第47話 穴穂部間人皇女と丹後探索

 聖徳太子のお母さんをご存じでしょうか。以前にも記事にしたことがあるのですが、名前を穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)といいます。今回は、彼女の存在について再度考察してみたいと思います。彼女は第31代用明天皇の皇后として見初められ6人の皇子を生みました。第一皇子は記述がないので、幼くして亡くなったと思われます。第二皇子が厩戸皇子で後の聖徳太子になります。用明天皇と穴穂部間人皇女は従妹同士であり、共に蘇我の血が流れていました。この蘇我の血が大王の血筋に流れ込むというのは、当時としては考えられないことだったのです。


 皇族の血筋は神に繋がるものであり権威の象徴でした。先代の第30代敏達天皇は、両親ともに皇族の出身です。第29代欽明天皇も同じように皇族の両親から生まれました。皇族の血筋を守ることは国を統治するために必要なことだったのです。敏達天皇が薨去した時、血筋を考えれば押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が該当していました。ところが、この時の皇子の年齢は10歳から12歳ごろと考えられ、大王として国を統治するには幼過ぎたのです。この様な経緯から皇族ではない蘇我の血を引く用明天皇が第31代目の大王として選ばれるのですが、皇后の穴穂部間人皇女も蘇我の血を引いていました。結果的に、蘇我一族は大王家の外戚という地位を得ることになります。しかしこれは皇族の血の権威が弱まることも意味していました。後の丁未の乱は、そうした大王家に対する信頼の揺らぎが遠因になったとも考えられます。


 穴穂部間人皇女の「穴穂部」とは、第20代安康天皇が宮殿を置いた「石上穴穂宮」が由来になります。場所は奈良盆地の真ん中あたり、石上神宮がある天理市の周辺になります。当時の大王に繋がる子供たちは、領地を守るために奈良や大阪に分布する宮殿で育てられていたようです。宮殿での養育は、男の子は警備を担当する舎人として鍛え上げられたり、女の子は宮中で食膳の調理を司る膳夫(かしわで)としてその実務を教え込まれていたと考えられます。また、ここからは僕の憶測になるのですが、大王の娘に関しては「巫女」としての養育も特別になされていたと考えています。この「巫女」に関して詳しいことは良く分かっていません。


 ところで「石上穴穂宮」は、後に蘇我氏と対立した、物部氏の領地でもありました。石上神宮は古くから存在する由緒ある神社ですが、当時は物部氏の武器庫としても活用されていたようです。ここから推察されることは、穴穂部間人皇女は物部氏の一族によって育てられていた……かもしれないということです。穴穂部間人皇女には、二人の弟がいました。穴穂部皇子と泊瀬部皇子です。名前から推察するに、穴穂部皇子はお姉さんと一緒に育てられていたと思われます。詳細は省きますが、穴穂部皇子は叔父である蘇我馬子によって殺されました。泊瀬部皇子は第32代崇峻天皇になられるのですが、同じく蘇我馬子によって殺されました。


 穴穂部間人皇女たち姉弟の母は、蘇我小姉君と言います。記紀によれば、蘇我馬子の姉と記されいますが、歳は親子ほども離れていました。また「小さい姉」と表現されていますが、小姉君は馬子の叔母であったのでは……との研究もあります。つまり、同じ蘇我一族であっても、蘇我馬子から見ると血縁関係が遠いのです。それが直接の原因ではないものの、蘇我馬子が穴穂部皇子と泊瀬部皇子を殺したのは事実になります。蘇我小姉君の子供たちは実に不遇でした。では、蘇我馬子と皇后でもある穴穂部間人皇女の関係はどうだったのでしょうか。


 記紀には記されていませんが、蘇我氏と物部氏が対立した丁未の乱の折、穴穂部間人皇女は丹後半島に避難したという伝承があります。丹後半島の北部に間人(たいざ)という地域があるのですが、これは穴穂部間人皇女がこの地を去る時に、感謝として自分の名前を賜ったことが由来とされています。当時の人々は、間人を「はしひと」と読むことが恐れ多い為、退座されるから「たいざ」と読むようになったそうなのです。


 ――穴穂部間人皇女は何から逃げていたのでしょうか。物部からそれとも蘇我馬子から? 


 穴穂部間人皇女は、とてもミステリアスな人物になります。他にも、用明天皇の別の妃である石寸名との間に生まれた田目皇子と結婚して、佐富女王(さとみのひめみこ)という娘を授かりました。現代よりも性に大らかだったとはいえ、息子と言ってもいい田目皇子と結婚したのは、どのような経緯からなのでしょうか。今のところは全く分かりません。そうした母のことを、聖徳太子はとても愛していたようです。穴穂部間人皇女が亡くなった2年後に追いかけるようにして聖徳太子も無くなるのですが、后である膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)と母である穴穂部間人皇女との三人の合葬を希望し、磯長陵(しながりょう)という墓所に埋納されます。記紀には詳しい記述はありませんが、彼女の生き方を考えることは、物語の方向性を決めるといっても良いのです。


 そんなこんなで、今度のGWはスーパーカブに乗って丹後半島に向かう予定です。聖徳太子ではなく穴穂部間人皇女の所縁の地ですが、これは外せません。二泊三日でその辺りの史跡や博物館をはしごしたい。とても楽しみです。

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