蛙は語りて、また示す

橋元ノソレ

第1話 走り出す

 まもなく西日になろうという頃、石畳の敷かれた米国式の街並みの中を1人の少年が走っている。弊衣蓬髪へいいほうはつもやせっぽちも、汗で目が開きにくいのも気にせず、小包を両手で確と掴み全力疾走だ。

 というのも、白い前掛け姿で、肉叩きを握った中年太りの男が恰幅に似合わぬ俊足を働かせ、その後ろを追っているのだ。


 少年はとても痩せ衰えた身体とは思えない力を発揮し追っ手を徐々に引き離していたが、それも長くは続かなかった。通行人をまた1人と避けた瞬間、足がもつれて受け身も取れずに転倒した。

 彼が身体を起こそうと苦労しているのを、男はやっとこさ追いついたという様子で上から体重をかけ地面へ押さえ付けた。そして、息も絶え絶えに言った。

「今度こそ……捕まえた……」

「……」

「うちの……商品を……ギロウ……たって……」

「……」

「盗人が……どうなっか……教えて……や…」

 言いかけてゴホゴホと咳き込んだ。少年は抵抗どころか返事をする力もなく、息切れに全力を注いでいる。


 中年男は咳き込みが終わるか終わらないかのうちに、肩をトントンと叩かれた。一瞬遅れて振り返ると、成人であろう若い女性が立っていた。

 彼女は端正とまではいかないが、上品さのある顔に真剣そうな表情を浮かべ、少年を見ながら言った。

「大丈夫かい?」

 中年男はいくらか呼吸を整うと、ようやく答えた。

「大丈夫だ。あんたには関係ない」

「あなたの店で買い物したかったのですが、唯一の店番が少年を追いかけてしまって。ただ事ではない様子でしたので、何かお手伝い出来ることはないかと後を追ってきました」

 中年男はハッとした。自営の精肉店を空けてきてしまったことに、今になって気が付いた。

 ちょうど昨日、最後の従業員が、彼の強圧的な態度と奉仕残業に耐えかねて辞めていたのだ。

「お客様でしたか、失礼いたしました」

「その少年は何かしたのですか?」

「何かしたもしないもございません。うちに忍び込んで商品の肉を盗んだんです」

「知らねぇよ……」

 少年の弱弱しく発された声に、男は怒りを露にした。

「太い野郎だ。ただじゃおかねぇ」


 女はなだめるような口調で盗みの現場を見たか尋ねた。

「少し店の奥に引っ込んで、戻ってくると、白い包みを持って店から飛び出していくこいつを見たんです。さっきまでショーケースにあったはずのブロック肉が無くなっていたし、こいつに違いない」

「この包みですね」

「そうです。ですんで、盗人に然るべき罰を与えませんと」

「警察を呼びましょう」

「十歳程のガキを警察に突き出しても、大した罰は受けないし、こいつも懲りないでしょう。俺の店で起きたことです。俺が片付けますんで」

 人前なので行動には移らないが、今にも盗人に肉叩きを振り下ろさんと戦慄いている。

「一先ず、店に戻りませんか?勿論、少年を連れて」

 男は再びハッとして、肉叩きを持っていないほうの手で少年の首根っこを掴み立たせると、半ば引きずるように店へ連れて行こうとした。


 女は首根っこを掴む手を邪魔しないように、少年に肩を貸そうとした。しかし、彼は肩を借りようとはせず、頑なに小包を離そうとしない。

 そんな卑しい態度は、火に油だ。中年男は女を振り切るように、力任せに早足になった。女は後を追いながら言った。

「彼は本当に盗んだのですか?」

「何を言っているんですか。全く離そうとしないこの包みはうちから盗んだものだ」

 苛苛しながら返事して、盗んだ証拠も見せてやると鼻息が荒い。


 店内に入ると、中年男は自分の目を疑った。盗まれたと思っていた商品はもとより、すべての商品がショーケースの決められた位置に収まっているのだ。何かが無くなった様子はない。

「盗まれたと仰っていたのはどれですか?」

 女が発した疑問に、男は愕然とした。

「欠品もなく、きっちり陳列されていますね」

 彼には信じられない光景だった。盗まれたと思っていたブロック肉ばかりでなく、今日切り売りした肉までもが、開店時と変わらぬ様子でショーケースに並んでいるのだ。

 少年も首根っこを捕まれたまま、しばらく男と同じ表情をしていると、呆然と小包に目を落とした。


 中年男は我に返ると、小包を手繰たくった。少年はそれを取り返そうとしたが、敢え無く蹴倒された。

 開かれた包みからは一塊の砂だけが現れ、その一部が崩れて床に流れ落ちた。

 少年は面食らう男の足元に這いよると零れた砂を両手で集め、よくよく観てから再び呆然とした。


 女は少年を助け起こすと、中年男に言う。

「この子は何も盗んでいない様ですね」

 男は少年をキッと睨んだ。対して、砂だけを茫と見つめる彼の口から一言零れ落ちた。

「…知らねぇ」

 鋭く反応して、男は混乱や怒りの八つ当たり先を定めると、包みをその場に捨て、素早く詰め寄ると肉叩きを振りかぶった。

 少年は命の危機を察し、ようやく気を取り直した。彼は反射的に右手に握っていた砂を、青筋の張られた顔に投げつけた。

 それは腕の振りより明らかに速く、異常な速度で男の目の辺りに命中した。


 男は凶器を落としたばかりか、顔面を強打されたようにのけ反り、床に倒れた。目への直撃は免れたものの、瞼や眉の辺りから出血している。

 女は今のうちにと少年に肩を貸し、顔を抑えて藻掻く肥満体を避けて店を出た。少年の左手からは砂がさらさらと流れ落ちていた。

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