第5話 光輝く舞台の片隅でー2
二十回グランフェッテを回らなければ、この靴は足から剥がれない。
雅子先生はたしかにそう言った。
額の汗をぬぐったあと、花はそっとトウシューズの紐を解いた。
するりと紐はほどけ、トウシューズは足から離れた。
脱げた。
よかった。二十回、回ったからだ。
やだ。まさか、二十回回らないと脱げないなんて、そんなこと信じてる?
我に返った瞬間、まわりの音が耳に飛び込んできた。
会場の拍手。人々のざわめき。
拍手の音が、波のように広がる。
会場の熱気が、舞台の袖にいても伝わってくる。
玲奈の踊りが終わったのだ。
優雅にプリエをして、おじぎをする玲奈が見えた。まるで、光の繭に包まれたかのよう。
わたしもあんなふうに舞台に立ってみたい。
そう思ったとき、すぐ近くで、拍手がした。
「すごいじゃない」
その声に振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。
グレーのジャージの上下。ただ、足元はバレエシューズだ。
年齢は、多分、自分よりもいくつか年上だろうか。
「よかったよ、君の踊り。舞台の玲奈よりもずっといい」
笑顔でそう言った顔に、どことなく見覚えはあったが、誰なのかはわからなかった。
おそらく、今日出場するダンサーの一人なんだろう。
長めの前髪が乱れ、たった今踊ってきたところなのか、首筋に汗が見える。
その汗を、首に下げたタオルで拭いながら、男性は近寄ってきた。
「だけどさ、もう少し、アラベスクのとき、重心を右にすると、もっとよくなる」
そう言って、男性は、花の腕を取った。
「ほら、やってごらん」
なぜだか導かれるままに、花は立ち上がり、足を上げた。五番ポジションから、左足を上げ、片手を男性に預ける。言われたとおり、わずかに重心を右にずらす。
「いいな、その調子」
たしかに、感触はよかった。さっきまでより、立ちやすく、足も高く上がる。
「ほら」
男性の右手を動き、そのまま花は回転を始めた。
あ、軽い。
そう思った。まるで背中に羽が生えたかのように、回りやすい。
三回転したあと、花は男性が促すまま、シャッセ(助走をつけるためのステップ)をし、アントルラセ(空中で体を回転させながら、足を入れ替える)に入った。
「いいぞ!」
男性が叫び、花は着地するとふたたびシャッセをした。
「アントルラッセはジュッテ(片足を投げ、その方向に降りる)なんだ。もっと、足を勢いよく投げろ!」
花は、右足で踏み込み、即座に上げる左足を高く意識した。
あ、浮いた。
そんな感覚が全身を突き抜けた。
男性も同時に飛んだ。
軽やかな着地。
音楽もない、振りは思いついたまま。
花はアラベスクをし、右手を見知らぬ男性に委ねる。
男性に腰を支えられながら、回転を繰り返す。
回転が終わると、アチチュード(片足で立ち、もう一方の足は90度に曲げる)のポーズで止まる。
この人、かなり、踊れるダンサーだ。
花は確信した。
どこのバレエ団のダンサーなのかわからないが、花の体を支える手つき、いっしょに飛んだときの高い跳躍。それはまぎれもなく、すばらしいダンサーにしかできない動きだった。
花はポーズを取ったまま、大きく背中を反らせた。
ふいにまた、うながされて、シャッセをし、大きくグランパデシャ(足を曲げてから大きく広げて飛ぶ)で進む。
跳躍をしたとき、花は言いようのない喜びに溢れた。
生きている。
なぜだろう。思い切り踊るとき、たしかに生きていると実感できる。
それは、普段の生きている感覚とは絶対に違う。
バレエでしか味わえない、この喜び。
「あんた、何、やってるの?」
目の前に、玲奈がいた。玲奈の目が、冷ややかに光っている。
「タオルは?」
舞台から降りた玲奈に、タオルを渡すのは、花の役目だ。
「ご、ごめんなさい」
タオルはどこへ置いただろう。雅子先生の前でグランフェッテをしているとき、どこへ置いたのか憶えていない。
慌てて駆け出そうとしたとき、履いているトウシューズを思い出した。雅子先生に与えられた赤いトウシューズだ。
急いでトウシューズを脱いだ。右足だけ脱いだとき、
「早く持ってきて!」
苛立った玲奈に、背中をドンを押され、花は走り出した。トウシューズを片足だけ履いて、紐をひきずりながら。
タオルは舞台の袖のカーテンの下にあったが、戻ってみると、玲奈は有名バレエ団の生徒たちとおしゃべりを始めていた。
さっきの男性は?
見回してみたが、どこにもいなかった。
夢だったのだろうか。
まだ数十分しか経っていないというのに、雅子先生の前で回転を続けたことも、見知らぬダンサーといっしょに踊ったことも、夢の中の出来事のように思える。
片方の赤いトウシューズはなかった。
どこへいってしまったのだろう。
探そうとしたとき、真央の声が響いた。
「花、あたしの出番の準備をして!」
花は舞台の袖を後にした。
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