閉じた宇宙を開くとき⑦
クロエは、ファミラナに覆いかぶさったまま、ルイテンを見つめている。何を話しているのか、ルイテンの耳には入らない。
ルイテンに言われるまま、ファミラナに覆いかぶさり助けを乞うた。だが、上手くいく保証など何処にもない。全ては、ファミラナのテレパシーにかかっている。
「ファミラナさん、声は届きますか?」
クロエはファミラナに問いかける。スコーピウスに疑われないよう、言葉には細心の注意を払う。
痛みのためにぼんやりとしていたファミラナだが、クロエの問いを理解すると頷いた。
クロエも頷き返す。ならば、あとは時間を引き伸ばさなければ。
「教えてください」
クロエはスコーピウスを見上げる。そして、ヴィオレにも視線を向けた。
「私は、何故攫われたんですか?」
クロエの問いには、ヴィオレが反応した。ルイテンの腕を鷲掴みにして、動かないルイテンを引きずる。そうしてクロエに近付くと、煌めく髪を片手で掬った。
「だってー、この髪、綺麗なんだもん。欲しかったんだー」
クロエは眉を寄せる。ヴィオレの言葉が理解できない。
ルイテンはクロエを見上げて、小さく首を振った。
「この魔女は、ヒトの命を食べるんだ。だから、このままだとクロエも食べられちゃう」
クロエは体を強ばらせる。にわかには信じがたいが、先程のヴィオレの魔術を見ていると、本当のように思えて怖かった。
だが、ヴィオレは首を振る。
「お気に入り達は確かに食べるけど、『自覚なき魔女』については別目的なんだよねー」
ヴィオレは、悪気なく言った。
「この体、ガタがきてるから鞍替えしようと思ってー」
その言葉が、あまりに自然に発せられたものだから、ルイテンは何を言われたか理解できなかった。やがて浸透していくように、じわりじわりと理解すると、ぶわっと鳥肌が立った。
「クロエの体を、奪うの……?」
ヴィオレは満面の笑みを見せた。
「だいせいかーい。ねぇ、いい考えでしょー?」
あまりの言葉に、その場にいた誰もが唖然とした。スコーピウスもだ。彼には、クロエを攫う理由を聞かされていなかったと見える。
「でも、鞍替えしたらみんなに魅惑をかけ直さなきゃいけないよねー。それがちょーっとめんどくさいなー」
クロエは体を震わせる。体を奪われた後、自分はどうなってしまうのか、想像ができない。
ガタがきているらしいヴィオレの抜け殻に閉じ込められるのか、それとも亡霊として彷徨うことになるのか……どちらにせよ、クロエは魂を抜かれ、殺されてしまう。
全て、この髪のせいだと、クロエは頭を抱えた。
「そこの烏は死にかけだし、鯨の子だって動けない。もう諦めてくれる?」
ヴィオレは言う。クロエは首を振る。
絶体絶命の状況であったとしても、自分の命を手放すなど、できるはずもない。
何より、絶体絶命の絶望ではないのだ。
突然激しい音を立てて、玄関ホールの扉が押し開けられた。プラチナブロンドの髪がなびく。
彼はマントを広げ翻し、雷の鳥籠に飛び込んだ。雷がマントに触れた瞬間、数本の雷が反射する。
その内一本の雷の筋が、真っ直ぐヴィオレを狙って落ちてきた。ヴィオレは後ずさりして、それをかわす。
「ファミラナ、
クロエとファミラナを、ヴィオレから守るようにして、彼は立ち塞がる。
レグルスがそこにいた。
「レグルスさん!」
ルイテンとクロエは、声を揃えて彼の名を呼ぶ。そんな中、ファミラナは声を出せない。血を流しすぎて意識が朦朧としていた。
レグルスはファミラナを見て、続いてスコーピウスを睨みつける。刃物による裂傷をつけられるヒトは彼以外にいない。
「お前か」
レグルスは大剣をかまえると、切っ先をスコーピウスに向ける。レグルスの目には、強い怒りが滲んでいた。
「おや……」
スコーピウスは、口元に笑みを浮かべる。だが、意表を突かれたのは明らかだった。まさか、レグルスがここに現れるとは思っていなかったのだ。
レグルスの、獅子の大賢人の
「……つまんない」
ヴィオレは、幼さが残るその顔に、怒りと不快感をありありと浮かべる。だがそれは、自分の計画が上手くいかないことに苛立っているというよりは、目の前を飛び回る羽虫を
「処分して。今すぐに」
スコーピウスはエストックをかまえる。
「かしこまりました」
そして、消えた。
レグルスは、前方からの攻撃を予測し、大剣で受け止める。金属音が響く。
スコーピウスからの重い一撃を、レグルスはしっかりと受け止めていた。
「ほう……」
スコーピウスは目を細める。
「あん時の俺じゃ、ねぇんだよ!」
レグルスはスコーピウスの腹を蹴る。予期はしていたが避けられなかった衝撃、スコーピウスは後方によろけながら、苦々しく顔を歪める。
レグルスは、スコーピウスに休む暇を与えない。一歩踏み込み、大剣を横に薙ぐ。スコーピウスは素早く避ける。
「クロエ、ファミラナ抱えて離れてろ!」
レグルスは、振り向きせずに指示を飛ばす。クロエは頷いて、脱力したファミラナを抱え、じりじりと離れていく。
スコーピウスは再び消える。
実際には、速度上昇により、レグルスの目には映らなくなっているだけだ。だが、それがレグルスを追い詰めていく。
暗闇で、気配を頼りに戦っているような感覚だ。僅かに聞こえる風切り音を耳にした瞬間に、大剣を盾のようにして攻撃を防ぐ。
前から、後ろから。
右から、左から。
脳天に振り下ろされようとする攻撃も、全て防ぎきらなくてはならない。一度でも間違えれば、死に繋がる。
レグルスは、幾度も襲い掛かってくるその攻撃を全て防ぎきる。そして、
「おらぁ!」
気配がした、後方。足を踏みしめ、大剣を後ろへ振り回す。その一撃は、確かに金属質の音を響かせた。
消えていたと思われた、スコーピウスの姿が露わになる。彼はエストックで大剣を受け止めていたが、細身の剣では重い大剣の一撃を受け止めきれず、先端が折れていた。
大剣は、スコーピウスの肩に傷をつける。斬るというよりは、叩き折るかのような衝撃。裂傷を作ると同時に、肩の骨は砕かれていた。
「腕を上げたものだね」
スコーピウスは微笑む。
「まじかよ」
レグルスは苦笑する。
骨を砕かれる痛みなど、常人であれば苦しむのが普通だ。だが、スコーピウスは、まるで痛みを感じていないかのように笑っていた。
事実、スコーピウスは痛みを感じていない。
「レグルスさん!」
ルイテンは、痛む体を起こして叫ぶ。
「スコーピウスの
掠れた声で精一杯に叫んだものの、うまく発声ができない。だがレグルスには聞こえた。そして理解する。
「戦えねぇように、叩き潰すしかねぇのかよ」
レグルスは大剣をかまえ、駆けだす。スコーピウスへ距離を詰めるが、剣を振るうより前に敵の姿が消えてしまう。
背後に気配を感じ、レグルスは体を反転させた。エストックの切っ先が宙を突く。一瞬、スコーピウスの姿が視界に入った。
反転する勢いそのままに、レグルスは大剣を振るう。だがそれは、易々とかわされた。
レグルスは段々と追い詰められる。鳥籠の隅へと。
スコーピウスの見えない剣を防ぎながら、じりじりと後退していった。
「さっきの威勢の良さはどうしたんだい?」
前方から、スコーピウスの声が聞こえる。レグルスは防戦一方だ。
背後は雷の壁。触れれば、耐えがたい痛みに襲われる。
この状況下で、レグルスはほくそ笑んだ。
「随分と余裕なものだ」
それを見たスコーピウスは、レグルスを嘲る。
「おい、蠍のおっさん。獅子の
レグルスは言う。
そしてマントを広げ、雷の中に飛び込んだ。
雷は、マントに触れた瞬間、反射する。それはレグルスを焦がすことなく、目の前に迫るスコーピウスを貫いた。
速度を底上げしようとも、雷の速度は越えられない。スコーピウスは途端に痺れ、その場にどうと倒れた。
「な、に……」
痛みを鈍化しているスコーピウスは、何が起こったのか理解できなかった。自分の体が雷に焦がされたことに、遅れて気付く。
瞬間、
「がぁぁ!」
遅れて、スコーピウスの体に痛みが駆け巡る。灼熱の炎に焼かれながら、体中を刺されるかのようなその痛みに、彼は白目をむき、どうと倒れた。
レグルスはヴィオレに目もくれない。マントを羽織り直し、気絶したスコーピウスを跨いでファミラナに近付く。
「ファミラナ、大丈夫か?」
ファミラナは意識を手放している。今にも事切れてしまいそうなほどに、真っ白な顔をしている。
クロエが圧迫止血を試みているものの、流れる血の量があまりに多い。クロエの手は震えていた。
「貸してくれ」
レグルスの言葉に、クロエは頷いてファミラナを託す。レグルスはファミラナの傷口の深さに驚きながら、止血に使っていたクロエのハンカチを無理矢理ねじ込んだ。
クロエはぎょっとしてレグルスを見た。
「これで、止まってくれよ……」
何枚かの布切れを押し込んだところで、ようやく流れ続けていた鮮血が止まった。レグルスは安堵する。
「さて……」
レグルスは辺りを見回し、状況を把握する。
クロエとファミラナはそばにいる。
ネクタルは地に伏しているし、ルイテンは足元が覚束無い。
レグルス自身は、ヴィオレに睨まれていた。
簡単には逃がしてくれそうにない。
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