第33話 料理人は甘くする

「言いすぎたかなあ……」


がっくりと俺はうなだれたまま、机の上にあるボンボローニの生地をこねる。こんな状態でも生地の状態に頭がいくのはさすがに職業病だ。自然酵母にこだわるのもいいが、正直にいえば市販の生イーストでも十分美味しいパンは焼ける。

「んん~~~~うまそうな匂いするけどまだか?」

「さすがにまだですってば、銀灰グリージョさん」

「んむぅ」

むにむにと形を変えていく生地をじいっと見つめながら突然にやり、と笑うとまたあくびをした。仰向けにごろりとだらしなく転がると俺の足の上に頭をのし、と乗せてふぅ、と息を吐いた。

「ちょ、ちょっと汚いし邪魔……いやもう何を言っても無駄か……」

「そうだそうだー。ムダだ!」

「いや、あなたが言わないでくださいよ……」

ちょっと動かそうとすると、足に抱きつくようにしてじゃれてくる。細くしなやかな筋肉の塊だけれど、動こうとして動けないことはないのでそのまま歩いていると楽しいようでキャッキャと笑い声をあげて銀灰グリージョは全体重をかけてきた。


「全く、俺の足が痺れたら退いてくださいね」

「やだ!」

楽しそうな銀灰グリージョだが、ふとぴくん、と体を揺らしたかと思うと、その銀色の瞳がギュッと獣じみた雰囲気を帯び、耳がぴょこりと立ち上がった。

「どうしたんです、いきなり狼化して」

「こないだお前、ゲボクできただろ」

「げッ……いや……違いないですけど、部下ですよ部下。まあ、彼らの全部は確かに握ってますけど……彼らがどうかしたんですか?」


ゲボク、と言われて否定しようとしたものの人市スキャーヴォで購入した手前強く否定できず、そう口にすると銀灰グリージョの銀色の瞳がこちらを見つめた。

「あの女から、染み付いた甘いニオイがするぞ」


ルクレツィアのことか、と俺は少し口の端を曲げた。

「ええ、わかってます。ルクレツィアは明らかに何かを隠している──おかしいのは料理を明らかに作りなれていないディーノの方が手際がよかったこと。まるでそっくり切り取って貼ってきたかのように」

「る……ナンとかって女、オマエの知り合いか?」

「うーーーーん……なんとなく見覚えはあるんで、たぶん客か、あるいは……同業者かな、と。でも、俺の頭に引っ掛かってるってことはわりとインパクトは大きかったんでしょうけど、たぶんそれに関連した料理を食べないと思い出せないかなあ、と」

「オマエはフデキだな~~~、オレは一度かいだニオイは忘れないぞ!」


そうにやりと笑っている銀灰グリージョにちょっといらっとして脇腹を爪先で擦るようにくすぐると、ゲハゲハとあまりに下品な笑い声を上げて逃げるように床を転がった。

「まあ、俺の異能を貫通できるほどじゃあないでしょうしあまり警戒しなくとも良いかな、と思います。正直使えないルクレツィアを雇い続けるよりは、ディーノを力で締め上げて食材の扱いを丁寧に教え込んだ方がいい。俺は別に慈善事業のために人を購入した訳じゃないんです。あまりに役に立たなかったら二人とも返品クビ、でいいかなと」


値段相応と言うものがあるし、彼らを雇いいれるに当たって俺の給料は全部飛んでいる。部屋の供与だって正直同性だったら相部屋にしていた。これでも、だいぶ甘っちょろいのう、なんてバルトロには言われたものだが。

明日の朝、ディーノの目があまり早くに覚めなかったらいいかな、と思ったその時だった。唐突にディーノはキッチンに現れ、ルクレツィアは影のように彼の後ろについて、そして眉を顰めて俺を見た後で少し地面に視線を落とす。どことなく申し訳なさそうな雰囲気をしているが、それでも何か強い覚悟の決まった上で俺を敵愾心たっぷりに見るように。


「マルコさん、すみません。俺が感情的になっていて……」

ディーノがぺこり、と頭を下げたところで俺は先ほどの荒れようを思い出して眉間に手を当てる。

「あ、いや、そういうのいらないから。スイーツさえ作ってくれればそれで」

いくつも並ぶ小さなボンボローニのクリームを詰め終わったものにフルーツを飾りつけ、それから甘いものだけではなくしょっぱいものもあると嬉しいだろうと用意した甘くないチーズとフェンネルシードのクッキーを横に添えておく。

「えっ……と」

どうやら気にしてませんよ、何て言われるのでも期待してたんだろうか、と思いながら見ていると彼は一度手をひくんと震わせてゆっくりと歩み寄ってくる。そして俺の手をぐい、と掴んだ。


「でもマルコさんは俺の才能よりもっとすごいものを持ってるんですよね。リストランテで副料理長をやってたなんて言うじゃないですか、料理の世界でもまだ若手だっていうのに」

ひくり、とこめかみがひきつったが角度的には見えていないだろう、と判断して軽くいなすように笑った。

「いいなぁ、あれば──人生楽ですものね」


ぞぞ──っと全身を覆い尽くす異能アビリタの気配。瞬間的に全身の血液が沸騰するような怒りを覚えたが、拳を握り込むだけで抑え込む。ヒクヒクと震える頬に、銀灰グリージョは耳をピンと立てて、それから足音を立てないようにそうっと部屋を出ていった。怒りの対象は別に彼女ではないというのに。


「……才能って何を指していると思うんですか?」

「え?何かがうまくできるならそりゃ才能ですよ。人より楽できて良いなあ、と思いますよ。あ、俺は別にマルコさんの才能に何か言いたいわけじゃなくて──」

俺は勢いよく彼の襟首を捻り上げるようにして片手で高々と宙に差し上げる。でかい手、恵まれた体、常日頃から食材を多く扱うがゆえに鍛えられた筋肉。それに捻りあげられれば大の大人でさえ普通に音を上げる。


もちろんディーノは陸に上げられた魚のように全身をばたつかせた。


「うッ、け、けふッ……!?」

「いやあ君のスイーツを作る腕前もまさに天才的ですよ。まるで知らない知識を形だけなぞっているようにも見える──そんな君からしたら俺の才能なんて微々たるものです。別に働いてくれれば、優秀でありさえすればなんでも良いんですよ、それが人から掠め取ったものであろうとなかろうと。でも一つだけ覚えておいてくださいね」


ぱ、と手を離すと床にもんどりうって倒れ込むディーノを見下ろして、俺は昏く笑う。


「優雅な一皿を作っているから俺が温厚で柔和な人物だとでも思いましたか?」

「ば、あ、あ……」

ろくに歯の根も合わないような震え方で、這いずりながら逃げようとする。


「逃げるなッ!」

「ひッ!?な、なんで……お、俺は、こんな……この能力さえあれば……お前なんて!」

何度も体を覆った異能アビリタだが、俺はそれを鬱陶しく思いつつぺっぺ、と手で払いのける。

異能アビリタは上下関係があり、君のものは俺には効果はない。残念ながら、俺に異能を使おうとしたところでディーノ、君の命運は決まりだ」


風がふわりと巻き起こり、バルトロが俺の肩に腕を乗せて低くくぐもった笑いを漏らす。


「返品の際に全額ぶんを追加で支払えば、向こうでのが可能になる。ええんじゃな?」

ディーノの瞳がくわりと見開かれた。ぶるぶると震えながら綺麗な髪を混ぜるようにかきむしる。悔しさを叩きつけるようにして足をばたつかせながらのたうちまわる。


「な、なんで……!?お、俺は才能があってあんたの役に立つんだから──」

「ディーノ、一つだけ勘違いを訂正しておこう。俺が君を買った記録がある限り、俺と君は対等じゃないし君が俺に成り代わることも不可能だ」

「く──ッ!!才能さえ、あればッ……!!」

悔しそうに拳を握り締め、足元でのたうちまわる彼を見下ろす。哀れだった。ただただ人の才能を奪うことに固執して、その結果首を絞めることになるなんて。


「……想いのない才能は二流にしかなり得ない。君が才能を奪った人は一流から転落して思いだけが残り、そして君はただの二流になった。それだけだ」

「うるさい!!俺は──」


パッ、と勢いよく背後から駆けてきた誰かが、不意にどすりとディーノへと体当たりをかました。男と見紛うほどに短く刈り込まれた髪、華奢に見えるが重いものを持てるようにしっかりと鍛え込まれた体。彼女がディーノに抱きついたのか、と思ったがそれは勘違いだったようだ。


ディーノとルクレツィアの白い服は、両者の隙間からじわじわと紅に染まっていく。ディーノは信じられないものを見るような目で彼女を睨みつけたが、ルクレツィアは隠しきれない殺意を曝け出すようにしてさらに腕を捻り上げた。ごりゅ、ともごぶ、ともつかぬ水音と骨の擦れ、軋む音が聞こえた。


ちょうど牛や豚の骨を煮込むときに関節から外す時の音のような、湿った重たい音。


「うおぉ、えぐいのぉ……ナイフを捻ったんじゃな。ありゃあ、ワシらが金を払うまでもないが……」


「ま、て……る、ぐれ、づ……お、れを、殺ぜば、お、前の、『才能』は、もう、が、えって、ごない、ぞ」

「あなたが失敗した瞬間、私は覚悟を決めました」


ぽつり、と彼女はつぶやき、ナイフから手を離すと、トタトタと三歩下がる。鋭い視線がディーノの腹に向けられた。

「彼にあなたの異能が通じなければ、私の才能は帰ってこない。悩みました。悩みましたが、私は彼の才能を消すことを選択し、そして失敗した。なら、当然のペナルティです。ですが、一つだけどうにも我慢ならないことがありました」


彼女は血に塗れた手を広げ、そして平坦な声でボソボソと話していたが、徐々に語気は荒くなり始めた。

「私の才能が私から離れ、そして一人歩きすることです。私が共に歩いてきた十余年、私の半身とも言える菓子作り。いいえ、全てと言っても良いかも知れない、そのものが私を裏切り別の者についていくのであれば絶対に許せない。だから、私の熱意と共に今ここで一緒に消えてしまえ、と私は思いました」


ゆえに、と彼女は再び別のペティナイフを手に取った。


「これは私の無念の供養です。私の才能が戻る、戻らないはもはやどうでも良いのです。あなたは墓標、私の思いと一緒に才能を抱えて死んでくださって結構」

「なッ──」

ディーノが腹からつるり、とこぼれる臓物に気を取られた一瞬。そのたった一瞬を見過ごすこともなく、ルクレツィアは勢いよく飛びかかり、そして彼の眼球目掛けてナイフを突き入れた。


「うわ」

「うっ……」

まともに見てしまった、という気持ちが先に立ちながらも、ぐ、と口元を抑えていると、ルクレツィアはぐんなりと力を失ったディーノを見て、それからナイフから手を離した。震えながら数歩後ずさるとぺたりと力を抜いて倒れ込む。


「……はっ!?ボンボローニは!?無事ですか!?」

「マルコ……」


呆れたような視線をバルトロから向けられたが、致し方ないことである。これだって何時間も手間をかけているのだから。

「私が、スイーツを汚すような人間に、見えます……?」

「見えませんが……もし、俺があなたと同じ状況になったらまわりの状況関係なく彼を刺殺しましたから」


ルクレツィアは俺を睨むように見て、それからはあ、と息を吐いた。

「……全て知っていたのですか」

「いえ、知りませんでした。でも、多少予測はできました」


俺も流石に人間関係に余程疎いわけではない。そう口にすると、ルクレツィアはボソリと小さくつぶやいた。

「なら、早く私を殺してくれればよかったのに……」

「残念じゃが、それはディーノが許さなかったじゃろうなあ。奴の能力はある程度把握しておるとも──お前さんの『才能』はディーノが死ぬと共に無くなっておるが、新たに身につけることはできるようになっておるはずじゃ。少なくとも、今までのように何かしようと思っても失敗を重ねることはあれど、手が止まってしまうことはないじゃろう」

「……そう、ですか……」


彼女がありとあらゆる技能を身につけ、そして一人前になるまでにはまた長い年月がかかることだろう。俺は少しだけ瞑目し、そしてルクレツィアを見据える。

「俺に危害を与えることを明言した上に、バルトロさんが来てしまえばもう大事にせざるを得ないのは、わかりますよね。俺たちはあくまでマフィアであり、君は俺の所持物ということになってるんですから」

「……は、い」


俺が火急的に欲しかった人材は、とうとう手に入らないようだ。


「おぉ、一人前に説教するようになったのう。まだマフィアを語ることもできんひよっこじゃと言うのに。今回の対応もワシから言わせて貰えば甘すぎるんじゃが?」

「お、俺が甘いのは百も承知でしょう!……今回の俺の甘さは、『同志』への餞別のようなものです。自覚だってそろそろありますよ」

「本当かのう……まあ、ええわい。ワシも長々と追求するつもりはないからの。では、ルクレツィア、ワシの後ろをついてこい」


裁判じゃ、と言うなりバルトロの顔つきは獲物を喰らう肉食獣のように歪められた。

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