作者の視点

ぶっくばぐ

第1話

 少し昔の出来事である。

 


 ガキ見かけたらとりあえず石を投げろ。


 錦坂にしきざか市で、特に宗教施設を中心に広まったこの言葉の言いだしっぺは、赤見町福雲寺の雲外和尚だとされている。もうすぐ米寿を迎えるくせに、タバコとカップ酒を手放さないクソ坊主だったし、最近ではボケも進んでいつ声を掛けても「おはよう」と返事してくる。が、とうとう逝くところまでイッてしまったわけではない。確かに寺や神社に老人が多いのは事実だが、町一つ呑みこむ伝染性のアルツハイマーが発見されたという話もついぞ聞かない。


 だからもちろん、原因はガキにあった。


 ガキというのは概ね小学生から中学生あたりを指し、あの頃の清水孝文しみずたかふみは錦坂第一小学校の五年生だった。クラスは一組で出席番号は九番で、十一歳になったばかりの、表向きにはどこにでもいるカタギのガキだった。


 しかし、表があれば裏もあるのが世の常である。例えば、第一小の中年教師、ロリコン間違いなしと言われていた篠崎しのざきが糖尿病の発作で緊急入院した。例えば、下級生からカツアゲを繰り返していた六年二組の原口を、とある連中がトイレにラチってボコってしまった。そんな校内で日々発生する小事件に、一介のカタギのガキがどうして関与を囁かれるのか。


 根も葉もない噂にすぎないと切り捨てるのは簡単である。清水は教師連中に尻尾をつかまれるようなヘボな仕事はしない。だが実際、間抜けな大人には見えないだけで根っこも葉っぱも無論あり、情報通の生徒に五百円玉でも握らせれば、ちょっとした武勇伝などいつでも聞ける。


 特に有名なのは錦坂第二小学校との一大抗争で、清水にしては珍しく派手に動いていた。日頃グラウンドの占有権をめぐって血みどろの争いを続けている五、六年生をまとめあげ、第二小に妨害工作を仕掛け、情報収集にいそしみ、相手の思考を誘導してこちらに有利な戦場を選ばせ、前日のうちに落とし穴を掘らせるということまでしている。それでもまだ足りなかった。もともと生徒数がケタ違いであり、勝てる保証は万に一つもなかったのだ。清水が呼んだ助っ人の現場指揮のもと、三倍の軍勢を相手になんとか引き分けたこの一件は「黄二重きぶたえ公園第2グラウンドの合戦」と呼ばれ、錦坂の小学校では今なお語り草になっている。


 さて、ボケたクソ坊主の言葉が錦坂中に広まった原因について話を戻す。原因はガキにあり、あの頃の清水は錦坂第一小学校の五年生で、クラスは一組で出席番号は9番で、十一歳になったばかりの、めったとお目にかかれないヤクザな悪ガキであった。


 早い話、全部こいつが悪かった。


 被害にあった者はこう証言する。最初は「神や仏はどこにいる」という問いから始まったと。自分が信仰している宗派について真面目に語った者はまだいい。宗教など所詮気休めにすぎないという救いがたい現実を、十歳前後のガキに諭されるだけですむ。だが適当にあしらった大人に対して、清水は容赦しなかった。全人格のみならず、信念生き方容姿性格から家族構成、さらには存在することによって生じる世の中への影響までクソミソにけなさされる。具体的にはお前の先祖は廃人寸前の飲んだくれであり、お前の子孫は根性ばば色のろくでなしだと断言される。


 キレて掴みかかった者もいたらしい。そういう連中は皆、偶然・・通りかかった警察に取り押さえられ、子供に乱暴する宗教者として評判がガタ落ちになった。


 不幸な話である。


 大人気ないから悪いのだ、とそう言ってしまえばそれまでだが、やられる方はたまったものではない。しまいには模倣犯まで出てきた。大河ドラマに出演が決まっていた若手俳優が覚せい剤所持で捕まり、人気のない気象予報士が遅れ気味の梅雨明け宣言をしたその日、市内の宗教施設は清水の名をブラックリストの頂点に入れた。





 どう見ても聖職者とは思えない、コスプレをした死刑囚だと言われたほうがまだ納得できる巨漢の神父は、こちらの顔を見た瞬間襲い掛かってきた。


 殺されるかと思った。


 半泣きで逃走したのが五分前。命からがら振りきったのが三分前。それでもまだ安心できずに、必死こいて自転車をこぐ教会からの帰り道だった。今日の時間割に体育があったことを深く深く感謝する。縄跳びでとっさに神父の足を引っ掛けなければ、自転車に乗る余裕すらなかった。旗霧はたぎり峠のてっぺんからふもとの公園までの下り坂を一気に駆け下りる。三秒ごとにギアを上げ、ぺダルにかかる抵抗が増してはすぐに減っていく。行きの敵は帰りの味方というやつで、自転車はどこまでも加速していった。


 清水は鼻から細い息を吐いた。息と一緒に身体の緊張が溶けて出ていく。肩から力が抜け、ハンドルを握る手がゆるみ、もうペダルを漕がなくても自転車は勝手に走っていった。「うあー」とも「おえー」ともしれない自分でも意味不明の声がもれる。

空しさだけが残った。


 その空しさは、穴を掘っては埋め返すのと同レベルの自分の行動を嘲笑っていた。もはや清水の目には後方に流れていく電柱も、アスファルトの白線も、住宅の合間に見える田んぼや畑も映ってはいない。流れていくのは過去の記憶の濁流であり、そのときの己が思考と行動であり、合間に見えるのは冗談めかして誤魔化していた自分の本音だ。めちゃくちゃに混乱しているそれを、ひとまとめにしてある公式に放り込み、さらに素因数分解してやると二秒もかからず答えが出てくる。人に言うにはあまりにも恥ずかしく、考えると情けなさのあまりに死にたくなるような動機。


 現時逃避に決まっていた。


 清水孝文が宗教施設を襲う理由はなにか。実をいえば本人の預かり知らぬところで、これはずいぶんと注目を集めていた。胴元不明のトトカルチョが開催され、早くから校内に大量の噂が発生しており、擦り切れるまで消費されたあと、排泄されて新たな噂を生み出す肥やしになっている。勢力図は毎日塗りかわり、昨日までの最新情報は次の日にはとっくに賞味期限切れへと変わった。現在の有力候補は「インチキ霊媒師に騙された親戚の仇討ち」説で、二週間で校内の三割近くを制圧している。淘汰され、死屍累々と積み重なった敗者の群れの奥深く。信憑性の欠片もなく、流した本人ですら信じてなかった噂話のなかに、こんな話があったことなど誰もが忘れていた。


 曰く『清水は自分では解決不可能な悩みをかかえており、神仏に逢って救われようとしている』


 惜しい。解答者にはティッシュペーパー半年分をプレゼント。


 清水は相も変わらず痴呆のような表情を浮かべている。抵抗のないペダルをしゃかしゃかと無意味に回したり、左ブレーキだけかけて後輪を滑らしたりしている。


 ため息をつく。


 まったくどいつもこいつも買いかぶりすぎである。相談どころか愚痴すら言えない。そもそも悩みなんて最初から個人的なものに決まっているし、解決法だってアホでもわかる。ただそれを実行するクソ度胸だけが問題で、正解どおりに動ける奴など最初から悩みはしない。


 はっきり言ってビビってた。


 結果がわからないということを、これほど恐ろしく感じたことはなかった。何もかも全て上手くような、そんな絶対確実な保証が欲しかった。


 そのために神を捜した。


 神社にいたずらを仕掛けて神主を怒らせたり、寺院を襲撃して坊主を怒らせたり、まだ何もやってないのに教会の神父から逃走したりした。罰というものがあるのなら当たってみたかった。


 坂道は終わりに近い。すでに三つの信号を無視し、二つの橋を通り過ぎた。清水はうつむいていた頭を上げる。傾き始めた西日に目を細める。彼方へ飛んでいくカラスをやたら羨ましく感じて、精神的にキてるなと自分でも思う。


 ――この世に神はいないのか。


 いないのだろうと思う。口元が苦笑に歪んだ。清水の脳裏には、十分前の恐怖体験が浮かんでいる。なにしろ、あんなのが神父をやってるのだから。


 カーブにさしかかり、クラゲのごとく脱力した身体を傾ける。


 唐突だが旗霧峠の下りで、徒歩以外の交通手段を使う場合、必ず前方に注意しなければならない。ブレーキで速度を落とすことは言うまでもない前提条件である。ど田舎の道路だし道の幅は無駄に広い。歩道だって自転車三台は余裕で通れる。が、ハンパではない傾斜と冗談のようなヘアピンの角度がそれらのメリットを全てくびり殺している。「ハラキリ峠の度胸坂」と呼ばれているのは伊達でもハッタリでもない。初めて見た人は例外なく笑う。自転車で車をあおれる。大昔にはチャリンコ暴走族という集団がいて、ノンブレーキで下りきるのが頭になる条件だったとか。



 ところで清水は今、上の空でカーブを抜けた。



 本人の名誉のために述べておくが、清水は決してトロい奴ではない。人並みの反射神経と人並み以上の判断力を持っている。だから前方30メートルのところにいる人影に即座に気付いた。彼方を彷徨っていた目の焦点を合わせ、その人影が同級生でクラスメイトで幼馴染の辰野聡美たつのさとみだということを、冷静に確認する。


 冷静なのもここまでだった。


 あまりにも意外な人物の登場に、清水のなかの冷静な部分は残らず蒸発してしまった。これはあくまで例外で、いつもなら異性人がヒッチハイクをしていても驚かなかったに違いない。そんなことを言っても誰も信じないだろう。現実に清水の全身はこわばり、息は止まり、遠近感は狂っているのだから。落ち着いて避ければまだ間に合うはずなのに、聡美がまるで目の前にいるように感じる。それなのにブレーキを引くことは意識の上層にのぼらない。衝突実験用の人形そのままの見事な無能ぶりをさらし、身動き一つできない。


 人ひとり撥ね飛ばすのに、十分な速度だった。


 直撃コースだった。



                              


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