「田丸さん、すみません、来ていただいて」

「いえ、大丈夫です。今夜は、一晩一緒にいますから」

 申し訳ないと思ったけれど、怖くて真帆と二人では過ごせないと思った。

「ありがとうございます。そうしていただけると、ありがたいです」

 私は、正直に言った。

「怖かったでしょう」

 そう言って田丸さんは、そっと私の肩に手を置いて、一度頷いた。その手があまりにも温かくて、私はまた泣きそうになった。

「怖かったです」

 田丸さんが穏やかだから、私は少しずつ、興奮が収まっていく気がした。自分がどれほどの恐怖を感じていたか思い起こされて、声が詰まった。

 患者の急変に対応したときは、いつも一瞬だけ頭を「無」にすればすぐに冷静になれた。でも、さっきの、あんな状況で「無」にはなれなかった。その場にいる全員が協力して患者を助けようとする医療現場と違って、目の前に自分たちを傷つける恐ろしい敵がいる。とうてい冷静ではいられなかった。

 田丸さんはいつも以上に静かな声で「まず、片付けますね」と言った。

「お二人は、危ないのでソファにいてください」

 そう言って田丸さんは、割れたマグカップの破片を集め、ミルクを拭き、土足で汚れた床を拭き、テーブルの位置を直した。それから、マグカップを戸棚から出して、「冷蔵庫開けますよ」と私に断ってから、二人分のホットミルクを作ってくれた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 私と真帆はカップを受け取り、二人でふーふーしながらミルクに口をつけた。

「おいしい」

 ホットミルクは、温かくて甘くて優しくて、私も真帆もほっと肩の力が抜けた。

「田丸さん、すみませでした。ご迷惑をおかけします」

 一通り泣いたあと放心していた真帆が、ようやく話し出した。

「岡野さんの、彼氏の仕業なんですね?」

「はい。そうです」

「ひどいお怪我です」

「はい。ここまでされたのは、初めてです。だから、私もさすがに怖くなって、冴綾ちゃんの家に逃げてきたんです。彼がトイレに入った隙に、バレないように逃げてきたんです。どうしてここがわかったのか、不思議で仕方ありません」

 田丸さんは少し考えてから「岡野さん、スマートフォン持っています?」と言った。

「あ、はい」

 真帆がスマートフォンを見せる。

「もしかしたら、位置情報が伝わるアプリが入っているのかもしれません」

「え!」

「ストーカーなどが使うと聞いたことがあります。いつでも相手のスマートフォンがどこにあるか、リアルタイムで知らせてくれるアプリがあるそうです。自分でダウンロードした覚えのないアプリ、ありませんか?」

 そう言われた真帆は、スマートフォンを操作しながら「あっ」と小さく驚いた。

「これ、こんなアプリ、知りません」

 一見すると何かのゲームのようなアプリに見えるアイコン。

「念のため、アンインストールしておくといいでしょう」

「そうですね。ありがとうございます。アンインストールもして、電源も切っておきます」

「それが安心ですね」

 田丸さんは微笑んだ。気持ちが少し落ち着いたところで、私はふと疑問を持つ。田丸さんは今夜一晩一緒にいてくれると言った。どうしてそんなに良くしてくれるのだろう。ヤサとおっちゃんはお隣さんだから、私の声を聞いて、ただごとではないと出てきてくれた。浜田さんは、コンビニまで声が聞こえたから、と言って駆けつけてくれた。でも、浜田さんはどうして田丸さんに連絡をとってくれたのだろう。確かに田丸さんは誰にでも優しい。でも、わざわざ田丸さんを呼び出してまで、ここに連れてきてくれたのはなぜだろう。工場の上司だから? 確かに、真帆は仕事を休まなければならないだろう。いや、辞めなければならないかもしれない。あの彼氏は、工場の場所を知っているのだ。上司としての責任、ということか。

「岡野さん、良かったら話してくれませんか? このまま、というわけには、いかないでしょう」

 真帆は、マグカップを両手で包み込んでミルクを少し眺めて、それから話し出した。

「ナンパされて、知り合ったんです。私、その頃好きだった人に振られたばかりで、声をかけられたのが嬉しくなってしまって、付き合うようになりました」

 小さな真帆の声。外でさわさわと風の音がした。

「最初の頃は良かったんですけど、しばらくすると、機嫌が悪いときに大きな声を出すようになって、もともと感情的なタイプではあったんですけど。それで私がちょっとでも意見を言うと、手を出すようになりました」

「お辛かったですね」

 優しく声をかける田丸さんと、うつむいて話す真帆を見て、ああそうか、と思った。真帆は、痛々しく怪我をしているが、それでもなお、美しい。傷付いている鳥は、羽を休めていたとて、その美しさは失わないのだ。私は、田丸さんがこんなに親切にしてくれる理由を見つけた気がした。

「それで、彼はだんだん働かなくなって、工場でも噂になっているから知っていると思うんですけど、私が夜の仕事も始めて、養うようになりました」

 淡々と話す真帆に、田丸さんは眉根を寄せた。

「誰かに相談はしなかったのですか?」

「しませんでした」

「どうして?」

 そこで真帆は、カップを包んでいる手にぎゅっと力をこめた。

「負けるみたいで嫌だったんです」

 真帆は真剣な顔をしていた。

「誰かに助けてもらうのは、逃げるみたいで嫌でした……意地っ張り、ですよね」

 そう言いうつむいた。

「それで、結局こんなにたくさんの方に迷惑をかけて、申し訳ないと思っています」

「真帆は悪くないよ。自分を守るためなら、逃げることも大事だよ」

 私は真帆に言った。真帆は、「ありがとう」と、うつむいたまま言った。

「とりあえず、明日はお二人とも仕事は有給にしておきましょう。板木主任には、ある程度事情を説明する必要がありますが、よろしいですか?」

「はい。ご迷惑をおかけします」

 そう言って真帆は頭を下げた。

 田丸さんが板木さんに電話をする。板木さんの声は聞こえなかったけれど、私たちの上司、飴とムチの二人の会話は、思っていた以上にスムーズだった。田丸さんは最低限のことしか伝えていないようだが、板木さんは反論している様子はなかった。

「板木さんが、仕事のことは心配しないように、とのことなので、心配しないことにしましょう」

 電話を切った田丸さんは言った。いつか田丸さんが「板木さんはとても良い人」と言っていたけれど、今の電話の様子を見る限り、嘘ではなかったのかもしれないと思った。

「それで、岡野さん、これからどうするおつもりですか? まさか、その男のところに戻るつもりはありませんよね?」

 田丸さんが言う。

「はい。別れるつもりで出てきました。どうするかは決めていませんが、実家はもう縁が切れているので、一人でどこか遠くに引っ越そうかと思います。工場は、辞めることになってしまいますが、すみません」

「仕事のことは大丈夫です。それより、一人で引っ越すと言っても、場所がバレてしまったらどうするんですか?」

「私の家で良ければ、ずっといても平気だよ」

 私は言った。ちょっと狭いが、ルームシェアも悪くはない。

「いや、彼氏にはこの家を知られています。いつ来るかわかりません」

 田丸さんが私の意見を却下した。私は、もしかして? と思った。もしかして、田丸さんは「僕の家においで」と言いたいのかもしれない。ここは私の家だけれど、田丸さんが真帆に好意を持っているのなら、私の存在は邪魔だな、と自分で思った。そんな私を見て、田丸さんは言った。

「藤田さん、シェルターなど良いところ知りませんか?」

 田丸さんの発言は、私が勝手にしていた想像とは全く違った。

「女性を暴力から守るシェルターってありますよね。藤田さんなら何かご存じかと」

 真帆は不思議そうな顔をしている。真帆には、私が看護師をしていたことは言っていないのだ。

「冴綾ちゃん、そういうところ、入っていたことあるの?」

「いや、違うんだ。そうじゃなくて」

 真帆にすら言っていなかったことに、自分でも驚いた。

「言ってなかったけど、私もともと看護師で」

「え! すごい。冴綾ちゃん、看護師さんなの?」

「うん、元、ね」

「すごいな。冴綾ちゃんは、賢い人だな、とは思っていたけど、看護師さんだったんだね」

「別に、すごくないよ。辞めちゃったし」

「藤田さん、いかがですか? シェルターを紹介してくれそうな方、ご存じですか?」

 私は、考えてみる。確かに、担当していた女性患者で、シェルターに避難していった患者はいた。井上先生の病院にいたときだ。総合外来に来て、いろいろと訴えるわりに体の病気が見つからず、その代わりに、打撲痕と小さな骨折の治ったあとが多数見つかった。精神科の先生に介入してもらって、抑うつ状態と診断されて、結局精神科に入院することになったのだ。DVの夫が離婚に応じてくれなくて……結局シェルターに退院していった。あのときは、どうやって手続きをしていたんだったか。

「あ、そうだ。ソーシャルワーカーさんが調べてくれて……」

「そうそう、僕が言いたかったのは、そういう人脈のことです」

「ちょっと待ってください……」

 私はスマートフォンで連絡先を探す。画面をスクロールすると、懐かしい名前がどんどん通り過ぎる。消していなかった、前の職場の人たちの連絡先。全部消そうと思っていたのに、どうしてか消せなかった。ヤサのお母さんが怪我をしたときも、わざわざ井上先生の病院を検索しなくても、今思えば、連絡先はここに登録してあったのだ。

「あった」

 私は木内きうちさんの名前を見つけた。とても頼りになるソーシャルワーカーだ。ちょっと遅いけれど、連絡してみようか。時計は、午後十一時。

「岡野さん、女性用のシェルターの話だけでも、聞いておいてもいいのではありませんか? 今のご様子を聞く限り、岡野さんの彼氏は、厄介そうです」

「そんな選択肢、考えてもいませんでした」

「明日連絡してもらえるようにLINEしておきます」

「そうしましょう」

「田丸さん、冴綾ちゃん、本当にありがとうございます」

 真帆は頭を下げた。

「困ったときはお互いさまです」

 田丸さんは静かに微笑んだ。

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