第11話

 水島から食事の誘いを受ける少し前、裕子は水島の母親に呼び出された。


 裕子は、水島の母親が苦手だった。医者の夫をもち、自分の両親、親戚も医者の家に育ち、物腰は上品だが、世間知らずなのか、受け取る相手の気持ちなど考えずに物事をはっきりと言いすぎてしまうきらいがあった。水島と正反対な性格で、裕子と水島が最も嫌う、物事をあまり深刻に考えないという性質が彼女にはあり、女はあまり頭を使わないほうがかわいらしくていいと考える、よく言えば無邪気な人であった。


「このたびは」


 水色の絽の着物に目をひく花火の帯を締めた夫人は、先だって亡くなった裕子の父のお悔やみを述べた。


 平日の午後の喫茶店に、客の姿はまばらだった。そうでなくても、高級店として知られるその店で、時間を食いつぶすことができる人種は限られている。


 父親の知り合いの会社で役員秘書を務める裕子は、30分だけという時間をもらって仕事を抜け出し、マダム御用達という高い敷居を重い足で乗り越えた。

 

 一杯2000円の紅茶とケーキが運ばれ、夫人はようやく話の本題に入った。


「裕子さん、あなた、隆也と結婚するつもり?」

「え?」


 本人とさえ結婚の話などしてもいないのに、母親からその意思を聞かれるのは筋違いな気がし、裕子は返事をしなかった。


「お付き合いも、もう10年よね。あなたももう30近いのだし、そろそろ結婚を焦るころだわね。あの子もいい年だし、結婚について考えていないこともないと思うの」


 考えていて欲しいと思うと言いたかったが、裕子は言葉をぐっとのみ込んだ。


「でもね、あの子が結婚しようなんていいだしてもね、裕子さん、結婚はしないでね」


 夫人はさらりと言ってのけた。

 その後の夫人の話を聞きながら、裕子は手足が冷たくなっていくのを感じていた。


「あなたに問題があるとかそういうことではないの。あなたのことは好きだわ。でもねえ、今度のことがあってね……」


 今度のこととは、暗に球里(きゅうり)熱の発生と、裕子の父が球里熱で死亡したことを意味していた。


「あなたのお母様、N県のご出身なんですってね。N県といえば、球里熱が最初に発生したところよね」


 球里熱が戦後の長い時を経て再び姿を現したのは、N県出身の人間がF県にいたからだという巷の噂があった。球里熱の原因となるウイルスはN県の人間の体内に潜み、再び猛威をふるう日を静かに待っていたのではないか。根拠のないバカげた噂だったが、球里熱の恐怖に怯える人々にとっては真実となり、N県およびH県出身者を忌み嫌う風潮が蔓延しつつあった。


 差別がバカバカしいのは言うまでもないが、差別の原因となった噂は医学的根拠のないもので、よく考えればバカげたことだとわかるはずだ。医者の家に生まれ、医者に嫁いだというのに、何という無知ぶりなのかと、裕子は腹がたった。


「あの子には立派な将来があるのよ。それをあなたとの結婚で…」

「失礼します」


 煮えくり返る胸にこみあげる別の言葉を押さえ、挨拶だけはして、裕子は喫茶店を後にした。


 小雨が降りしきるなか、傘もささずに裕子は街を歩いた。顔を濡らしているのは雨のしずくだけではなかった。

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