第62話 新しい関係に慣れるように

「おはよう、ティア」

「は、はい。おはようございます、エルディ様」


 挨拶をすると、ティアはすぐに笑顔を向けてくれた。

 しかし、その笑顔にはどこか緊張があって、これまでのものとは少し違っていた。心なしか、普段よりも顔が赤い気がする。

 というか、目線もあっているようで合っていない。どこかエルディの少し後ろあたりを見ている感じだ。


「えーっと……何してたんだ?」

「え? えっと……に、睨めっこ、です」


 そこではっとしてブラウニーを床に下ろすと、茶色に胴長犬がちゃかちゃかと爪を鳴らしてエルディの方に歩み寄り、飛び掛かってきた。


「睨めっこって、何でまた」


 ブラウニーの頭をよしよしと撫でながら訊いた。

 ただの睨めっこではない事にはもちろん気付いていた。ブラウニーに何やら相談していたからだ。

 尤も、いくら彼女が天然とは言え、犬にまともな返答を期待しているわけでもあるまい。独り言、或いは自分に対する問い掛けといった部類だろう。何か深刻そうだったが、悩みでもあるのだろうか。


「な、何でもいいじゃないですか。朝ごはん作りますね」

「待った」


 ティアが誤魔化してそそくさと横をすり抜けようとしたので咄嗟に手首を掴むと、彼女は「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。

 しかし、身体は背けており、露骨なまでにこちらに顔を向けない。そこには断固とした意思を感じた。


「どうした? 何か変じゃないか?」

「な、何がですか? 何も変じゃないですよ? 私はいつも通りです」

「じゃあ、何でこっち見ないんだよ」


 エルディの手痛い指摘に、彼女は小さく「うっ」と呻いた。露骨なまでに変なのに、何でそれで乗り切れると思っているのだろうか。

 エルディは小さく溜め息を吐いて、ぐいっと彼女の手を引っ張きこちらを向かせると──そこには、真っ赤に顔を染めた堕天使の姿があった。

 まるで林檎のようにまっかっかで、その表情には羞恥が広がっている。


「え?」

「み、見ないで下さいぃぃ……」


 泣きそうな顔になって、ティアは空いている方の手で自分の顔を隠す。

 どういう事だろうか。どうやらとてつもなく恥ずかしがっているようだが、ここまで恥ずかしがる理由も意味も全くわからなかった。


「どうした……? え、もしかして俺、何かやっちまったか⁉」


 掴んだ彼女の手を離し、慌てて昨夜の記憶を掘り起こす。

 キスを散々した後、寝る流れになって……でも、彼女の寝息が聞こえるまで何もなかったはずだ。そこから背中に抱き着かれたけれど、その後も同じ態勢のまま朝方を迎えて、そこでようやく睡魔が訪れたのである。

 ティアは慌てて首を横に振って否定した。


「ち、違います! エルディ様は悪くありません!」

「じゃあ、何なんだよ」

「えっと……昨夜の事を思い出すと、急に恥ずかしくなってしまって。どんな顔でエルディ様と会えばいいのか、わからなくなってしまったんです」


 ティアは両手でその真っ赤に染まった顔を隠して、おずおずと説明してくれた。

 どうやら、昨夜は告白の勢いのままキスまで進んでしまったが、朝になって思い返すと恥ずかしくて悶えてしまっていたらしい。離れて寝ようと思っていたのに、結局目覚めたらエルディの背に抱き着いてしまっていた事も拍車を掛けていたのだという。

 先程ブラウニーとの相談も、この後どんな顔をしてエルディと接すればいいのかわからず、ただ心情を吐露していただけのようだ。


(何それ、可愛いんですけど──⁉)


 恥ずかしそうに事情を説明する仕草含め、ティアの反応があまりに可愛すぎて今度はこちらが悶絶しそうになってしまった。

 考えてみれば、ティアはこれまで生きてきて恋愛のの字も知らずに生きてきた。天使族は生殖活動を行わず、天使族の男女間では恋愛感情もないそうなので、それも当然だ。

 ティアはエルディと共に過ごすようになってから、その感情を知った。それは異種族だから故に抱いた感情なのか、彼女が堕天使になったからこそ抱くようになった感情なのかまではわからない。兎角、今のティアは少しずつ想いを募らせ、昨日、その想いの正体を知った。

 そんな少女が初めて恋愛感情を意識した挙句に、その相手と散々キスに明け暮れてしまったのである。その感情の起伏を自身の中で処理し切れず、爆発しそうになってしまうのも無理はない。

 昨夜も寝たというより、それらの処理が追い付かずにしまったという方が正しいのだろう。


「別に、今まで通りでいいだろ」


 エルディは強がって言った。

 自分も意識しまくっていたくせに何を言うかと思うが、ここでこちらもあたふたしていたら一生話が前に進まない。少なくともエルディだけは毅然として余裕を見せておく必要があった。

 しかし、その強がりも虚しく「む、無理です!」とティアは首と両手をぶんぶん振る。


「何で無理なんだよ」

「だって……ずっとエルディ様の事を考えてしまいますから。寝る前も、起きてからも。今朝もずっとドキドキしてしまっていて、何も手につきませんでした」


 指の隙間からこちらをちらりと見てそう言い、目が合うと慌てて顔を隠してしまった。

 台所の方を見やると、確かに朝食の準備をしようとした形跡がある。作ろうと思ったが、昨夜の事を思い出してしまって手につかなくなってしまった、というところなのだろうか。


(あー……もう無理)


 エルディは溜め息を吐いて自分にそう言い訳すると──そのままティアをそっと正面から抱き締めた。

 色々我慢しようと思っていた。だが、こんな姿を見せられて我慢しろという方が酷である。


「──⁉ エルディ様……?」

「お前が悪いんだぞ」

「わ、私がですか?」

「ああ。そんな風に可愛い事ばっか言われたら、俺の心臓が持たないだろ」


 そこまで言って、ほんの少しだけ彼女を抱き締める力を強める。ティアも諦めたように身体を少し脱力させて、こちらに身を委ねてきた。

 先程からあまりに彼女が愛しすぎて、いつも通りにしようとか、これまで通りに接しようとか、そういった事が如何に不可能なのかを改めて実感してしまった。

 ティアを可愛いなと思ったり、彼女の一挙手一投足にドキドキとしたりとする事は割と日常茶飯事だった。だが、彼女は恋愛感情というものを知らず、当然エルディにもそのような感情を抱いていないと思っていた。だからこそ、それらのドキドキを御する事もできたのだ。

 だが、昨夜に想いを伝え合い、二人は恋人同士になった。挙句に口付けまで交わしてしまっている。その事実がある限り、これまで通りになどできるはずがないのだ。ただの同居人と、恋人としての同居人では全く関係が異なる。

 今までエルディもなるべく恋愛対象としてティアを見ないようにしていた。それはある意味、己に課した制約でもあった。

 だが、その制約を一度でも越えてしまえば……これまで普通にできていた事も、できなくなってしまう。ティア程ではないが、エルディ自身もこれまでと同じではいられなかった。


「私の心臓も……持ちそうにない、です」

「知ってる」


 密着する彼女の身体から、嫌という程鼓動が伝わってきていた。

 どきどきと早鐘のように高鳴っていて、自分の鼓動のように感じるくらいに大きい。身体も熱くて、色々限界を越えてしまっているのもよくわかる。

 彼女の香り、感触、体温……それらの全てが心地良くて、ドキドキと癒しの両方を与えてくれた。独占欲などはあまりないと思っていた方だが、自分以外の誰かが彼女に触れるなど許せないと思う程に、彼女の全てを愛しいと感じてしまっている。

 自分もティアの事など何も言えやしない。


「うぅ……恋愛って、大変なんですね」


 ティアはエルディの胸に顔を埋めて、呻くようにして言った。


「何だよいきなり」

「幸せ過ぎて、どうにかなってしまいそうです。今日一日、何も手につかないかもしれません」


 ぎゅーっとエルディの服を掴んで、恥ずかしさや幸福感を何とか消化しようとしている姿が妙にいじらしかった。

 これらの感情が決して嫌なわけではない。だが、経験した事がないが故に、どのように処理すればいいのかもわからない。そんな感じだった。


「そういう時は……がいいと思うよ」


 エルディはティアの顎に手をやってこちらを向かせると、昨日と同じを行う為に、そっと顔を寄せる。

 彼女は小さく「あっ……」と吐息を漏らしたが、抵抗などはせず、目を閉じた。

 昨日と同じく、二人の唇が重なる。

 その柔らかい唇に何度かそのを繰り返すうちに、女としての本能なのか、彼女もエルディの首に腕を回し、そのに応えてくれた。

 このは、劇薬だ。一時的に恥ずかしさや胸をきゅっと締め付ける切なさを拭い去って、またとない幸福感を得るられるが、ひと時置けば、もっと相手が欲しくなってしまう。まだ恋愛を知ったばかりの堕天使には、ちょっと強すぎる薬だったのかもしれない。

 だが、それでもそのを繰り返す。それはきっと、そのなくしては、エルディ自身も彼女への感情を抑制できないからだろう。

 結局この日は一日、恋人としての二人に慣れる、という課題が設けられた。

 課題とは言っても、ただ一緒にブラウニーの散歩に行ったり、ご飯を作ったり、掃除をしたりと家でのんびりと過ごしただけだ。これまで通りの事を、新しい関係で行う。それだけだ。

 関係が変わったからと言って今まで当たり前にできていた事もできなくなってしまったのでは、本末転倒だ。仕事にだって差し支えてしまう。

「早く慣れるといいな」とティアに言うと、彼女は「そうですね」と前置きつつ、こう付け加えた。


「でも、あんまり慣れたくもない、かもです。この感覚は……きっと、凄く特別なので」


 この言葉で、エルディがもう一度悶え死にそうになったのは言うまでもない。

 お互いが恋人としての同居人に慣れるには、まだまだ先のようだった。


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