第6話 女のアントニム

 綾子の家でトイレを借りることになった鈴木、鈴木はトイレに向かう間、昔読んだ小説を思い出していた。


「人間失格」


 そう、太宰治である。その小説、人間失格の中にこのようなやりとりがあった。主人公とその友人が様々な言葉の対義語(アントニム)を考えるという物である。そして女のアントニムは花であった。それは同義語(シノニム)ではないかと問う主人公、しかし友人は譲らない。何ともいい得て妙だと感心したことを鈴木は覚えていた。しかし、鈴木は面白いとは思いつつも、その意見には反対であった。花はやはり鈴木にとって女のシノニム、いや、花ではな生ぬるい、花には虫が集る。そう考えると鈴木の考える女のシノニムは神であった。全知全能の神。それは全てを超越する存在。それ以外には考えられなかった。一方でアントニムはうんこであった。うんここそが女と完全に対極する存在、アントニムそのものであった。


(綾子はうんこをするのであろうか。)


 鈴木は考えた。やはり、先の鼻くそ屋での綾子の「うんこする」発言が気になるようだ。しかし、その結論はすぐにでも出ることだろう。鈴木が今、目指しているのは綾子の部屋のトイレ、つまりはうんこをする場所なのだ。綾子がもし本当にうんこをするのならば、何かしらの痕跡が残っているはずである。鈴木は、その痕跡を隈なく調べるつもりでいた。それこそ、隅から隅まで丹念に。


 そうこうしているうちにトイレのドアの前にたどり着いた。鈴木の心臓は破裂寸前。鼓動が高まり、顔はほてっていた。そして、恐る恐る、ドアノブを回しドアを開けた。中に入った。


 トイレの中に入った鈴木はまず鍵をかけた。もちろん、これはエチケットとして当然のことであるが、鈴木にとってはまた別の意味合いもあった。


(これで誰も入ってこない。)


 誰にも見られないことにまず安心感を得るためであった。安心した鈴木がまずしたことは深呼吸である。何度も何度も鼻からその空気を吸い、口から吐いた。空気はまるで高原のような、自然豊かな大地の澄んだそれを思わせた。


(なんて空気がおいしいんだ。)


 空気が美味しい。多くの人は自然の中に包まれるとこう言う。しかし、それはあくまで比喩的な表現であり、空気に味などあるはずもない。ただ、鈴木が感じた空気のおいしさ、それは紛れもないおいしさであった。甘くもなく酸っぱくもなく、もちろん塩辛くなどはない。ただ純粋においしい、そういった空気であった。もっと吸っていたいと思った鈴木であるが、鈴木は他にやることがたくさんあった。空気ばかりを味わってはいられない。時間には制限があるのだ。綾子に不審がられないようにするためには1分以内で出なければならない。5分も居座っていてはそれこそうんこをしていると思われるかもしれない。


 鈴木はうんこをしてもいいかと思った。もし、もしの話であるが、綾子がうんこなどという物をしていた場合の仮定の話にはなるが、鈴木がうんこをし、トイレに流すことで肥溜めの中で綾子と鈴木のうんこが混じり合うことになるだろう。うんことうんこのハーモニー、それは何ものにも変え難い、愛の交わりであった。


 しかし、鈴木には今現在便意というものがなかった。うんこをすることはできない。できたとしても、するのは一番最後だろう。なぜなら自分のうんこで綾子の部屋の便器を汚してしまうことはやはり耐えがたい。というか、便器を丹念に観察してからでないとそれはできない。


(まず、何をすべきか。)


 鈴木は便器全体を眺めてみた。顔を近づけ、鼻は便器スレスレまで近づいていた。いや、スレスレというより、少し触れていた。そうして、まず匂いを観察した。匂い、それは何も感じられなかった。これは本当に便器なのかと疑るほどに何の匂いもしなかった。


 次に便器の色合いをみる。どこかに何かの破片がついていたり、隅のあたりに黄ばみのようなものがないかを丁寧に丁寧に観察した。しかし、そのような痕跡は一切なかった。


(やはり、この便器は使用されたことがない。)


 鈴木は確信した。確信し、安心しきったところで目に入った物、それは鈴木をパニックに陥らせるには十分な代物であった。


 そこには、便器用のブラシと洗剤が置いてあった。


 鈴木はその意味を理解しかねた。それは、通常考えるなら、便器を洗浄するために置かれている。便器が綺麗なのは、綾子が常に綺麗に掃除することを心がけているからだとも考えられる。鈴木は落ちついて洗剤を手に取ってみた。中身は半分ほどなくなっている。ブラシはどうか、使用した形跡があるか。鈴木はブラシを手に取ってみた。鈴木の手は震えていた。


 どうやらブラシは最近購入したものではないようであった。毛先は少し割れ始めている。使い込んだとまではいかないが、使用した形跡はあった。これは一体何を意味するのか。もちろん、トイレ掃除に使ったに決まっている。鈴木は解釈に戸惑ってはいたが不意に、ブラシを舐めてしまった。


 ブラシは特に味はしなかった。もっとよく観察したい鈴木であったが、これ以上トイレに長居すると綾子に怪しまれる。とりあえず、用だけ足して、一旦出直そうと考えた。


 鈴木はズボンのチャックを開け、粗末な逸物に触れた。


「あっ!」


 鈴木の口から思わず声が出た。勃起していたのだ。しばらくおしっこはできそうもなかった。鈴木は気を紛らわすために、別のことを考えざるを得なかった。

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