本屋に行けない雨の日は

七草かなえ

『本屋に行けない雨の日は』

「今日は本屋、行けるかな」


 小梅こうめは窓から今日のお天気を確認した。


 雨が、降っている。グレーの雨雲が空を覆っているせいで、外は薄暗い。まだ朝の九時すぎなのに関わらずだ。外出するのがおっくうになる空模様。

 

 小梅はぱらぱら音をたてる雨音に気づくやいなや、窓から伸ばしていた首を引っ込めた。悪天候はあまり得意でないのだ。雨の音は落ち着くので好きだが。


「まあ、お天気でもるんるんお出かけ! って状況じゃないしなあ」


 自分を納得させるように言って、遅い朝食の準備を始めた。行けないわけではないのだが、気分の問題で今日も一日おうち時間確定だ。


 新型コロナウイルスなる未知のウイルスが発生して、もう一年と半年が経とうとしている。


 テレビをつければ感染者数の推移に誰かが一喜一憂。ネットニュースを覗けば嘘か誠か疑わしい物騒なタイトルの見出しが並ぶ。オリンピックの是非についてや、ようやく供給が始まったワクチンについての陰謀論とか。よほど暗い気分でいたい人が書いているのだろうか。


 いい気分にはならないものがフルコースだしオンパレードな上盛りだくさん。おかげさまで、最近小梅はニュースと名のつくものからは距離をとるようになった。精神衛生は大事。


 小梅は二十四歳のフリーター女子だ。以前は飲食関係でアルバイトをしていた。

 この情勢下でお店自体がピンチとなり、バイト店員は全員クビとなってしまった。いつも気のいい店長が心から申し訳なく謝る様子を思い出して、小梅も店の力になれず申し訳なくなった。


 つんと胸に痛みが走った。振り払うように思考と行動を朝食の準備に移す。


 バイトをやめてしばらくは次の収入探しに駆けずり回ったが、どこも面接落ち。せっかく住み慣れたアパートの家賃も払えなくなるかもと頭の中で警報が響いた。


 結局親に泣きつく覚悟で電話で助けを求め、仕送りと小梅自身の貯金で生活はなんとかなっている。

 学生時代から小遣いやバイト代を貯めた分があるので、ある程度節制すればそれなりの日常を送ることができる。貧困や家庭内暴力の話題をどこかで見るたび、自分は恵まれていていいのかという疑問や罪悪は感じるけれど。


 今小梅の住む首都圏のとある地域は、まだ蔓延防止等重点措置の対象となっており、解除の目処はたっていない。

 不要不急の外出自粛が要請され、小梅もスーパーやコンビニ、たまに書店くらいしか行く場所はない。

 スーパーコンビニは生活のため、書店に行くのはお気に入りの店や作家を応援したい気持ちがあるからだ。


 そして何より、小梅は本が大好きだった。本当はバイトも書店か出版関係でしたかったくらいだ。たまには電子書籍も利用するが、本が並ぶ前でどの本を読もうか思案する時間も好きな小梅はもっぱら書店と図書館で紙の本を入手することにしていた。


 そうこうしていると朝食ができた。本日のメニューはかりっと焼けたトーストに、半熟の目玉焼き、彩りと野菜摂取のため、レタスとプチトマトも添える。


 かりかり、ぱくっ。

 トースト、レタス、プチトマト。最後に目玉焼きの黄身を存分に味わって食事を終える。


 満足したはずだったが、雨という天候、加えて近所の書店にも気軽に出かけにくいこの世界情勢への憂いが高まり気分が落ちる。

 他にも元バイト先含めた飲食、出版始めとしたあらゆる業界がピンチなこと。ついには自分の生活もそれなりにピンチであろうことに考えが及んでしまい、小梅は軽く寒気を感じた。外からは、いまだ止まぬ雨音。


「……はあ」


 このまま、どんどん悪いほうへいってしまうのだろうか。もしウイルスの脅威が去っても、私はこの世界で生きていけるのか、生きていていいのか。


 ぐるぐるぐるぐる。頭をネガティブな渦がめぐる。


 リモートや在宅でのワークが広まり、あちこちでおうち時間を楽しもうというキャンペーンが世では繰り広げられている。今の小梅のおうち時間は、大方悪いことの考え事と読書のどちらかに時間が振り分けられていた。

 そう、考え事か読書だ。だから書店の常連にもなる。多分小梅は、店員さんに顔覚えられているくらい。

 だから、こうやって落ち込んだときは。


「本、読も」


 小梅の手が本棚にのび、お気に入りのお仕事小説を取り出した。


 表紙をめくった途端、小梅の意識が小説世界に没入していく。同じ作者の新刊が今日発売される。お気に入りである作者の新作が早く読みたくて、書店に行こうと思っていたのだ。今読んでいるこれも面白いけど、新刊を手にしたい感情が時々ひょこっと顔を出す。それもまあいい。


 そして。

 

「不思議だよね……。誰かが創り出した架空のお話に、感情移入できるのって」


 今小梅が感じているのは、希望だった。


 正確には、小説そのものというよりはこうした小説を書いてくれる人、商品として編集してくれる人、本を売ってくれる人といった、本に関わる人たちへの名前にできない、尊い想い。 

 次いでいくら外で雨が降ろうと、流行病があろうと、生活が厳しくとも楽しめることがあるささやかな幸せ。


 さっきまで悪い考えでいっぱいだった小梅の頭は、確かに前向きなものになっていた。それを感じるのがたとえこの一瞬だとしても、その想いは確かに本物だった。



 お昼がすぎても、雨は降り続いていた。ぱらぱらリズミカルな雨音もまだ聞こえる。

 読書で感じた希望のおかげで、楽しくなり始めたおうち時間。先はどうなるかはわからないけど、今はもっと楽しくしよう。小梅はいつもの書店に一本の電話を入れた。



「もしもし、新刊本のお取り置きをお願いしたいのですが……」



 小梅はまだ知らない。その書店では販売アルバイトを募集していることを。


 数日後の晴れた日。顔なじみの店員が書店好きな小梅に「うちでバイトなんていかがですか?」と、声をかけてくれることを。

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