五月 1

四章 五月


 五月にしては少し肌寒い日が続いている。それでも窓からの外気は爽やかで、気持ち良い午後十時。録画しておいた映画を観ていると、スマートフォンの着信が鳴る。真帆だった。

「電話なんて珍しいね。どうしたの?」

「冴綾ちゃん、家にいる?」

「うん、いるよ」

「ごめん、開けてくれる?」

「え、どういうこと?」

 私はテレビを消して玄関に向かい、ドアスコープを覗く。真帆だ。私はドアを開ける。そこにはキャミソール型のブラトップとショートパンツ姿で、スマートフォンと財布だけむき出しのまま握りしめて、髪を乱した真帆がいた。目は青く腫れあがり、唇は切れ、血が滲んでいる。

「真帆! どうしたの!?」

 私は真帆を家にあげて、玄関に鍵をかけた。真帆は、裸足につっかけサンダルだけという姿で、走ってきたらしい。はげかけたペディキュアが寒々しい。

「ごめんね、こんな時間に」

 真帆は消え入りそうな声で言った。

「私は大丈夫だけど、それより何があったの?」

「もう、殺されるかと思って……逃げてきた。冴綾ちゃんしか、頼れる人が思いつかなくて」

 驚いて一瞬言葉に詰まった。私は、自分のガウン型の着る毛布を細い真帆の肩にかけ、ソファに座るよう促す。

 私は、牛乳をマグカップに入れてレンジで温めた。黒糖を入れてホットミルクを作る。

「その恰好じゃ寒かったでしょ、良かったら飲んで」

 真帆にミルクを渡す。

「ありがとう」

 そう言って真帆は、カップを両手で包むように持った。

「何があったの?」

「彼氏に殴られた」

「そんなになるまで……」

「彼氏は、もともと暴力を振るう人なの。いつもは、怪我したり跡になったりするほどのことはなくて、ちょっと叩かれる程度で、こんなにひどくなかったんだけど」

 そう言って、カップのミルクに目を落とす。

「今回は、私に同窓会のお知らせが来て……その幹事が男の子でね。それで、彼氏が、私が行くの嫌がるってわかってたから同窓会は不参加って返事してたんだけど、幹事の子が、何回か誘ってくれて」

「うん」

「そのやりとりを彼氏が見ちゃって……こいつは誰だ! ってなって」

「え、誰って、同窓会の幹事でしょ?」

「そうなんだけど、怒っちゃうと、冷静に話なんてできない人だから」

 私は、スタイルの良い、かわいい顔をした真帆を見つめる。その顔が、色が変わるほど腫れている。華奢な手足のこの女性を、殴った男がいるのだ。私は、ぐっと奥歯を噛んだ。

「真帆、悪くないじゃん」

「うん。いつもは謝ればおさまるんだけど、機嫌が悪かったんだろうね。嫉妬深い人だから」

 透き通るような白い肌に、ぽってりとした唇。その唇から、淡い唾液に混じった血が滲んで痛々しい。

 そのとき、玄関チャイムが鳴った。びっくりして二人で体をびくっと震わせた。私は立ち上がってドアスコープを覗く。誰も見えない。

「宅急便です」

 ドアを挟んですぐ目の前で声がして、驚いた。

「宅急便だって」

 振り向くと、真帆は、ふっと息を漏らした。

 私は、宅急便にしては時間が遅いなと訝しがりながら、一応ドアチェーンをかけた状態で、ドアを開ける。すると、すごい勢いでドアがチェーンの長さいっぱいまで開けられた。ガッチャンとチェーンが鳴る。そこにいたのは、宅急便の配達員ではない、見ず知らずの男だった。

「え?」

 男は、ドアチェーンの隙間から手を入れて、強引にドアを開けようとした。それを見た真帆が声をあげた。

「まさし……」

「え! 彼氏!?」

 明らかに怯え切った真帆。マグカップを置いて、真帆は部屋の奥へ逃げていく。肩に羽織っていたガウンが床に落ちる。

「ここがバレるはずがないのに!」

「うるせえ。真帆、何してんだよ。開けろよ!」

 男が大声を出す。目を充血させ、興奮している男の声が脳に響く。何この人、怖い。私はドアを閉めようと思い切りドアノブを引っ張った。でも、男はすごい力で、ドアが閉められない。男は、繰り返しドアをガンガンと引っ張ってくる。ガチャンガチャンとドアチェーンが鳴る。私は血の気が引く思いがした。どうしよう。このままじゃ壊されちゃうかもしれない。

 男が思い切りドアを引っ張った瞬間、ドアチェーンのネジが壊れた。ドアがばーんと勢いよく開き、チェーンが弾け飛ぶ。私は強くドアノブを持っていたため、開いたドアにひっぱられてよろけ、つんのめってアパートの外廊下に両手と膝をついた。廊下が砂っぽくて冷たい。四つん這いで振り向くと、男は土足のまま私の部屋にあがりこんでいく。現実のことと思えなかった。男の後姿がスローモーションのように見えた。何これ。何が起きているの?

「やめて! 来ないで!」

 真帆の悲鳴に、慌てて起き上がり部屋に戻る。

「やめなさいよ!」

 私は、背後から男の背中にしがみついた。

「んだよ!」

 男は、そんなに大柄でないのに力が強かった。私は振り払われて、テーブルにぶつかる。マグカップが落ちて、鋭い音を立てて割れた。床にこぼれたミルクの白が電気を反射して眩しい。その非現実的な明るさの中で、テーブルに打った腰が鮮明に痛い。脳が状況に追いつかない。

「いやあ!」

 真帆が悲鳴をあげる。男は部屋の隅で小さくなっていた真帆の腕をつかんで、引きずる。真帆は足をばたばたと動かして抵抗するが、体格に差がありすぎて、とうてい敵わない。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 真帆が叫ぶ。無防備に引きずられる真帆と乱暴な男のあまりの力の差に、男が狩りをしている肉食動物のように見えた。しまうまの首に噛みつくライオン。でも、動物は生きるためにしか狩りをしない。この男がしていることは何だ。男は、力任せにドアを開けてアパートの外廊下へ出ていく。

「やめて!」

 私は、ずるずると引きずられている真帆に抱き付いた。連れて行かれてたまるか。それでも、男は私の肩を蹴って、引きはがす。私は簡単に冷たい廊下に転がった。痛い。怖い。冷たい。寒い。どうしよう。敵わない。真帆が、殺されちゃう。私は、アパートの廊下で、どうしようもない恐怖と絶望を感じながら思い切り叫んだ。

「誰か! 助けて! 助けてえ!」

 パニックだった。暴力を振るわれることがこんなに恐ろしいとは知らなかった。大事なものが奪われる。助けたいのに、何もできない。

「誰かあ! 助けてえ!」

 喉が痛い。自分の大きな声が自分の声じゃないみたいに聞こえて、余計に気が動転してくる。視界が微かに狭まる。呼吸がしにくい。どうしようもない恐怖と興奮で混乱している。男は大きな声で叫び続ける私を睨む。怖い、私も殺される。そう思ったとき、ヤサの部屋のドアが開いた。

「さーや、どうした!」

 男は、突然あらわれた褐色の逞しい青年に、一瞬怯んだ。

「ヤサ! 助けて、この人が、この人が!」

 私は裸足のまましゃがみこんで、大声を出した。ヤサは男を見つめる。男は真帆の、だらんとした白い腕をつかんでいる。顔にひどいアザができ、口から血を滲ませている真帆。

「あなた、おんなのひと、ぼうりょくした?」

「ああ? うるせえ、関係ねえだろ」

「それは、ゆるされない」

 ヤサが男を睨む。すると、私の背後でもう一つドアが開いた。

「なんだ、騒々しいな」

 隣のおっちゃんだ。寝ていたのか、目をこすりながらサンダルをつっかけて廊下へ出てくる。

「誰だい、その男は」

「おっちゃん、助けて、真帆が、私の友達が!」

 おっちゃんは、半袖の肌着姿であったが、日に焼けた腕は太く、眼光には凄みがあった。

「ああ? 男のくせに、女に手をあげてるっちゃ、どういうことだ」

「関係ねえだろ」

 男の口調が怯みだした。そこへ誰かが階段を上がってくる音。

「大丈夫ですか!」

 浜田さん! 

「店まで聞こえましたよ」

 浜田さんは男にずんずんと詰め寄り、ものすごい勢いで男の手をとり、真帆の腕から手を奪った。

「あなた、これは犯罪ですよ」

「いてっ! 何しやがる」

「何しやがるはこっちのセリフだろ! この野郎、てめぇ死にてぇのか!」

 浜田さんが突然、聞いたことのないようなすごい剣幕で男を威圧した。長身の浜田さんに凄まれ、ヤサとおっちゃんに睨まれ、男はじりじりと後ずさりをした。ぐったりとした人形のように男に捕まれていた真帆は、手が離れた間に、這うように男から逃げ私にずり寄った。私はしゃがみこんだまま、真帆を抱き寄せる。

「警察、呼んでもいいんですよ?」

 浜田さんの言葉に男は、舌打ちをする。

「真帆! また来るからな!」

 捨て台詞を残し、男は去って行った。鉄製の階段を駆け下りる、耳障りな鋭い音だけが残る。

 私は、怖くて怖くて仕方なくて、それでも真帆が連れて行かれなくて良かったと安心して、気持ちがぐちゃぐちゃだった。真帆は泣きながら「冴綾ちゃん、ごめんね」と繰り返し言った。

「大丈夫ですか?」

 浜田さんは私たちのほうを振り向いた。

「あ……ありがとうございました」

 私は、体がガチガチだった。抱きしめる真帆の体は冷たくて、同じように恐怖に震えていた。

「今、田丸を呼びます。またあの男が戻ってきたら危ないですから」

 浜田さんは電話をかけている。

「冴綾ちゃん、なんかあったらすぐ声かけろよ」

 おっちゃんは部屋に戻っていった。

「さーや、たまるさんくるまで、ヤサがいっしょにいるよ」

「ありがとう」

 ヤサの言葉に甘えて、私はゆっくり立ち上がり、真帆とヤサと一緒に部屋に戻った。

「わあ、へやもたいへんね」

 ヤサが室内を見渡して言う。ドアが開いて、浜田さんが顔をのぞかせる。

「田丸が今から来ます。ヤサは田丸が来るまで、いてもらえますか?」

「もちろんです。だいじょぶです」

「じゃ、私は店に戻りますので、田丸以外は絶対に玄関を開けないように」

 そう言って浜田さんはドアを閉めてコンビニへ戻って行った。ヤサが鍵を閉める。

「さーや、だいじょぶ? おともだちも、だいじょぶ?」

「ヤサ、ありがとう。ヤサが出てきてくれなかったら、どうなっていたか」

「さーやのこえ、おおきくておどろいた。どろぼうかとおもった」

「すみません。私のせいなんです」

 真帆が泣きながら言った。

「冴綾ちゃんにまで、こんな思いさせて、本当にごめんね。痛かったでしょ」

 そう言いながら、私の肩を撫でてくれる。

「真帆が連れていかれないで本当に良かったよ」

 私はまた真帆を抱きしめた。

「おとこ、だれ?」

 ヤサが聞く。

「私の彼氏」

「かれし? こいびと?!」

 ヤサは大きな声で言うと、大袈裟に両手を広げ「しんじられない!」と言った。

「あんなおとこ、だめ。さーやのおともだち、あれはだめ」

 真帆は両手で顔を覆った。

「はい……本当に、そうなんです。わかっています」とまたすすり泣いた。

 どこかでスマートフォンが振動している。私は、耳をすませて、いろんなものを持ち上げて、ようやくソファの下から自分のスマートフォンを発見した。

「もしもし! 藤田さん! 田丸です。家にいますか?」

 田丸さんの声が珍しく少し動揺していて、電話越しに耳に届く。

「はい。います」

 田丸さんの声を聞いた途端、私は泣きそうな気持ちになった。

「もう着きますから」

 そう言うと、ドアが控えめにノックされた。ヤサが立ち上がり、ドアスコープを覗く。

「たまるさんだ」

 そう言って、ドアを開けた。田丸さんは、寄り添って座っている私と真帆の様子を見て、絶句した。そして、部屋の中を見渡し、唇を噛んだ。テーブルが倒れ、マグカップが割れ、ミルクがこぼれ、床は土足の土で汚れて、確かにひどい有様だった。

「なんてことを……」

 田丸さんは、独り言みたいに呟いた。

「たまるさん、おとこ、ひどいやつ。ぼうりょく、した! さーやのおともだち、けがしてる!」

 ヤサが一生懸命田丸さんに伝えようとしてくれていた。

「ヤサさん、ありがとうございます。状況は、一応浜田から聞きました。でも……想像以上にひどくて驚いています。今夜は僕がここにいますから、ヤサさんはお母さんのところへ帰ってあげてください」

「はい。たまるさん、よろしくおねがいしますね。あのおとこきたら、よんでください」

「はい。ありがとうございました」

「さーやの、おともだち、あのおとこ、だめ! ぜったいよ!」

 ヤサは最後まで真帆に念を押してから、帰って行った。


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