ヤサの部屋には大きなテーブルが出ていて、置ききれないほどの料理が並べられていた。香ばしいお肉の匂いと、食欲をそそる香辛料の匂いがする。見た目も華やかで、美味しそうだ。

「ようこそ、みなさん。きょうは、たくさんたべてね」

 ヤサとヤサの母親は嬉しそうに客を歓迎した。

 浜田さんが大量に持ってきたお酒についてヤサが「きょうはぜんぶヤサのおごりなのに」というと浜田さんが「いいんだよ、うちはもともと酒屋なんだから」と言って笑う、というやり取りが繰り返された。ヤサの母親は、浜田さんの子供たちを見て、顔をしわくちゃにして笑った。

「これ、プリアサイッコー。ぎゅうにくとライムの、あえたやつ」

「これは、プラホックティス。やさいにつけて、たべて」

「これは、アモック。ちゃんわんむしみたいな、たまごむしたりょうりね」

 カンボジア料理は、食べたことのないものばかりであった。一つずつヤサが紹介してくれる。普段から、日本では手に入らない食材もあるらしく、代用品を使いながら母国の味を楽しんでいるらしい。

 最初は、初めて食べるものへの不安が少しあった。せっかく作ってくれたけれど、口に合わなかったらどうしよう? でも、そんな心配は全く不要だとわかった。食べればわかった。どれもとても美味しくて、味わい深い。

 特に「ロックラック」と呼ばれたお肉料理が私は気に入った。くたっとなるまで炒められた玉ねぎと牛肉に、ブラックペッパーとライムをあわせたソースが爽やかで、最高に美味しい。

「ヤサ、お母さん、これ最高!」

 私は、「チュガンニュー」と言った。調べて覚えてきたクメール語で「おいしい」という意味だ。カンボジア語というものはなくて、カンボジアの人はクメール語を話す、ということも調べて初めて知った。ヤサの母親は少し驚いた顔をしたあとに、「オークン。ありがと」と言った。

 大人数でワンルームは狭いけれど、その分賑やかで、ヤサの母親はとても嬉しそうにしている。

 ヤサの母親は、浜田さんの息子さんと娘さんの顔を両手で包みながら「かわいい」と片言の日本語で言った。そして私の顔を両手で包み、「さーや、ありがと」と言った。国を離れて、息子の家に隠れながら生きなければならない母親の、触れる体温は本物だった。

 あの日、ヤサの母親の背中に湿布を貼って、ありがとう、と言われたとき、どうしてあんなに泣きたい気持ちになったのか、わかった気がした。私は、看護師を辞めてから、人との関わりを極力減らして生きてきた。でも、私の根本を作り上げている重要な核みたいなところにある、人に触れて感謝してもらって自分の存在を初めて認められる、その瞬間の喜びを久しぶりに思い出したのだ。思い出したからって、またその世界に戻ろうと思っているわけではない。でも、懐かしいような、胸が痛いような、忘れてしまいたいような、難しい感情になった。自分の望むことと実際にできることは、いつだって思い通りにはならない。

 おのおの料理を食べながらお酒を飲んで談笑している。途中でヤサが薄い茶封筒を田丸さんに渡していた。病院代の分割払いをしているのかな、と思った。

「ふどーみょーおー!」

 ケンちゃんが叫ぶ。

「あ、それって」

 私がアニメの名前をあげると、浜田さんの奥さんが「知ってるんですか?」と聞いて来た。

「お正月に実家に帰ったときに、甥っ子が同じことを言っていました」

「子供たちに大人気ですからね」

「そうなんですね。私は全然知らなかったんですけど」

「でも、『不動明王』なんて、絶対意味わかってないですよね」

「そうですね」

「意味わかってても、なんか怖いですけどね。あはは」

 浜田さんの奥さんは大きな口を開けて笑った。

 ケンちゃんがはしゃいで、家の中を走り回っている。

「ケンちゃん、下の人にご迷惑だから、バタバタしないで」

 注意する浜田さんの奥さんに私は「一階は空き部屋だから大丈夫ですよ」と伝える。

「そうなんですか? でも、真下じゃなくても、うるさくないかしら」

「大丈夫だと思いますよ。みなさん、優しい方ばかりですから」

「それならいいんですけど……。あの子、もっと小さいときに心臓悪くしてね。今も定期健診に通ってるんですけど、こうやって元気に走りまわってくれると、本当に嬉しいんです」

 そう言うと奥さんは、膝に乗せている娘さんにお肉をふーふーしてから一口あげた。

「過保護にしちゃって、わがままになっちゃうって、わかっているんですけど、生きていてくれるだけで嬉しいんですよ。だから、つい甘やかしちゃって」

 そんな胸中を感じさせない、にこやかな顔。母は強しだな、と思う。

「私は、子供はいませんが、大切な人に生きていてほしいと願う気持ちは、当然の感情だと思いますよ」

「そうですよね。ごめんなさいね。はじめましてなのに、こんな話しちゃって。何か藤田さん話しやすくて、ついいろいろ話しちゃって」

「いいんです。私なんかで良ければ、何の力にもなれませんが、聞くくらいはできますので」

 そう言いながら私は、こんな話題のときはたいてい記憶が過去に飛ばされるんだ、と感情の揺らぎを覚悟した瞬間、肩に手が置かれて、我に返って振り向いた。

「藤田さん、お酒飲んでるんですか?」

 田丸さんだった。

「ああ、はい。今日はせっかくなんでちょっとだけ飲んでいます」

「そうですか。以前あまりお強くないと言っていた気がしましたので」

「そうなんです。普段はほとんど飲みません」

 田丸さんは「失礼します」といって私の隣に座った。

「カンボジア料理っていただいたことがなかったのですが、どれも美味しいですね」

「はい。ヤサのお母さんはとても料理上手だと思います」

「ええ、本当に」

 そう言って、田丸さんは嬉しそうに微笑んだ。ごはんが美味しくて、みんなが楽しそう。それはとても幸せなことに思えた。病気も、怪我も、不法滞在も、過去の誰かとの別れも、すっかり忘れることはできなくても、少しだけ見ないふりをして、幸せなだけの時間があってもいいと思った。

 私は、珍しく飲んだお酒で、体がぼわっと温かいし、眠いような頭がゆらゆらするような感覚になっていた。みんなが笑っている。美味しいごはんを食べて、お酒を飲んで、子供たちがはしゃいで、それを大人たちが可愛がって、みんな笑っている。私も笑っている。何をこんなに笑っているのだろう。こんなに楽しい気持ちはいつ以来だろう。少なくとも、看護師を辞めてからこんなに笑ったのは初めてだ。

 こんなに楽しくて、みんなお酒が強いなら、おっちゃんも誘ってあげれば良かった、と思った。ヤサの病院の件とは無関係だけれど、玄関のドアを四リットルの焼酎でドアストッパーにしているような人なのだ。酒好きに違いない。あーおっちゃんも呼んであげれば良かったな……と思って見ると、おっちゃんがヤサの隣で焼酎を飲んでいるから驚いた。ドアストッパーにしている焼酎持参で、談笑している。

「おっちゃん、どうしたの? なんでいるの?」

 私は、呂律のまわらない口調で聞くが、独り言みたいな声はおっちゃんには届かない。

「何言ってるんですか、藤田さん。ご自分で声をかけに行ったくせに」

 すぐ隣で田丸さんが笑っている。

「ええ?」

 私は、半ば田丸さんに寄りかかるように座っていた。触れている背中が温かい。

「おっちゃんも呼んであげれば良かったー! って何度も言ってらして、そんなに言うなら呼んで来たら? っていうことになって、さっき一緒に呼びにいったじゃないですか」

 田丸さんは、お酒を飲んでもあまり酔わないタイプなのか、普段の田丸さんと全然変わらない穏やかな口調で言った。いつの間にか、私のグラスにはウーロン茶が入っている。

「うそー。そうでしたっけ? 忘れちゃいました」

 私はへらへら笑った。頭はゆらゆらしているが、気持ちが楽しくて仕方ない。

「忘れちゃったなら、仕方ありませんね」

 田丸さんは笑いながら、私のグラスにウーロン茶を足してくれた。

「ありがとうごじゃいます。田丸さんも、どーぞ」

 私は田丸さんのグラスにビールを注ぐ。黄金の炭酸は勢いが良すぎて、グラスの半分ほどが泡で埋まってしまった。

「ごめんなさい、下手でした」

「いえいえ、いただきます」

 田丸さんは、私のウーロン茶にグラスをあわせ、小さく「乾杯」と言って、泡だらけのビールを飲んだ。ビールを飲む田丸さんは、いつもより少しだけ、男っぽく見えた。そうして楽しい時間は、いつまでも続くように思えた。


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