捨てられた先輩と飲む話

月夜葵

 

 午後十一時。

 アルバイトを終えスマホの画面を開くと、LINEの通知が表示されていた。

 

『のみにこい』


 それだけの文章だ。

 しかしそれだけで誰が送ったのか、そしてどういう状況か容易に想像できてしまう。

 すぐさま液晶をタップし、メッセージを送信する。


『今バイト終わりました。欲しいものはありますか?』

『酒』


 ほとんど間を開けずにそう返ってきた。

 まあそうだろうな、という納得と、何度言ったら分かるんだ、という呆れが同時に頭を過る。


『未成年なので買えません』

『じゃあ焼き鳥』

『もも』

『しお』

『分かりました。着くまで飲まないでくださいね』

『わあった』


 それきり返信はなくなった。多分律儀に待つことにしたのだろう。あの人は酔っていても普通に意志疎通が出来るタイプだから。


 冷たい空気を肺に吸い込みポケットにスマホを仕舞うと、再びコンビニへと戻った。



 ***



 コンビニから歩いて五分ほど、多少壁が汚れてはいるがそれほど古くもないアパート、その三階の一室が今の家だ。

 大学に進学してから住み始めたばかりだから、実はそれほど経っていない。


 三階までの階段を上り、自室……を通り過ぎ、一つ隣の玄関前へと足を止める。 

 チャイムを押す。

 少し待つと、ガチャリという音とともに不機嫌そうな表情をした女性――夕凪さんが顔を覗かせた。

 だぼっとしたTシャツにハーフパンツ。普段の彼女を知っている人なら想像も出来ないほどラフな格好をしている。

 

「遅い」

「すみません。バイトがあって」

「……入って」


 ばつが悪そうに頭を搔き、夕凪さんは中へと引っ込む。

 言われた通り中に入ると、およそ想像通りの光景が視界に映る。


 白とライトブラウンを基調とした部屋には、衣類や空箱やら紙やらがあちらこちらに散乱している。足の踏み場がないという程ではないけれど、まあまあ汚い。

 その中央に位置する机には、空になった缶ビールやチューハイ、そして何らかのつまみが載っていたと思われる皿が置かれている。


「何本飲んだんですか」

「五本。君に言われてからは一本も飲んでない」

「数は数えられるんですね」

「馬鹿にしてるのか」

「いえ全く」


 そんな適当な会話を交わしながら、酔い醒ましの水をグラスに注ぐ。

 ソファーで脱力して液体と化している夕凪さんの前に置くと、夕凪さんはそれを一気に呷った。


「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……彼氏と別れた」

「……そうですか」


 長い沈黙を経て夕凪さんが絞り出した言葉は、とにかく簡潔な一言だった。

 しかしその一言がきっかけとなったのか、ぽつぽつと呟くように語りだした。


「浮気されてた」

「……」

「本人が言うには、体の関係を持っただけだってさ」

「……」

「あんなやつとは思わなかったよ。別れてせいせいした」


 言葉とは裏腹に、濁った目で重いため息を漏らす。

 相当堪えているのだろう。取り繕う余裕もないその表情は、見ているだけで痛々しい。


「なあ」

「はい」

「……男って、こうも信用出来ないものなのか?」


 ソファーに凭れながら、夕凪さんは空ろな声と共に天井を仰ぐ。

 まるで生気を感じさせないその言葉に何か反論しようと必死に考えたが、思い付く言葉は気休めにもならないようなことばかりだった。

 しばらくして、夕凪さんは静かな声で手を伸ばしてきた。


「もういい。焼き鳥くれ」

「はい。冷めてるので温めますね」

「ん」


 紙の袋から焼き鳥を取りだし、レンジで温める。

 一分ほどが経ち、温め終えた焼き鳥を夕凪さんの前に出すと、恐ろしいまでの勢いで食らいついた。


「……いくら落ち込んでても、美味いものは美味いんだよな」

「そういうもんです」

「そういうもんか」


 そう言ったきり、夕凪さんはじっと串を見つめる。

 そしてぽつりと感情の抜け落ちた声で呟く。


「なんで目が二つ付いてるかって、片眼を拷問で失ってもいいようにとかどこかで見たことが」

「それ捨ててください」

「心配しなくても刺しはしないよ。捕まるし」


 鼻で笑いながら、夕凪さんは大人しく串を渡してくれる。

 果たしてどこまで本気だったか分からないけど、その目に殺意が滲んでいたのは錯覚ではないだろう。


「ねえ、私が悪いと思う?」

「いえ」

「じゃあ、何で浮気された? 私が満足させられなかったんじゃ」

「それはないです。多分……違うタイプの相手とやりたかったとか、そんな理由でしょう」


 夕凪さんは眉間に皺を寄せる。


「男ってそんなに節操のない生き物なのか?」

「女でもそういう人はいますよ。ただそういう人が一定数いるって話です」

「それじゃあ……私に見る目がなかったのか」

「そんなことを言うと、「痴漢はされた方が悪い」という理論が肯定されることになりますよ」

「……」


 夕凪さんは無言で俯く。

 そしてしばらくの沈黙の後、呟くように言葉を漏らした。


「……ずっと、自分には勿体無いほどの彼氏だって思ってた。料理も美味しそうに食べてくれたし、私みたいな人を好きでいてくれる人なんて彼以外いないって、そう本気で思ってたんだよ」

「……先輩」

「もう…………何を信じればいいのか、分からないよ」


 夕凪さんは嗚咽の混じる声で、そう吐き捨てる。

 滴が頬を伝い、筋を作る。肩を震わせ、それでも声を漏らさないように堪えて。


 私は何も言わない。何も言えない。

 ただ無言で、先輩の話を聞いて、震える背中をさするだけだった。



 ***



「……君は、本当に、聞き上手だね」


「いえ。ただ私は自分の意見に自信がないから言わないだけです」


「それが、こういうときには助かるんだよ。ただ黙って、話を聞いてくれる。それがこういうとき、どれだけ、助かるか」


「……ありがとうございます」


「お世辞じゃないよ」


「……全く、」



「君が男だったら良かったのにさ」 

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