閉じたる事象の地平面④
「私のことだよー」
その声は、唐突に聞こえた。
クロエは当たりを見回す。アルゲディも、スピカも同様に、辺りに視線を走らせた。
どこからともなく、ふわりと泡が漂ってきた。紫色をした無数の泡は、クロエ達を避けて宙を漂う。
行き交うヒトビトの頭に近づいたその泡は、彼らの目の前でぱちんと弾ける。疎らに歩いていた彼らは、一瞬呆けた顔になると、次の瞬間再び歩き出した。やがてクロエ達のことが目に入っていないかのように、帰路を急ぐ。
「え、な、何……?」
クロエはその異様な雰囲気に怯え、自身の両腕を抱きしめた。
紫の泡は、どうやら店の中へも入ったようである。店からは客がぞろぞろと出ていき、店主は店の明かりを消した。
その人混みに紛れて出てきたのは、マントを羽織ったレグルスであった。
「
レグルスはスピカに問いかける。
「だめ……無理……」
スピカは息を荒げて、その場に屈む。
クロエはすかさずスピカに駆け寄った。
「スピカさん、大丈夫ですか?」
クロエはスピカの顔を覗き込む。
スピカの顔は真っ青であった。貧血か、それとも目眩か。焦点は定まらず、瞳はくらくら揺れている。
「スピカは
レグルスは言う。彼は帯刀していたロングソードに触れ、いつでも抜けるように構えている。
その時、クロエは見た。まるで、夜の闇から滲み出てくるように現れた、少女の姿を。
闇のように黒い髪、血のように赤い瞳。彼女は二人の男性を両脇に引き連れて、にっこりと笑みを浮かべている。
「お前は……?」
レグルスが問う。
それに答えたのは、少女ではなくアルゲディであった。
「あれが歓楽の乙女。歓楽の魔女。『喜びの教え』の指導者だ」
少女は、歓楽の魔女は、アルゲディの説明が正しいことを、拍手して褒めたたえた。
「アルゲディは偉いねー。私のこと、覚えててくれたんだ」
「そりゃどうも」
アルゲディは蚊の鳴くような小さい声で返事する。それを、歓楽の魔女は聞き取れていないのか、すぐにアルゲディから視線を逸らしてしまった。
「スピカにー、レグルスにー、ああ、魔女もいるねー。うんうん。
じゃあ、シェダルに……えっと、ドラスだっけ? お願いねー」
歓楽の魔女は、両脇に控えていたシェダルとドラスに声をかける。
クロエは目を見開いた。ドラスのことを、クロエはよく覚えていた。忘れられるはずがないのだ。彼は、クロエの魅惑を見破り、怒りを見せた人物であったのだから。
「俺、あんまり戦いたくねぇっすわ」
「でも、獅子の大賢人様相手には、僕の術は反射されるからね。迂闊に撃てないんだから、頼むよ」
「仕方ねぇっすね……」
ドラスは背負っていたハルバードを両手で構える。レグルスはそれを見て、鞘から剣を抜いた。
クロエは、あまりに突然の出来事に混乱していた。シェダルとドラスがここにいるということは、自分を、クロエを攫いに来たということだ。
先程の泡のせいなのか、通行人はいなくなってしまった。助けを呼ぶことができない。
「クロエ、スピカを頼むよ」
アルゲディは言う。彼は、スピカの背中に触れようとして、拒まれていた。
「俺は、スピカに嫌われてるからさ。だから、ここで時間稼ぎする」
「駄目よ……あなたがクロエを連れて行って。私は足でまといにしかならないわ」
「でも、
スピカは小さく唸る。何も言い返せない。
仕方なく、スピカはふらりと立ち上がってクロエの腕にしがみついた。
「三人に任せて、行きましょう」
「さ、ん、にん?」
クロエが問う。
次の瞬間、屋根の上から三本のナイフが落ちてきた。それはドラスの足元に突き刺さる。
「リュカがいる。レグルスもいる。
最悪、アルゲディさん、あなたの恐慌の笛で、どうにでもなるでしょう?」
「使いたくない」
「使うの。私に構わないで。いいわね」
スピカはアルゲディを睨み上げ、強い言葉で念をおした。
クロエはスピカの手を握る。スピカはそれに頷いて、クロエの手を引き駆け出した。
「あーあ、逃げちゃったー。
ドラスー、お仕置されたい?」
歓楽の魔女は、笑みを崩さず、ドラスの背中に問いかける。ドラスは無表情のまま、「嫌っす」と一言返事する。
歓楽の魔女は目を細めた。
「じゃあ頑張って。上手くいったら、ご褒美あげるからさー」
ドラスはやはり無表情であった。
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