雨上がりのアルテミア・愚痴外来診療録

木沢 真流

VIPな客

「本当にこの道であってるの?」

「はい、確かにここで……えーと」


 女はもう、とあからさまに不愉快なため息をついた。高そうなサングラスにマスク。コロナ禍を良いことに、このご時世変装はしやすくなった。それでもそのスタイルと、抑えめな色を選んだとは言えエレガントなワンピースは見る人が見ればただの人ではないことがわかる。


「えーと、ここです。ここを曲がったら……あった」


 男はスーツ姿に額には汗を浮かべていた。この女を怒らせたら怖い、その思いで必死に目的地を探し出した。


「ほら、ありましたよ。写真通りです」


 女はサングラスをずらして、路地裏にひっそりと立つ診療所を眺めた。


「ふーん、ぜんぜん流行ってなさそうね。さびれてても驚かないでねとは言われていたけど」


 男は横目でちらちらと女の表情を伺っていた。


「達川」


 はいっ、と達川は背筋が伸びた。


「何つったってんの。いくよ」


 はい! と高い声を上げながら女に遅れまいと、小柄な後ろ姿は診療所に向かって歩き出した。



「あーあ、暇っすねー」


 受付の椅子に座りながら足を組み、受付嬢の三浦はひとりごちた。鼻の下にペンをはさみ、茶色がかったポニーテールが揺れていた。まともに化粧をすれば誰もが振り返る整った顔をしているのだが、お客が少ない分次第に化粧にかける時間がばからしくなり、徐々に見た目は落ちていった。


「せんせー、聞いてるんすか? 今週に入ってからこ三日間、一人もこないじゃないですかー。私のお給料出るんですよね」


 先生と呼ばれた男、心山むねやまは175cmはあるだろうすらっとしたシルエットの腰を曲げ、20cm四方の四角い小さな水槽を眺めていた。中では小指の爪ほどの生き物が数十匹ほどうごめく。


「義雄君、そっちにしたの? 昨日は下だったのに」


 三浦はふう、とため息をついてから心山むねやまの横に肩を並べた。そして水槽を眺める。


「義雄? 古風っすね。先生、このおばけえび全部に名前つけてるんすか?」


 おばけえび、正式名称アルテミア。8500万年前からその形を変えていないことから、生きている化石とも呼ばれている。乾燥卵のまま10年は生きると言われているおばけえびは、今や小学生の実験にもってこいの教材となっている。よく目をこらさないとわからないほど小さなエビがぴくぴくと動く姿は見るものに癒しを与えることもある。


「よく見てごらん、澪ちゃんがまた大きくなったんだよ、ほら」


 三浦は2秒間だけ見つめてから飽きた。


「はいはい、良かったですね。それより先生、先月の給料がまだ……」


 ガーー。自動ドアが開く音がした。三浦が入口を見ると、スタイルのいい女と小柄なスーツ姿の男が立っていた。


「こんにちは。ご予約の方……でしょうか」


 殺風景な診療所には似つかない、華のあるその姿に三浦はここのお客である自信がなくなった。隣の男がすかさず前に出た。


「はい、予約していた桜崎です」


 三浦はもう一度女を見た。高そうなサングラスにマスク。一見誰かわからない風貌をしているにもかかわらず、溢れ出るオーラがあった。この人どこかで見たことがあるような……。


「ご予約の桜崎様ですね、そこにおかけになってお待ちください」


 突然達川が三浦に近寄り、耳打ちをした。


「あの、ここVIPルームみたいなのはないんですか?」

「なんでですか?」

「いや……あまりこういうところに来ているのを気づかれたくないんで……」


 三浦が女を見ると、あたりを憚り、何かを気にしている様子だった。


「すんませーん、そういう気の利いたものはないんです。でも安心してください、ほら他にだーれもいませんから!」


 待合にはオープンスペースに椅子が6個、個室が4個あったが、どれも空いていた。達川が困った顔をして、うつむくと女の元へ戻った。そして何か説明をしたが、女はふんと言うだけで何も答えなかった。

 三浦が予約台帳を確認すると確かに名前はあった10:00 桜崎 美代子。


「安心してください、今のところ他に予約はありませんからそこでお掛けになってお待ちください」


 2人とも返事がなかったが、どうも居心地が悪そうに当たりをキョロキョロしていた。三浦は奥の部屋に入り、自分のスマホで検索をした。


「あの人、どっかで見たことあるんだよな、桜崎、桜崎美代子、と……。え、うそっ?」


 スマホが映し出したその正体に三浦は目を疑った。そして心山むねやまの元へ駆け出した。


「先生、先生! 大変です!」

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