね。お父さん――」


 こういうところは『やっぱり家族ってすごいなあ』と思うと同時に……こうしてお父さんと一緒に笑い合える時間を失いたくないと心のどこかで考えた瞬間であった。




 *


「最近、明菜からはその子の名前をよく聞くな」


「そりゃあ『友だち』だからね。……一番の」


 私の演奏の変化について、お父さんに説明する際にきちんと『ひなのさん』の名前は出す。ひなのさんについては結構話している。

 恋人であることは秘匿しているが、さりとて私の高校生生活の何割かは確実にひなのさんで構成されているので、話さないと私の人生が希薄になりすぎてしまう。


 とはいえ。将来のことを考えると今のうちから、ひなのさんを家族に印象付ける必要がある。だから、むしろ積極的に話しているんだけどね。

 そして今の状況もその一環と言えよう。私たちの基本方針は、10年かけてひなのさんのことを何者かに仕立て上げること。


 だけれども、私の変化の背後にひなのさんの存在を仄めかすことも悪いことではないだろう。



「一番の友達か。学生であるうちにそういう相手が出来ることは良いことだ」


「うん。親友と言っても良いよ?」


 この辺りは親であっても早々と見破れない自信はある。というのも、本心からひなのさんのことを『一番の友だち』とも『親友』とも思っているのだから。


 私たちは恋人だけれども、色恋に限った関係ではなく、そうした友だちとしての在り方もまた『私とひなのさん』なのだから。


「一生涯付き合えると確信できる相手はそれほど多くない。そういう意味では父……あいや、明菜から見れば『お爺様』だが……大人になれば羨ましいものも、正直感じたりする」


「……まあ。親友の執事をやるのも、雇うのも生半可な覚悟じゃないよね、うん。

 とはいえ、お父さんにも友達は居るんじゃないの」


「居るには居る。

 ……だが、父ほど人生を賭けることは……とても、出来ないな。

 友と家族――どちらを選ぶかと言われれば、きっと迷わないと断言できるくらいには、そこには差がある」


「……ま、娘の身としてはそこで『友達を取って家族を捨てる』と言われる方がイヤだけどさ」


「それもそうだな。しかし明菜にとってその親友は――」


「当然。一生付き合っていく相手だと思ってるよ」



 立場によって意見とは変わるものだ。それは、どうしようもないことで。

 お爺様の人生と、お父さんの人生のどちらが良いか比較する権利は、私には無い。ただ1つだけ言えることは、ひなのさんと出会った私の人生こそが、私の主観では最良であるということだけ。



「……明菜よ。将来はどうするつもりなんだ?」


「この流れで、ってことは、お爺様みたいに私がひなのさんに仕えると思ってる? いや、無い無い。だってあの子の家はイカ漁の漁師だし――」



「――『音楽』のことだ」


「……なるほど、ね。そういうこと」


 『音楽』。そこに包括されている言葉の意味は重い。

 それを探るように質問を重ねる。


「お父さんは、今からでも間に合うと思ってるわけ?」


「何を求めているかによるな、それは。

 例えば、今から高校生のコンクールで日本一になりたい、と言われても。それは流石に手遅れとしか言えん。

 ……だが、明菜が聞きたいのはそういう話ではないだろう?」


「まあね。ここで私とお父さんが挙げている問題は――『音大への進学』」


 結局、今の私は並の中学生レベルのスキルしかない。

 それでも選り好みしなければ、音大や音楽関係の短大は目指せるかもしれない。あるいは普通に勉強を頑張って、音楽関連の学科のある大学を狙うというルートもある。


 それが悪いとは言わない。だが、その道を選んで何をするかが問題だ。モラトリアムを稼ぐ目的ならば、別に無理して音楽に関連する大学を目指す理由は無い。

 そういう意味では、この選択は私にとっては中途半端なのだ。


 かといって。

 今から東京藝大とか、桐朋とうほうみたいな最高峰レベルを目指すというのも、間に合う気はしない。



「そういうことだ。

 今の明菜の課題は、完全に技術だ。そしてそれを克服するための環境が乏しい。機材の不足もそうだが……何より指導者の不在が致命的だな」


「まあ……そうなるよねえ……」


 そしてそれに対する回答はこの通り。

 碧霞台女学園帰宅部という私の立ち位置はどうしても、ここから『音大』を狙うには不適格な立ち位置。


 お父さんは私の課題を技術と断言した。つまり、ひなのさん由来で私が派生させている表現力は充分に通用すると考えている。だからこそ、この発言は……『転校』を示唆してのもの。


 だから、ある意味では親友の話と接続するものだ。

 当たり前だけど転校するなら、ひなのさんとは離れ離れになる。しかし、お父さん的には『音大』を目指すのなら転校した方が良いということ……なのだろう。



 ……うん。


「そこまでは考えてないよ」


「そうか」


 比較的、あっさりと答える。別に『音楽』の道に進むと決心しているわけでもないし。仮にそういう道を選ぶとしても、私はひなのさんと共に歩む道を選択したい。

 それは感情的な部分だけではなく、ひなのさんの間近で彼女の感性や理解力を浴び続けなければ、私のインスピレーションは彼女に最適化されないだろうからだ。



 お父さんは、さらっと流して私に1つだけアドバイスをした。


「明菜の今の課題は技術だが、ピアノは技術だけではないところを勘違いするなよ」


「分かってまーす」


 これは、私に対しての慰めであると同時に、私では潜在能力込みでも単純なピアノの腕前だけでプロの音楽家になれるわけではないという警鐘だ。




 *


 まあ、この話のオチというか顛末は。

 お父さんとお母さんが同席する場にて、戯れでひなのさんの曲芸・・奏法を真似して演奏したところ、これを何故かお母さんが気に入って、いたく繰り返し演奏するように求められたことであった。



 ……なるほど。

 確かにピアノは技術だけではなかった。お父さんは頭を抱えていたが、お母さんはそれを体現して証明してくれていた。

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