第19話

「あんた、信じてねぇだろ」


 スメラギは裕子に近寄っていった。リビングでひとしきり父の話をしている母と典子、“霊がみえる”美月という青年を遠目に、裕子はひとりダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。


「霊なんて、信じるわけないでしょ。マッサージチェアの話なんて、どうせ典子から聞いたんだろうし。父の霊がみえるって言ってって、典子に頼まれたの?」


 父が亡くなった直後より、1か月経ったここ数週間ほどで、母の様子がおかしくなってきた。父に話しかけているようなひとり言が増え、生きていたときのように父の靴をそろえ、膳を整えてしまう。注意すると我にかえるのだが、母は父が死んだと知らないようにふるまっているようにみえて仕方がない。


「お父さんがいなくなったショックでおかしくなったのかしら」


 喪失感から人は心のバランスを崩すと聞いたことがある。裕子は、大学で心理学を専攻していた妹に相談した。


「パパが死んだってこと、ママは受け入れられないみたいね。幽霊でも何でもいいからパパに会いたいって気持ちがママに幻覚をみせているのかも。幽霊の正体って、自分の心なのよ」


 妹の典子とそんな話をしたのがつい2週間前だった。考えがあるといった典子に任せておいたら、霊がみえるという男を家に連れ込み、母だけがみている幻の父に付き合っている。


「典子も、あなたたちもどういうつもりなの。母は父の死を受け入れられずにいて幻覚か何かを見ているんでしょうけど、それを父の霊が本当にいるみたいな話をして。時間が経てば、母も父の死を受け入れるはずなんだから、変な話をして母を混乱させないで」


 スメラギは裕子のむかいの椅子を引いたが、座ろうとはせず、立ったままでいた。


「確かに、あっちは芝居だけどな。でも、おやじさんは本当にここにいるぜ」


 誰も座っていないはずの椅子を、スメラギは顎で指し示した。

 裕子の目の前には、銀髪の若者が立っているだけだ。引かれたままになった椅子には誰も座っていない。椅子の背もたれ越しには、父の話をしている母と典子、美月という青年がみえるだけだった。


「そういう話なら、やめてよね」

 気味悪そうに眉をしかめ、寒気を感じたのか、裕子は肩を震わせた。


「あんた、変な人だなあ。おふくろさんがN県出身だから、もしかしたら球里熱のウイルスを持ってるかもしれないとか、自分にも受け継がれているのかもしれないなんてバカげた話は信じるのに、霊の存在は信じられないってか」


 裕子の心臓が一気に血を放出し始めた。喉元まで感じる鼓動を抑え、裕子はやっとのことで言葉を絞りだした。


「なん…の話?」

「とぼけんなよ。彼氏のおふくろにいろいろ言われたんだろ? あんたのおふくろさんが、かつて球里熱の感染地域だった場所の出身だったからって、あんたも、あんたの彼氏も球里熱にかかるなんてわけねえし。あんた、知ってるはずだ。ウイルスは遺伝なんかしやしねーし、第一半世紀以上も長生きするウイルスなんてありえねえだろ。めちゃくちゃな理論なのに、あんた、彼氏のおふくろの言うとおりにして彼氏と別れやがって。それって、あんたも、そのおふくろの話を信じたってこったろ?」


 水島の母とのいきさつは、水島はもちろん、家族の誰にも話をしていない。それなのに、なぜ見ず知らずの男が知っているのだろうか。裕子がグチめいた話をしたのは、仏前の父にむかってだ。


「人間、目にみえないものは信じない。見たいものだけを見る。あんたが何を見たがろうと、何から目を背けようと、俺の知ったこっちゃねえ。なあ、聞けよ」

 反論したげな裕子をさえぎり、スメラギは続けた。

「信じようと信じまいと、俺にはあんたのおやじさんが見える。あんたのことはおやじさんから全部聞いた。……おやじさん、あんたのこと心配してるぜ。このままだと、あんたのほうが死んだも同然だってな」

「……」

「彼氏と、あれきり話してないんだろ? ケータイの番号も変えて、家の電話にも出ない。一方的すぎないか?」


 水島のプロポーズを断った翌日には、裕子はケータイの番号を変えてしまった。家の電話や会社にまで電話がかかってくるが、裕子は出ようとはしないでいた。


「あんたの気持ちだけを彼氏に押し付けてるだろ。ちゃんと、彼氏と話をしたほうがいいぜ」

「…話って、お母さんのこと、話せるわけないじゃない……」

「おふくろさんのことは言い訳だろ? 本当は、自分が球里熱の原因のように言われるのが怖いんだ」


 図星だった。心の底で気付いていながら、気付かないふりをしていた。バカバカしい理屈だとわかっていながら、その理屈を振りかざす人間に立ち向かえない弱さ、それは裕子が見たくないものだった。見たくないものから目をそらしてしまえば見えない。見えないものは存在しない。存在しないものを恐れる必要はない……。


「おやじと話したいか?」


 裕子は銀髪の男をみつめた。近くでみると根元まで見事な白髪で、染めているわけではないらしい。裕子よりも若いはずだが、もう白髪が生えてきているのだろうか。挨拶もろくにできない無愛想な男で、三白眼の目を鋭いと感じたが、今はその瞳が底のない澄み切ったものに見える。


「やつは霊媒体質だ。直接話をしたければ、おやじさんの魂をやつにのっけて―」


 スメラギの視線を感じたように、美月が裕子たちを振り返り、にっこりと笑った。


「あんなイケメンじゃあ、お父さんと話してるって実感わかないかもしれない……」

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