第19話 料理人は目を覚ます
苦しい。
「ぶへ……ぶへへ……」
水の中でもがいているような、そんな気分になる。手を振り回そうとしたところ、もにゅんという感覚が手に伝わってくる。途端に呼吸が楽になり、俺は咳き込みながら体を起こした。心配そうに見ているバルトロと目が合って安心したと同時に横に体を丸めている女性が視界に入って気になって視線を向けると、彼女は妙な声を漏らしてオドオドし始めた。
羊めいたふわふわした黒髪はボリュームがかなりあるし、垂れ目で童顔な顔立ちなものの、小さな体は柔らかそうな体型で、どことは言わないが凹凸がはっきりしている。ローズの引き締まっていながらグラマラスな体型とはまた別の、女性らしいというか……。
一方で大きなメガネをかけている顔は可愛らしくどう考えても成人女性じゃないだろ、という考えが頭をよぎる。
「おひゅッ……!?」
「あ……あの、バルトロさん?こちらの女性は……」
「今し方お前さんが胸を揉みしだいた女じゃの」
「──ファッ!?」
あの柔らかな感触はまさか──。
「も、申し訳ありません……変なものを揉ませてしまいましたな……おひゅ……」
「あ、いえ、すいません……こっちこそ揉んでしまって」
「こいつは
「え?あ、ほんとだ……」
彼女はふすふすと鼻息を漏らしながら、「良い傷でしたぞ」と親指を立ててきた。
「……え、えーと……」
「あ、申し遅れましたな。吾輩のことは
「……バルトロさぁん……」
軍人のパチモノみたいな口調の彼女に困ってバルトロが視線を向けると、「一度しっかり話したほうがええじゃろ」と丸投げしてきた。
「あ、あの、えー……
「ムホゥッ!?わわわ、吾輩はそれが生き甲斐でありますゆえそう過分なご評価をいただくのは……」
「え?でも、傷を癒すタイプの
そういう修復をしたりするタイプでもっとも危険なタイプの
「ハァ……
「痛みを追体験!?それって相当ですよね!?」
「わ、吾輩には問題がないのであります……実は吾輩、痛みを感じない病気を患っているのでありますよ。故に、痛いということを知らずに
正直よくわからないものの、これ以上は聞くなよ、という
「しかし、
「あ、そうなんですか……じゃあ、打撲なんでしょうか……」
「詳しいことは
彼女は指を揃えてメガネをくい、と両手で挙げると、はひゅう、と呼吸を整える。
「あ、そうだ。傷を診てもらってたのに、自己紹介すらまだしてなかったですね。俺はマルコ・ラディーチェと言います。マルコって呼んでください」
「あ、あわわわわ、わ、吾輩、『
「じゃあ、アニーさんの好みを……って、今……何時ですか?」
「もう夜の6時じゃ。ちなみにあれから3日経っておるぞ」
あまりの事態に飛び降りようとした寝台から勢いよく転げ落ちる。
「……エ?」
「え、じゃないわい。ここ数日不機嫌そうなボスとローズに挟まれて、ニコニコ笑いながら地獄を生み出す
「す、すいません!!」
とりあえず、冷蔵庫の中を整理しなければとアワアワしていると、先にボスに顔を見せに行くぞ、と言われる。
「一番お主が重症じゃったからの。ボスもここまで
「多分……
アニーがそう言って、むむ、と顔を寄せてくる。
「何か
「い、いえ……その、でも……ズルじゃないかなあ、なんて……」
途端、アニーからはけたたましい笑い声が放たれた。
「ブワッハッハッハッハー!!け、け、け、傑作ですぞ!
「……3日前までただの一般人だったのじゃしそこまで笑うこともなかろう、
「し、しかし……ブホッ、そ、そうですな。ゴホン……マルコ氏、はっきり言いますぞ。そんなズルとか言ってたら、本当に死にますぞ。この業界、命より大切なものはござらんのでな」
「そうそう、持って生まれたものもしっかり自分の才能だ。というか……あの能力って、一体何なんだ?」
「……そうですね。まずは、ボスのところへ行きましょう」
俺の
廊下を歩いていると、ローズが向こう側からやってきて、手に持っていたトレイを取り落とした。幸いにも何も持っていなかったようだが、そんなうっかりした様子は初めて見るので、俺は歩み寄ってトレイを拾い上げようとする。
「落としましたよ」
「……起きられましたか」
両手で顔を挟み込まれ、右に左に向けられて確認されると手を外し、そしてぱんぱんと払われる。
……少し傷ついたが3日もシャワーを浴びてないなら当然のことだろう。
「異能による影響は残っていないようで幸いです。ボスですが、いつもの部屋にいらっしゃいますので」
「あ、はい……ありがとうございます?」
トレイを持ったままスタスタと歩き去ってしまうのを見ながら不思議そうな顔をしていたら、後ろに立っていたバルトロから背中をこづかれ、早くいけ、と唸るように言われた。
「……し、失礼します」
ノックをして入れ、という声の後、重たい扉を開けると、でかい猫じゃらしを持って
「体調は悪くないようだが、3日寝ていたんだろう。まあ座れ」
「はい」
ストン、と腰を下ろすと、ここに来た時を思い出してなんだか不思議な気持ちになった。ここに初めて来た時は緊張しまくっていたのに、今ではちょっと落ち着くくらいの気分である。
「まず、お前をファミリーの一員として認めると言ったが、正直まだ『お試し』くらいの気持ちでいろ。まだ裏社会のあれこれをはっきり学んでいるわけでもないだろう、一ヶ月で情を移すなら特にそうだ」
「……はい」
まあ、そうなるだろうことはある程度予想していたけれど。
「うちは比較的若い人間で構成されているからこそのことだが、割合他のファミリーに比べて『巣立った』奴もそれなりにいるんでな、一応言っておくぞ」
「はい、わかりました」
「よし、じゃあ次だ。とは言っても俺はお前を手放す気はないんでな、退職金がわりと言って渡したキッチンは俺に返却してもらおう。
「あ、そうなんですか」
「だから今は毎食カチカチのスクランブルエッグと牛乳に浸したオートミールだ。正直早く目覚めてくれないかと思っていたが……本当に助かる」
「……少し今日の夕飯、遅くなってしまってもいいですか……」
「構わん。好きにやれ」
「ありがとうございます」
ずるんと表情の抜け落ちたあんまりなボスの様子に俺は思わずそう申し出る。快諾をもらったところで、そうだ、と俺は思い出す。
「そういえば、よく俺の意図に気づいてもらえましたね」
「何かと思えば……襲撃で人質に取られていた時のことか?お前がわざわざいい環境の職を失うような真似はしないと思っているし、何よりあの取引はあまりにも不自然だったからな。それに──」
「それに?」
「お前、人を裏切れるような性根じゃないからな。あんな大根演技が通じるような相手はこれっきりだぞ」
「……ほ、褒め言葉として受け取っておきます……」
そう呟いた後、ボスは「お前の
「どうせ、はっきりと能力のことを理解していないんだろう。とりあえず、来週に予約を取ったから見てもらえ」
「よ、予約……ですか?」
「ああ、そうだ。お前に何ができてどんな反動が起き、使用にはどんな制限が伴うのか知っておかないとな。正直どんな能力も鍛えれば鍛えるほど伸びるし、使えば使うほど体がその発動に対して慣れていく。些細なことでもいいから
俺はうーん、と首を捻る。
「過去に気づいたのは、俺が自分の金でアパートを借りた時です。正直自分の部屋というのに浮かれていて……同じコック仲間を家に呼んだ時、二人も酔い潰れたので運ばないと、と思ってたんですけど……めんどくさいなあ、宙に浮いたらいいのに……と思ったところで二人が突如、宙に浮きまして」
あまりの衝撃にほろ酔い気分はすっ飛んでいった。
それからというもの、
「今までバク転だの何だのとメチャクチャな動きをしたこともなかったのに、想像した通りに体が動いたりして……一度、お金を想像して作って持ち出そうとした時には、部屋から出た途端に全て財布から消えていたことなんてのもありまして……そこで恐ろしくなってやめたんです」
しかし、ある日のこと。
リストランテ・スペランツァに勤めているということを知った同じアパートの住人が、たまたま
「彼も物体を操作するタイプの
夜中、アパートメントの上階から響いてきた男の悲鳴。外傷がないのに痛みに騒ぐ男に迷惑だな、と思っていたが、まさかそいつが
「起きて頭がはっきりしてから、とんでもないことをやったんじゃないか、と。家の中なら何でもできるんじゃないか、なんて……」
「マジシャンの方が向いてそうだな、その
ボスがそう言って、ニヤリと笑った。あっけに取られていた俺はじわじわとその言葉が染み込んでくるのを感じる。
今までとんでもない
「確かにそうですね」
「だろ?さて、じゃあ月曜日には向かうことになるから、きっちりとした格好をしておけよ」
「あ、はい。わかりました。詳細がわかったら、またボスに報告しますね」
「ああ、そうしてくれ」
カップにあるコーヒーを傾けると、
「……
「何か……」
思い出そうとしたものの、正直……会話はほとんど俺が人質になりうるか、とかファミリーの戦闘員ではないのか、などのものだけだった。そう伝えると、少しだけ眉を寄せてそうか、と呟いた。俺は言葉が見つからなかったが、何か言わねば……と思ったところではたと思い至った。
「悲しむのも、怒るのも、カロリーがいる行為ですから!」
そう言うと、ボスはぽかんと口を開けて目を丸くして、それからじわじわと唇を笑みの形にして堪えるような笑いを漏らした。
「くッ……くくッ、確かにそうだな。今日の夕飯は、カロリー度外視で頼む」
「わかりました!俺もお腹が空いたので、腕によりをかけますね。まあ……食材はちょっとわかりませんけど」
胸をドン、と叩くと打ち身になっていたらしく、痛みにうめいた。今度こそ、こらえていた笑いが溢れたようでボスは大笑いしながら見送ってくれた。
やっぱり締まらない。
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