地獄

「うわああああああああ」


 俺はベッドから飛び起きて慌てて首に触れた。何度も何度も触れてしっかりと事を確かめる。

 

 ……よかった。繋がってる。

 

 その事実に安堵しながらも動悸がおさまらなかった。心臓の鼓動が激しい。


 一度大きく深呼吸をして鼓動が落ち着くのを待った。

 

 死ぬ間際の気持ち悪い嗤い声が耳にこびりついて離れない。

 

 俺は確実に死んだ。そう断言できる。

 首に感じた痛み、朦朧としていく意識、押し潰されそうな程の恐怖。逃れられない絶望感。

 

 あれは紛れもなく『死』だ。

 

 俺は『死』を経験した。

 

 悍ましい。あんな経験してしまったらおよそ正気ではいられない。

 

 ……そもそもなんなんだあの化け物は!

 

 あんなものは見たことも聞いたこともない。

 多くの心霊現象や都市伝説を調べてきたが、あんな禍々しいモノは知らなかった。


 ……でも夢だ。


 ならもう二度と見ないはずだ。そう考える事にした。そうしなければおかしくなってしまいそうだった。


 もう一度深呼吸をするとようやく落ち着いてきた。

 そうしたら大量にかいた汗が気になってきた。ひんやりとしていて気持ち悪い。


 ……着替えるか。


 ちらりと枕元に置いてある電子時計を見ると時刻は六時半。目覚ましは七時にセットしてあるのでまだ余裕はある。


 いつもなら二度寝と洒落込むところだが、とても眠れるような気持ちにはなれなかった。


 ベッドから起き上がると電気をつける。

 服を脱いで、クローゼットに入っている着替えを取り出そうと扉を開けた。


 部屋にあるクローゼットには姿見鏡が付いている。

 開けるとちょうど全身が映り込む。いつもは気にせず着替えを取り出すのだが、今日に限っては変なものが視界をよぎった。


 ……ん?


 俺はまじまじと鏡を見つめる。ソレを見つけた瞬間、背筋に怖気が走った。

 やっと落ち着いてきた心臓が早鐘を打つ。

 

 首に痣が付いていた。


「なんだよ、これ」


 その痣は首を一直線に走っていた。まるでような痣だった。

 



 それから先はよく覚えていない。


 学校に登校し、始業式を済ませて午後には下校となった。

 幼馴染の二人に遊びへ誘われたが、とてもそんな気分にはなれなくて断った。


 そして家に着くとすぐさま部屋に閉じこもった。


 ……あれは普通の夢ではない。


 そう直感が告げていた。

 首の痣がなければあるいはそう思えたのかもしれない。

 しかし昨夜斬られたその場所に痣があるのだ。とても偶然とは思えなかった。


 ……寝たくない。


 そう思い、部屋から出て冷蔵庫へ向かった。珈琲を取り出してがぶ飲みする。

 

 普段は飲まないブラックコーヒーだ。ただひたすら苦い。母さん曰く子供が飲むものではないらしい。


 無断でもらう事に少し罪悪感を覚えたが、後で謝れば許してくれるだろう。


 その足でコンビニまで行き、眠気が覚めると話題のエナジードリンクも買ってきて机の上に並べた。


 そうして万全の状態で夜を迎えた。

 寝ないようにベッドには入らない。朝まで扉の前で立っているつもりだ。少しでも眠気がきたらエナジードリンクを飲んで誤魔化す。


 そうして時刻は三時になった。

 流石に足が限界だった。なので俺は仕方なく椅子に腰掛けた。背中を預けると眠ってしまいそうだったのであくまで腰掛けるだけだ。

 しかしそれが悪手だった。無理にでも立っているべきだったのだ。


 

 

 ……嘘……だろ。


 気がつくと俺はあの暗闇に立っていた。昨晩と変わらない暗闇。静寂に支配された空間。

 間違いなく昨日死んだ場所だ。

 

 信じられない。信じたくない。


 心臓が早鐘を打ち、背筋に冷たい汗が流れる。恐怖で心が竦む。

 

 だがそこで思考停止する事はできない。

 あの痛み、寒さ、絶望をもう二度と味わいたくなんてなかった。


 ……どうする?

 ……考えろ。

 ……考えろ。

 ……考えろ。


 ひたすらに頭を働かせる。

 このまま何もしなければ待っているのは死だ。


 ……逃げるか?

 ……でもどこに?

 ……逃げ場なんてあるのか?


 わからない。何もわからない。考えたくもない。だが考えなくてはならない。


……どうするのが正解だ?

……何をするのが不正解だ?

……どうしたら生き残れる?


 答えの出ない自問自答を繰り返す。

 

 その僅かな思考時間が。

 

 ――致命的だった。



 トスッっという音と共に右肩に激痛が走った。


「ぐっ……がッ――あああああああ!!!」


 焼けるような痛みに絶叫が迸る。堪えようとしたができなかった。

 咄嗟に傷を手で抑えると何かが刺さっていた。

 その何かがゆっくりと右に回転する。少し動くたびに激痛が走り、俺の口からは聞くに耐えない絶叫が迸った。

 

 反射的に刺さったモノを抜こうとしたが、びくともしない。

 そうこうしている内に刺さっているモノが上へと移動を始め足が地面から離れた。

 結果、全体重が右肩にかかり肉が裂けていく。あまりの激痛で頭の奥に火花が散った。


……痛い。

……痛いいたい。

……イタイ痛いイタイいたい痛いいたいイタイ。


 あまりの痛みに意識が飛びかける。

 だが断続的に襲ってくる痛みで気を失う事は許されなかった。


「キヒッ」


 忌々しい嗤い声。

 痛みに歯を食いしばりながらも俺はソイツを見た。悍ましい化物だ。それは知っている。

 だが昨日の化物とは形が違う。一番近い生物だと蜘蛛だろうか。

 

 俺の身長よりも遥かに大きい。

 顔には無数の目がついていて、その下には昨晩の化物と同じで人間の歯が並んだ口が付いている。

 腹に当たる部分は無く、その代わりに足が無数に生えており球体を作っていた。

 例えようもない気持ち悪さがソイツにはあった。俺は生理的な嫌悪感を抱いた。

 

 その足の一本が右肩を貫いて俺を持ち上げている。


「キヒヒヒヒヒヒヒヒッ」


 何がそんなに面白いのか。ソイツはずっと嗤っていた。

 

 蜘蛛の脚が三本持ち上がる。ゆっくりと俺に照準を合わせるように。

 瞬時にその意図を察した。このままだとまずいと直感的に理解した。

 なんとか避けようともがき続ける。

 だが右肩が固定されている上に宙吊り状態だ。避けようとしてもまるで意味がない


――シュッ。


 という風切り音を聞いた時には右太腿、左脇腹、左脹脛に激痛が走った。


「――ぁ――ぁああ」


 叫んだら喉が潰れた。思うように声が出なくなる。


「キヒヒヒヒ」


 止まらないワライゴエ。

 忌々しい嗤い声。

 気持ちの悪い笑い声。

 

 続けて脚が一本持ち上がる。

 避けようとするが大量の血液が失われた身体には体力が残っていなかった。


 抵抗虚しく、突き出された脚は右肺に突き刺さった。


「ゴ――フッ」


 口から血液が溢れ出す。痛みで思考がままならない。ただただ呼吸が苦しい。

 

 また脚が持ち上がる。完全に痛ぶって遊んでいる。俺はそれを見ていることしかできなかった。

 

 再度、激痛が走るがもうどこに突き刺さったのかすらわからない。感覚がほとんど無くなっていた。

 

 次第に瞼が重くなっていく。もはや痛みは感じない。

 さらに脚が持ち上がるが、それがやけに遅く感じる。

 最後に見た光景は視界いっぱいに映り込んだ蜘蛛の脚だった。


「「「「「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!!!」」」」」


 意識が消える最期の時までの哄笑が鳴り響いていた。




 それから地獄が始まった。

 眠りに堕ちると必ずあの暗闇にいる。そして数分も経たないうちにが始まる。

 それも毎回違う方法で。より凄惨に。より残忍に。

 

……水のない場所で溺死を経験するとは思わなかった。

……火のない場所で焼かれるなんて思わなかった。

……何もない空間で押し潰されるなんて思わなかった。


 ヤツらはないなら作ればいいと言った気軽さで水を火をと様々なモノを創り出した。

 

 全ては俺を殺す目的で。


……あらゆる死を経験した。

……あらゆる殺傷を経験した。

……あらゆる拷問を経験した。


 よく「死は救済だ」なんて言うけれどそれは正しいのだと理解した。

 

 生きたまま切り刻まれる痛み。

 生きたまま潰される痛み。

 生きたまま焼かれる痛み。

 

 そんなものを味わうぐらいなら一思いに殺してくれればいい。

 

 だがヤツらにとってこの行為はあくまでも遊び。ただの遊戯なのだ。

 

 だから俺が苦しんでいる方が長続きする。

 

 痛みを感じる心など無ければ、痛みを感じる感覚など無ければ。何度もそう思った。

 

 そうして俺は殺され続け、僅か一ヶ月で黒かった髪の色は病的なまでに白く抜け落ちた。

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