コインランドリー・ゴースト

大垣

コインランドリー・ゴースト

 コインランドリーが好きだ。特に昼間の日差しが気持ち良く広がる時や、夜遅くの誰も居ない時なんかが良い。

 ある三月の夜十時頃、洗濯物と本を一冊リュックに半ば強引に詰め込み、自転車で近所のコインランドリーに向かった。冬らしからぬ連日の雨と無精のせいで、とうとう大学へと着ていく服が無くなっていた。

 コインランドリーは近所と言っても自転車で五分ぐらいはかかる。海から程近く、昼などにはいつも海風が強く吹いて、テトラポッドに砕ける波の音と潮の匂いを運んでくる。

 今日の夜は風も穏やかで、もう差程寒さも感じない。

 コインランドリーはインドカレー屋の隣にある。夜十時にはさすがにインドカレー屋はやっていないし、近くにコンビニもないので、夜中はこのコインランドリーだけが闇の中で輝々と静かに強い光を放っている。

 コインランドリーには誰も居なかった。店に入ると洗剤やら柔軟剤やらが混じり合ったの優しい香りが体を包む。この匂いがたまらなく好きだった。

 大きなドラム式洗濯機はみな丸い口を開けて待っている。

 リュックに押し込んであった洗濯物を次々と取り出して、洗濯機の中に放り込んだ。コースを選び、金を入れ、スタートボタンを押す。洗濯機はゆっくりと口の中のものを咀嚼するかのように動き始めた。時間は乾燥を含めて一時間ほどだ。

 入り口付近に置かれた小さなテーブルの側の黄色い丸椅子に腰掛ける。そしてリュックから文庫本を取り出し、終わるまで読むことにした。

 コインランドリーは実に静かである。ただ一つの洗濯機がごうんごうんと言う。それ以外は何も動かない。ただ楽園の花のような匂いが立ち込める。本を読むにはとても良い環境だった。コインランドリーはこの世でもっとも幸福な空間であるようにさえ思った。


 十分あまり本を読んでいた。

 ふと何か気配を感じて顔をあげると、ある中年ぐらいの男が店の奥の方に立っている。全く気が付かなかったので驚いた。いつ入店したのかまるで分からない。男は湧いて出てきたかのように突然現れた。

 濃紺のデニムを履き、グレーの半袖のポロシャツを着ている。いくら春が近づいているとはいえさすがに半袖はまだ早い。男はぼうっと目の前の回る洗濯機を眺めていた。

 この男がいつ洗濯物を入れ動かしたのかも知らない。両手をだらりと左右に垂らし、目は虚ろである。どうも様子が不気味で気になった。まるで亡霊である。到底ふかふかの洗濯物を期待する様子ではない。この店にこの男と二人きりなのもどこか不安になった。

 あまり人をジロジロと見る性分ではないがそれでもじっくりと男を見ていると、男のシャツの脇腹当たりが汚れているのが見えた。赤黒い。あれは血だ。血の色だ。血がべったりと着いている。

 男は突然ぐるりとこちらを向く。「あっ」とその時思わず言ってしまった。

 本を閉じて逃げようと構える。人殺しか事故か、何でもいい。とにかく異常なのだから。

「おや、あなた見えるんですか」と、男は言った。

 返答に窮する。何を言っているんだろうか。

「私、幽霊なんですよ」と男はさらに言う。いよいよ不味いと思って足元に置いたリュックを掴んで店を飛び出ようとした。

「ちょっと待って下さい! 本当なんです。本当に幽霊なんです! 見てくださいほら」

 咄嗟に振り替えってみるとぎょっとした。男は洗濯物を畳む広いテーブルからキノコのように上半身だけ突き出ている。下半身はテーブルを貫通していた。よく見ると体も後ろの洗濯機まで少し透けて見える。眩暈がした。

「本当に幽霊なんですか」

 馬鹿らしい質問だと思った。

「本当に幽霊なんです。ほら見て、透けて見えるでしょう。あなたが初めてだ。私のことが見えるのは。いや嬉しい」

「こっちはあまり嬉しくありませんね」

「そう仰らないで下さい。どうぞ座って。少しお喋りでもしましょう」

 何だか変なことになったと思ったが、断ったら急に怒りだしやしないかと思って仕方なくまた丸椅子についた。

「喋るのなんていつぶりだろうか」

 幽霊の男はテーブルから離れあたりをふわふわと漂い始めた。

「あなたはどうして幽霊なんですか。その血はなんですか」と試しに聞いてみた。

「良い質問ですね、確かにそう疑問になるでしょう。よしお話しましょう。」そう言うと幽霊の男は語り始める。


「私は吉田達夫と言います。年齢は五十二歳。結構若く見えるでしょう。そうでもない?まあいいんですが、私はこの辺りに独りで暮らしていました。妻と息子はいますよ、単身赴任です。マイホームもあるんですが、年に数度帰るだけです。悲しいものですよね。自由ではありますけどね」

 はあ、と適当に相づちを打った。

「あなたにもいずれ分かるでしょうが、とにかくそうやって細々と寂しく暮らしていた訳です。しかしあの日は突然やって来ました。私が死んだ、殺された日です」

「殺された?」

「そうです! 二年前の七月、蒸し暑い夜中でした。私も洗濯物が溜まっていまして、おそらくあなたと同じようにコインランドリーに来たのです。そしてやはり同じようにその辺を散歩したり椅子に座ったりして洗濯が終わるのを待っていました。しかしあと何分で終わるか確かめようとしたその時です。駐車場に車が停まったかと思うと、店の入り口から黒ずくめの男が一人入ってきました。明らかに洗濯しに来た風ではありません」

「強盗ですか」

「そうだと思います。手にはバールのようなものを持っていました。コインランドリーの金を奪いに来たのでしょう。私は彼と目が合いました。彼の目は血走っています。もう後はない、そんな風でした。彼はまず邪魔な私を片付けようと手にしたバールで襲いかかってきました。最初からそう決めていたのでしょう。迷いはありませんでした。私は店の奥に居たので逃げようがありません。私も殺されたくなかったので抵抗しました」

男は体をくねらせてその様を再現する。

「しかし敵わなかったと」

「相手は若い男でしたからね。取っ組み合いになってバールを抑えることには成功したんですが、ポケットから果物ナイフを出されて脇腹をぐさりです」

 幽霊の男はしかめっ面で血の着いた左脇腹のあたりを刺される格好をして見せた。

「男も殺すまでは思っていなかったんだしょう。私の脇腹にナイフを残したまま、私が倒れると走って逃げて行きました。私はそのままぽっくりです」

「それでこうして幽霊になってるんですね」

「そういうワケです。この事件、知りませんでしたか?」

「あまりテレビは見ないので」

 全く、世界一平和だと思っていたこの空間で、そんな刃傷沙汰が起きているとは思いもしなかった。何だか汚されたような気分だった。

「それが無念で成仏出来ないということですか?」

「おお! そこなんですよ。まあ確かに無念と言えば無念です。こんなコインランドリーで突然人生の幕が閉じてしまったんですからね。ですが成仏出来ない程かと言われると案外そうでもないのです」

「どういうことですか?」(さっきからインタビュアーみたいだと思った)

「妻と娘がいるといいましたよね。実は私が長いこと家を空けているせいかもしれませんが、我々の中で家族というものは既に冷たくなってしまっているんです。私の情熱は仕事の方に常に向いていました。それが家族の為になるだろうと思っていたんです。でも違いました。いつしか私は家族との接し方が分からなくなり、仲はどんどん悪くなっていきました。いや仲が悪いというより全くお互いが無関心と言う方がいいかもしれません。だから家族に対して未練というものがあまりないんです。家族だってそう感じているでしょう。情けないものですね。あとそれに加え私ももう五十二歳です。もう十分色々と生きました。あとは似たような老後が待っているだけです。なのでこの世への未練なんてものはほとんどないんですね。あ、ちなみに犯人は捕まりましたよ。警察と一緒に実況見分に来ましたから」

 そう話を聞いていると幽霊の男がいくらか寂しいようにも見えた。どちらかと言えば陽気な喋り方だったのはそうした現世のしがらみから解放されたせいなのかもしれない。

「でも成仏できていませんね」と尋ねる。

「そうです! そこなんです。私としてもこんなところにいないでさっさと天国……まあ地獄という可能性もなくはないですが……とにかくあの世へ行きたいのです。私自身も自分にやり残したことがないか考えてみました。それで結局気付いたのですね」

「なんでしょう」

「この洗濯物です」

 そう言うと幽霊の男はぴっと勢いよく回転する洗濯機を指差した。来たときにこれは回っていただろうか、いや洗濯機は全て空だったはずだ。

「これが動いて見えるのはおそらく私とあなただけです。私の無意識的なエネルギー、未練の力で動いている風に見えているんだと思っています」

「これが未練なんですか?」

「そうです、私は洗濯物が洗い終わらないまま死んでしまった。私の深層意識では、どうせなら洗い終わってから死にたかったのでしょう」

「はあ」

 見ると洗濯機は洗濯があと十分、乾燥がまるまる三十分残っている。おそらくずっと時間が止まったままなのだろう。

「それだけじゃありません。私はこれを待っていった時、あることに気付いたのです。それは洗濯物を一つだけ家に置いてきてしまったことです。私はその時とても後悔しました。恐らく一番の未練はこっちでしょう」

 そんな未練があるものかと思った。もしそれが本当に未練だったらこの世に一体どれだけ漂っている死人がいることだろうか。押し合い圧し合いで生け簀の魚みたいになってしまう。

「それであなたにお願いがあるのですが」

「何でしょう」

「今言った私の置いてきたものを持ってきて欲しいのです」

「そんなことすぐに出来ませんよ」と言った。第一洗濯をしにきただけなのだ。除霊をしにきた訳ではない。

「大丈夫です。何も私の家まで行って取って来ていただたく訳ではありません。ただ同じようなものを用意していただければいいのです。要は形ですから。生前好きだったものをお供えするみたいなものです」

「一応聞きますけど何を忘れたんですか」

「パンツです。普通の黒のボクサーパンツです。全く同じものを持ってくる必要はありません。あなたのものでもいいしコンビニに売ってるものでもいいのです。それを適当に汚しまくって、この洗濯機の中に入れて欲しいのです。お願いです。どうか!」

 そう言うと幽霊の男は深々と頭を下げた。しばらくどうしようか考えたが、この大好きなコインランドリーにいつまでもこの幽霊が突っ立ているのもあまり心地よいものではない。それで居なくなってくれるならそれでいいかと思った。長年培ってきたしがない会社員のお辞儀に敬意を表して、パンツを持って来てあげよう。

「分かりました。じゃあちょっとコンビニまで行ってきますから待っててください」

「本当ですか! いや素晴らしい人だ」と幽霊の男はスカスカの腕を挙げて喜んだ。


 財布と携帯だけ持って自転車に乗り込み、また来た道を戻る。コンビニはこっちの方にしかない。せこせこと車輪を深夜の道の上に転がした。

 コンビニで黒のボクサーパンツがちょうど売っていたのでそれを買う。深夜にパンツだけ買うのも何だか気が引けたので一緒にコーヒーやらお菓子やらを適当に買った。

 それらを自転車のカゴに入れまた走り出す。パンツを汚して欲しいと言っていたのを思い出したので、一旦コインランドリーを素通りして海に行った。

 夜の海は月の光を飲み込むほど黒い。パンツの袋を開け、そのまま海水へ浸けたり、砂浜を引きずったりした(深夜に何をしているんだろうか)。パンツに恨みは無かったので悪い気がしたが、これも一人の人間の為だ。

 砂を海水で流して水気を絞ってから、コインランドリーに戻った。

 幽霊の男はやはり居た。

「おや、お帰りなさい。持ってきてくれましたか。おお素晴らしい、これなら良いでしょう。さあ洗濯機へ入れてください」

「閉まっていますよ」

「大丈夫です、さあ」

 パンツを洗濯機のフタ目掛けて放り込むと、パンツはするりとフタを突き抜けて中へと消えた。

「時間を見ててください」と幽霊の男が言い、少し待っていると、あと十分だった洗濯の表示がぱっと九分に変わった。

「ああ、これで私はあと四十分ほどで成仏することが出来ます。本当にありがとう」

「四十分はかかるんですね」

「まあそうでしょう。お喋りでもしていませんか」

 そうして結局洗濯と乾燥が終わるまで幽霊の男と話していた。幽霊の男の話はどれもどこかで聞いたような身の上話だった。幽霊とて、もとは一人の人間だ。男は自分の中の残留物を全て吐き出すようにべらべらと話し、こちらはほとんど座って相づちしか打っていなかった。

 四十分は意外にもすぐに経った。洗濯機がピーと鳴り、がちりとロックが外れる音がした。

「おや、終わったようですね。これでこの世ともお別れです。あなたには本当に助けられました。話も聞いて頂いてありがとうございます」と幽霊の男は言った。

「どうぞ安らかに」と言ってみる。去り行く幽霊に対する挨拶はあまり思い付かない。

「ええ、あなたもお元気で」

 そう言って幽霊の男は天井まで浮いたかと思うとすうっとあっさり消えてしまった。コインランドリーはしんとなった。

 自分の洗濯がもうとっくに終わっていているのに気が付いて、衣服などを取り出した。洗濯物は犬や猫の体ようにみな暖かな熱を持ち、ふかふかとしている。バスタオルを顔に当てると肌触りがとても気持ち良い。

 それらをまたリュックに詰め込んでから、ふと幽霊の男の洗濯機を見てみた。いつの間にか洗濯機はもとのフタが開いた状態になっていた。中を覗いてみるとたくさん入っているように見えた洗濯物は何もなかったが、よく見ると一枚の綺麗になった黒いパンツだけがぽつんと残っている。履くかどうかはともかく一応それも回収しておいた。

 店を出て顔を上げると、夜空に浮かぶ白い月が目に入る。幽霊の男はコインランドリーからどこへ行ったのだろうかと、少し考えた。

 自転車に乗ろうとすると、駐車場の隣りの家の塀から細い木の枝が伸びている。月と同じ色をした梅の花が咲いていた。

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