第7話

 まだ乾き切ってないようにも感じる髪の毛を夜の寒風に晒すと、流石に身震いがした。その上、認めたくないけれど若干の寝起きだということも相まって、日中の数倍は寒さを感じた。

 もう既に島の右側に太陽が沈み始めていた頃だった。長橋の正面から眺めると、太陽のある方だけが綺麗なコバルトブルーに染まっていて、もう一方──橋を挟んで左側は一面の真っ黒だった。その光景がどこか現実離れしていて、少しだけ気味が悪かった。ノグチはそれに向かって、慎重にシャッターを切った。珍しいな、と思った。

「鍵なかったね、どこにも」

「探したのは水族館だけだよ」

「私は探してないけどね」今すぐここから走って逃げ出したかった。

「心当たりは」

「動物園、水族館、あの島」

「じゃあ──」思わず笑いが漏れてしまった。ここまで必死になって探したのに、と言いたかったけれど、どうにもそうも言えないほどのどうしようもない探索だったのを思い出した。

「あっちしかないよ、あとは」

 彼女が微妙に笑いを浮かべながらそう言ったのを皮切りに、最後の足掻きだと、少しだけ笑い合って長橋を渡った。

「そろそろ返してよ、カメラ」

「気が早いね、最後一回だけ」

 ノグチはそう言ってインスタントに一度シャッターを切ると、ストラップを首から離して僕に手渡した。

「ありがと、楽しかった。カメラ」僕には今、残量板を見る勇気がない。

 橋を渡り切ってもそれまでにすれ違った観光客は片手で数えるほどと、やはり家族客の存在は大きいようで、視覚的にも聴覚的にももう静けさを感じる時間帯になった。その静けさがより異空間感を増しているのだと思う。僕は微かに彼女の温もりが残るカメラを掴んで、対岸に向けてシャッターを切った。絞りの調節を忘れていたけれど、どうでも良かった。

 もうあの雅楽も聞こえない沈黙を踏み潰しながら、階段を登る僕たちの足音だけが木々に響く。街灯も少なく、懐中電灯などの明かりがないとまともに歩けない程の暗闇の中、僕たちは歩みを進め続けた。足元を照らしたのは数本の街灯と二人のスマートフォンのライトだけだったけれど、やけに心強く思えた。


 そうして、中間地点の踊り場に似たところまで来た。



 ────確かに、銀色だった。ベンチのもと。朽ちかけた、燻んだ緑のかかったベンチの下。遠目から見ても、それが小銭やネジなどではないことは分かった。

「ねえ、渾身の一枚、撮ってよ。これで」僕はノグチにカメラを押し付けるように渡した。ノグチは「まじか」とだけ言って、僕の方へとレンズを向けた。

「僕じゃなくて、あっちの方とか、ほら」

 単純なもので、ノグチは分かりやすくがっかりしながらもここまで登ってきた階段にそのカメラを向けた。ノグチの一連の行動を確認してから、ベンチの方へと急いだ。そして、明確に掴んだ。

 寒風にさらされてひどく冷たくなった金属の温度が、僕の手のひらを冷やした。どう考えたってそのものだった。


「いい写真だよ、多分」

 ありがとう、とだけ言って、やけに自身気なノグチからカメラを受け取る。

 これで良かったのかは分からない。

 ただ、こうするしかなかっただけの話だ。


 結局もう境内まで来た。やはり流石に息が切れた。

「真っ暗だね、もう」

 ノグチのそれに、うん、とだけ返した。図らずとも様々な終わりを感じる。もう御神籤や絵馬の小屋もとうに閉まったようで、ここまでくると客足もゼロに等しかった。

「やっぱりないね、鍵──」

 一枚だけ撮った。


「撮った?」


「撮ってない」


「撮ってよ」


 埃に似た匂いが、木々の湿った香りに混じって鼻を穿った。一月も終わる。冬も終わる。


「撮ったよ」

 

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