この世から消滅しました

Re:over

 

この世から消滅しました


 俺は仕方なく大学へ通い、嫌なバイトを辞め、親に生活費をねだっては自堕落な生活を送っていた。

 小説家を目指して芸術大学へ進学したものの、俺に才能なんてなかった。というよりも、他の人の才能、センス、努力に埋もれた。どんなに自信のある作品を書き上げたところで誰にも認めてもらえない。

 執筆する気が徐々に無くなっていく自覚があった。投稿してもどうせ読まれないし、読まれても評価されないと思い、ある日を境にネットへの作品投稿を辞め、その一週間後には物語を紡ぐことすらも辞めてしまった。

 俺は同期の友達みたいに「生きるために書いている」わけではなく、ただ、面白い作品を書いた自分を評価してほしいから小説を書いていた。その時点で他より努力が欠けることは明らかだった。

 それで、自分に失望し、死にたくなった。生きているだけで苦しかった。

 ――なら、消滅するしかない。


***


 目が覚める。カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しい。上体を起こし、一つ大きな欠伸をしてスマホの電源ボタンを押す。

「あ……やべ!」

 時刻は九時。もうすぐ一限が始まる。急いで着替え、バッグに教科書を詰め込んで外へ出る。ボロアパートの階段を数段飛ばしで駆け下り、学校へダッシュ。

 五分もしないうちに校門前に到着。しかし、そこからが難所である。校門を超えると五十メートルくらいの急な坂が待ち構えている。

 これだから田舎の大学は……と、ため息を吐いて駆け上がる。しかし、頂上付近まで来ると、息苦しくなって減速した。

 呼吸がため息の連続になりそうだ。どうして昨日の自分はアラームの設定を忘れたのか。やり切れない気持ちが込み上げてくる。もう一限は休んでしまおうかという考えもあったが、ここまで来たのだから遅刻してでも出席しようと教室へ向かった。

 教室へ着き、座れる席を探したが、一番前の列しか空いていなかった。気まずいな、と思いながらもそこへ座って大人しく授業を受けた。

 授業中、先生がプリント配る時。どうしてか、俺は飛ばされたのだ。遅刻したことが気に触ったのだろうかと思い、何も言えないまま授業を終えた。

 そして、遅刻していない二限の授業も俺はいないものとして扱われ、食堂の扉を開くこともできなかった。購買のおばちゃんにもその辺を歩く人にもエレベーターにもスマホにも、俺の存在は否定された。


***


 何時間も校内を周り、いろいろ試した。まず、俺は人に力で勝てない。歩く人にぶつかっても俺が一方的によろめくだけ。声も聞こえていないようだ。そして、スマホも他人に影響がある様なことは受け付けなかった。スマホでできることといえば、写真を撮ったり、待ち受けを変えたり、調べ物をしたり、その程度のことであった。

 しかし、お腹が空いて、商品を盗んででも食べようとしたが、商品を持ち上げることすら出来なかった。おそらく、商品が減るというのはこの世への干渉になるからだろう。

 見かけた友達はみんな何不自由なく過ごしている。文学に取り憑かれたやつも、小説に興味がないやつも、何となく生きてそうなやつも。

 家に帰ると、俺が存在していたという事実は残ったままであった。ポストに入っていた家賃の請求書がそれを証明していた。家にはいつも通り入れるようで、電気やテレビも付けることができた。

 結局、この世から消滅したところで生きる意味を剥ぎ取られ、死ぬ理由ができただけであった。

 人生の意味を考え始めたらお腹が空く。この世から消滅した虚しさと食欲が満たされない空しさが俺を挟み込み、腹と背中がくっつきそうだ。空腹で苦しみながら死ぬなんて嫌だから、自殺の心構えをしなければなと薄ら覚悟した。

 カーテンを開けて外を眺める。夕日の赤が闇に呑まれていく。こういうのを心象風景と言うのだ。俺はこの世に呑み込まれ、誰にも知られず朽ちていく。怖いことは何もない。自分が望んでいたことではないか。

 そうだ、と思いついて家にあった食パンを手に取り、口に入れた。食べられる……。

 ちゃんと味もあるし、食感もお腹に入っていく感覚もあり、この世から消滅したとしても、まだ生きているのだと体で感じた。希望が見えたために弱々しい覚悟は揺らぎ散った。

 ある程度腹を満たし、ベッドに横たわってみる。こんな非現実的な話、寝て起きれば夢だったというオチなのだろうかと考える。


***


 夜明けの薄い青色をまぶた越しに感じた。いつにも増して快適な睡眠であった。昨日の出来事が嘘のように穏やかな朝だ。喉が乾いていたので、自身の存在確認ついでに近くのコンビニへ向かったが、そもそも自動ドアが俺に反応してくれなかった。

「もう、諦めて死のう」

 言えば実行できるという甘い考えがあった。しかし、気がつけばベッドの上で横たわっているだけ。死の覚悟一つもできない。店などで買ったり盗んだりはできないが、おそらく、人が捨てた食べ物は食べることができるはずだ。だが、生きるためにプライドを捨てられるほど生きることに執着していない。

 小学校の頃、透明人間になったら全裸で学校を走り回ってみたい、なんて友達と話したこともあった。あの頃のように頭を空っぽにしていきたいものだ。

 ただひたすらこの部屋で腐っていくのだろうか。それはそれで嫌だ。俺にまだ筆を握る気力があったのなら、筆に対する執着があれば、それでも良かったと思えたかもしれないが。

 俺が今更何を書いたとしても、読むことができるか分からないし、できたとしても、遺影を前にテキトーな感想を言われるだけだ。それじゃあ意味がないのだ。

 することもないので、バスに無賃乗車してみた。特に面白みもない。何かを期待していたわけでもないが、ガッカリした。駅前まで来たはいいが、電車でどこかへ行く気力なんてない。また無賃乗車で帰り、バスから降りた直後。

「すみません、ちょっといいですか?」

 声をかけられた。まさか、と思いながらも振り返ると、さっきまで同じバスに乗っていた女性が真っ直ぐにこちらを見ていた。可愛らしいクリクリした目だ。

「えっと……俺のことですか?」

 恐る恐る聞いてみた。

「そうです」

 息を飲んだ。もしかしたら、彼女も俺と同じこの世から消滅した人なのかもしれない。他に同じ境遇の人がいるということを想定していなかった。

「どうしました?」

 あくまでも平静を装う。

「あなた、堂々と無賃乗車しましたよね。こういうこと、辞めた方がいいですよ」

 この言い方だと、俺と同じ境遇ではないことは明白だ。だとしたら何故、彼女は俺を認識できるのか。

「えっと、変な質問しますけど、どうして俺のことが見えるんですか?」

 彼女は顔を歪める。

「何を言っているのか分からないです。逆に、私以外の人はあなたのことが見えないんですか?」

「そうです。見ておいてくださいね」

 俺の意味不明な発言を証明するために、そこを通りかかった男性の肩を叩いた。もちろん反応はない。

「ほら、分かりますか? どうしてか、俺は誰からも認識されないんです」

「えっ! すごい!」

 彼女は俺の体を舐め回すように見る。

「にわかには信じられないけど、これは本当に見えていない様子だね。それにしても、どうして私には見えてるのかな」

 彼女は人差し指を顎に当てて斜め上へ目を向けた。その仕草が可愛くて思わず目を逸らした。

「それは俺にも分かりませんが……」

「まぁいっか。授業あるからじゃあね」

 隣を歩いていた女性が彼女を見て表情を歪める。それに彼女は気がついていないようで、俺に向かって手を振った。

「あ、そういや、放課後って時間ある? あなたのこともっと知りたいんだけど」

 彼女はそう言って子供のようなキラキラした目をこちらに向けた。俺はまた目を逸らした。彼女はどうして俺を認識できるのか、というのもそうだが、俺を認識できる人がいなければ、食事もまともにできないまま野垂れ死にすることになる。言わば、彼女は救済の女神。彼女のことを知れば、俺が消滅した理由も分かるかもしれない。それに、この世へ復帰する方法も見つかるかもしれない。

 会って何を話し、何をするのか。俺が一方的に食料をねだることになるのか。ただ、俺は彼女に頼らなければならない。今度はちゃんと彼女の目を見て答える。

「空いてます」

「あ、そういえば名前聞いてなかったね。私は小春だよ」

「俺は清水」

「分かった。じゃあ六時半にここで待ち合わせね」

 そう言って彼女は足早に大学の校門へ向かおうとした。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 彼女とここで別れるのが怖くなったのだ。彼女が待ち合わせを忘れたら、俺は今後どうなるのだろうか。考えたくもなかった。

「どうしたの?」

「着いて行ってもいいですか?」

 これではただのストーカーだ。自分でも必死すぎて、その本質を考えないまま言ってしまった。

「え、普通に無理」

「そ、そうですよね」

「大丈夫ですよ、ちゃんと約束は守るので」

 ふわふわした印象の彼女だが、その言葉は力強かった。

「……すみません」

 俺はこの会話の間、自殺のことを完全に忘れていた。

 一旦家へ帰り、小腹を満たそうと冷蔵庫を漁る。男子大学生の冷蔵庫事情なんてたかが知れたもので、半日もあれば中身は空っぽになる。強いて言うなら調味料は残っているが。

 カップ麺にお湯を入れ、小春のことを考えていた。最悪、復帰できなくとも、理解者がいればやっていけるかもしれない……何を期待しているのだか。逆に、彼女がいないと生きていけないかもしれない。そんなことを考えると、幼馴染の亜紀子を思い出した。

 そもそも、俺がこの世から消滅したいなんて考えたのが原因で、むしろ消滅することは良いことではないのか。願望も、叶ってしまえば悪夢に化けることもあるのだ。


***


 時刻は六時。家に居てもやることはないし、早く着いてしまった。スマホで時間を確認してはため息が出る。早く来ないかな、と不安になり、特に意味もなく周囲の目を気にしてしまう。居心地が悪い。

 友達が目の前を通り、思わず挨拶してしまう。しかし、彼は振り返ることもなく先へ行ってしまった。まだ自分がこの世から消滅した実感が湧かない。

「お待たせー」

 モヤモヤした気分が飛んでいくような明るい声が聞こえた。

「立ち話もなんだし、近くのファミレスにでも入らない?」

「待ってください。俺は人に認知されていないので、あなたが一人で話してる変な人になってしまいますよ」

「それは盲点だった」

 彼女は頭をかきながら苦笑いした。さっきまでの苦悩は吹っ飛んでしまい、彼女は人を明るくする才能があるな、と思った。

「公園のベンチとかはどうですか? いいところが近くにあるので」

「じゃあ案内お願い」

 俺は少し歩いたところにある人気のない公園へ案内した。

 ベンチに座ると、鉄の冷たさが体へ流れ込み、思わず身震いした。隣に座った彼女は俺の様子を見て不思議そうに首を傾げる。恥ずかしくて咳払いをした。

「改めて、俺は文芸学科二回の清水涼太です」

「同じく文芸学科一回の東山小春です」

「それで早速なんだけど……」

 俺は自身の状況、こうなった経緯と推察、認識の判定などを分かっている範囲で説明した。

「えっと、この世から消えたいと思ったら本当に消えたみたいになった、ってことだよね。じゃあ私も億万長者になりたいって思ったらなれるのかな」

 彼女は先輩である俺に対して敬語を使う気がないらしい。特に気にしていないが、自分のことをあまり良く思われていないのかと少しばかり悲しく思った。

「そんな簡単になれるわけないだろ。まぁとにかく、あれだ、俺のために食べ物を買ってほしい。お金は渡すし、俺にできることなら何でもする」

 俺は立ち上がり、頭を下げた。

「わかった」

 彼女がいないと俺は生きることができないのだ。

「じゃあ早速買い物へ行こー!」

 彼女はピクニックにでも行くかのような勢いで近くのスーパーへ歩き出した。今日知り合ったばかりなのにここまで信用されると、詐欺に合わないかと心配になる。

 とりあえず、今回は代わりに買ってもらい、後からお金を渡したが、そのお金もいつかなくなる。小春に頼りっぱなしというわけにもいかないし、今後どうやってお金を稼ぐか考えなくてはならない。

 買い物を終え、バス停の前に立ち並ぶ。

「家まで運ぶの手伝わなくても大丈夫なの?」

「大丈夫。十分助かった。その、明日会えないかな?」

 最低なやつだな、と自分でも思う。彼女は多分、真面目で優しい子だ。俺はその優しさに付け込んで生きようとしている。生きる価値なんてないのに。

「あ、バス来た。じゃあ、明日も同じ時間、場所で待ち合わせってことでいいよね」

「うん。じゃあまた」

「またね」

 俺は手を振ったが、彼女はこちらに背中を向けたままバスに乗り込んだ。

 不機嫌になったのか? 何か余計なこと言ったっけな。思い当たる節は何もない。女性って難しいな……。

 頭を振る。過去のことを思い出して唸る余裕なんて、今の俺にはない。それなのに、亜紀子の笑顔が脳裏を過る。未練なんてあるはずない。でも、でも。彼女は俺だけに優しかった。本当に、優しかった。対して俺は、最低な言葉で関係を切った。今後関わることもないだろうに、どうして後悔しているのか。

 深く息を吐き、空を見上げた。さすが田舎、星がはっきりと見える。引越したばかりの時はこの星空にも感動できたのに、今では何も感じなくなっている。重いレジ袋が指に食い込む。不安も心に食い込んで苦しい。バス停に背を向けて歩けば、大学生の騒がしい声が向こうから聞こえてくる。羨ましいなんて思わないが、惨めな気持ちになる。この調子だと、ATMでお金を下ろすこともできないだろうし、電気代も払えずに止められてしまう。心配事が芋づる式に出てくる。

 部屋のドアを開け、靴を脱ぎ捨てる。疲れがどっと溢れても思考を放棄できなかった。鎖のように巻き付いて離れてくれない。

 ピロン

 通知音が鳴り、待受画面にメッセージの内容が表示される。

『宮里亜紀子 久しぶり。突然だけど、ゴールデンウィーク暇?』

 亜紀子……? 送信先を間違えたのだろうか。

 俺は亜紀子に最低な言葉を投げて関係を断った。はずだった。亜紀子から連絡してきた。おそらく、無視されることを覚悟の上で。そこまでして連絡する意味は? 暇だったらどうするつもり? 待て待て、何を期待しているのか。

 一度深呼吸して、スマホを握る。文字を打ち込もうとするが、手が震え、手汗もすごくて上手く入力できない。

『暇だよ』

 一息ついて、送信ボタンを押した。スマホを机に置き、椅子に座った。しばらくすると、既読のマークが付いた。そこで違和感を覚える。

「あれ? なんで送信できた?」

『じゃあ、五月三日空けておいて。近くなったらまた連絡する』

 考える暇もなく返信が来た。

 もしかして、と思い、溜まっていたメールの返信をしようとしたのだが、亜紀子以外の人にはメールを送れなかった。ということは、亜紀子も小春と同じように俺を認識できる人なのだろうか。

 他にも俺を認識できる人がいるかもしれない。その人たちを探せば、何か手がかりが掴めるかもしれない。とはいえ、亜紀子と小春の共通点が分からない。


***


 亜紀子とは幼馴染であった。小学校の頃から仲が良かったし、高校になっても一緒に行動することが多かった。

 彼女は俺の投稿した小説を毎回読んでくれていた。意見や感想も言ってくれた。同じように、俺は彼女の書く絵を見せて貰っていた。他のことでも共依存なところがあった。登下校もそうだが、課題をするのも、進学先も、部活も、遊ぶ時も、彼女がいないとめんどくさくなってしまう。亜紀子もそう言っていた。

 きっかけとかはなく、ただ、中学校になって男女が分かれるタイミングになっても仲が良かったから。冷やかされても気にしなかったし、むしろ、両想いだっただろうから、満更でもなかったのだと思う。周りからも共依存してる、と言われていた。

 今思い返せば、それは最早付き合ってるのでは? とも思える。俺だって、彼女のこと好きだったし、手を繋いだり、それ以上のことをしたいと思っていた。でも、別に焦る必要はないと思い、高校三年生の冬を迎えた。

「私ね、県内進学することになった」

 一緒に芸術大学へ行く予定だったのに、入試を目の前に唐突な進路変更であった。

「な、どうして急に」

「まず、親が絵描きの道に行くことを許してくれなかった。それから、私たち離れるべきだよ」

 おそらく、親にそういうことを言われたのだろう。しかし、その時の俺には何を言っているのか理解出来なかった。今ならなんとなく分かる。どっちつかずな関係が続けば、親として不安だろう。

「どうしてだよ。亜紀子だって、絵描き目指して頑張ってたじゃないか。離れるべきってのも意味が分からん」

「絵描きで食っていくのがどれほど難しいか分かってる? 両親は安定した仕事に就いて欲しいのよ」

「そんなの俺がどうにかする! だから、もう一回説得させよう!」

 彼女は一瞬黙り込み、俯く。そして、ゆっくり口を開いた。

「そういうところだよ。そういうところが私の両親を不安にさせてるの」

 ずっと後悔している。ずっと。俺はこの時、亜紀子が好きであることを伝えるべきだった。いつも一緒にいるから、隣にいることが当たり前だから、気がつかなかった。

「意味分かんねぇ。まぁいいよ。お前のせいで彼女作れなかったし、丁度いい」

 俺はそう吐き捨ててその場を去った。それから亜紀子とは目も合わさずに高校を卒業した。

 おそらく、息絶えるその時まで後悔する。

 亜紀子と離れた今になってから彼女のことで頭がいっぱいになる。隣を歩き、微笑む彼女の姿がいつまでも再生される。あの手を握りたい、あの髪を撫でたい、あの肩に触れたい。そうやって自分の中で後悔が膨れ上がり、どうしようもなくなった。

 今でもその日から先に進めず、過去に囚われているのだ。

 亜紀子は今、どうしているのだろうか。彼氏とかいるのだろうか。自分以外の男と一緒にいるのを想像したらむしゃくしゃする。悔しいし、その男に「亜紀子の何が分かる!」とか言いたいが、そんな権利、俺にはない。

 もし、俺が告白して亜紀子と同じ学校に通っていれば、どうなっていただろうか。思うに、俺はまだ小説を書いていただろうし、友達とも上手くやれていたと思うし、将来は明るいものだっただろう。そんなもしもの世界を妄想してまた虚しくなる。


***


 また後悔している夢を見た。寝覚めは最悪。亜紀子と再会できるというのに、不安ばかりではまた失敗する。

 家にこもっていると考え事が膨らみ息苦しくなってしまう。外へ出ようとしたところ、家賃のことを思い出した。そういえば、こういうのはどうやって支払えばいいのだろうか。お金があっても、存在を認識されていなければ渡せない。

 もうキャパオーバー寸前だ。家賃は後々どうにかする。今は生きることだけを考えればいい。

 古めかしい家や新築が立ち並ぶ住宅街。周辺にあるのはコンビニとスーパー、それからバッティングセンターくらいで、本当に何もない田舎だ。最寄り駅まで行けば、店が並ぶ大通りがあるが、徒歩だと五十分近くかかる。

 行くあてもないため、とりあえず学校とは反対側へ歩くことにした。坂を上り、下り、頭を空っぽにして足を動かす。四月だというのに、日向にいると頭がオーバーヒートしてしまいそうだ。できる限り陰から陰へ身を移す。その中で気まぐれに十字路を曲がったり、細い塀の間を通ったり、公園を突き抜けたり。まるで子供の冒険だ。しかし、気分はそんなに明るく前向きなものではない。

 気がつけば、下宿先の前の道まで来ていた。心のどこかで迷子になって帰れなくなるのではないか、と恐れていたのだろう。また亜紀子のことを思い出してしまう。

 小学一年生の放課後、亜紀子と一緒に街を冒険したことがあった。隣に彼女がいるからか、どこまで行っても怖くなかった。見たことのない建物が並ぶ通りを勇猛果敢に進み、路地へ入り、道無き道を行き、迷子になんてならなかった。夜遅くまで帰って来ない俺たちを心配して警察に捜索願を出す一歩手前で亜紀子の母親に見つかった。

 その後は先生に怒られ、両親に怒られ、大変だった。普通、小学生がこうやって怒られれば、涙の一つくらい流すだろうが、俺たちは反省の色も見せずにいた。二人でいれば無敵だった。

「おい清水」

 下宿先を目の前にして出会ったのは同じ学科の成田であった。

「あ、えっと……おはよう?」

 急に現実へと引き戻され、動揺してしまう。

「いや、もう昼だろ」

 なんで成田が自分のことを認知しているのか分からないが、とにかく見えているらしい。

「お前、学校休んで何してんだよ」

 俺は色々あって彼に嫌悪感を抱かれている。そのせいか、話す時はこういったキツい口調だ。

「本当に、何でお前みたいなやつが小野と付き合えたんだ」

 これはもう彼の口癖のようなものだ。

 俺は大学に入って小野を好きになった。亜紀子と雰囲気が似ていたから、という浅ましい理由で。そして何度か遊び、告白したらあっさりOKをもらった。二ヶ月が経ち、彼女が亜紀子とは違うことにようやく気がついた。俺の小説は読んでくれないし、考えを肯定してくれないし、俺に色々なことを隠そうとする。そういうところが気に入らなくなって、別れを切り出した。

 成田は小野のことが好きらしく、告白したくせに振った俺が気に食わないのだと思う。小野と付き合っていた時は、俺のことをライバル視していて、小説を読んでは文句を言いに来た。小野と別れ、小説も書かなくなった時には「お前は小説を書くためにこの大学に来たんじゃないのか? 書かないなら辞めちまえ」と怒鳴られたこともある。俺はそれに何も言い返せなかった。そうして自分の弱さに気がついた。

「バイトも辞めたんだろ?」

 成田の言葉は鋭い。彼に俺がこの世から消滅したことを説明しても、信じてもらえる自信がなかった。それに、説明したところで、何か得られる訳でもない。黙っておこうと思った次の瞬間、俺は通りがかった車に轢かれそうになり、間一髪で避けた。

「あのジジイ頭湧いてんのか? お前避けなかったら轢かれてたぞ」

 流石の成田も驚いたようであった。そうやって喋っているのを親子が見ていた。子は四、五歳くらいで、成田のことを不思議そうに眺める。

「ねぇママ、あの人誰と喋ってるの?」

「しっ、見ちゃダメよ」

 母親は慌てて子の手を握り、さっさと去ってしまった。その会話と様子を成田も見聞きしていた。

「……お前、幽霊なのか?」

 こうなっては仕方がないと思い、固く閉じていた口を開き、自分の状況を説明した。

「にわかには信じられないな」

「そうだよな」

 彼は頭を掻いて俯く。少し唸ったかと思えば、勢いよく人差し指を向ける。

「それが本当だったとしても、お前のことを助ける気はない。それだけは心に留めておけ」

 そう言い放ち、大学の方へ向かった。


***


「やっほー」

 小春は大きく手を振りながらこちらへ小走りして来た。彼女には恥じらいがないのだろうか、と毎回思う。これで三度目の待ち合わせだ。

「はいこれ」

 彼女は手提げ袋を差し出した。

「これは?」

 受け取りながら手提げ袋の中を確認すると、そこには弁当箱が入っていた。

「節約大変そうだし、少しでも足しになればなー、と思って」

「ありがとう! 本当に助かる」

 彼女は仏様か、と思うほどに朗らかな笑みを浮かべた。こういう優しさが亜紀子に似ている。ダメだ、何でもかんでも亜紀子に繋げてしまう。

「そういえばさ、ゴールデンウィーク遊びに行かない?」

「え?」

「私さ、まだ涼太のことちゃんと知らないからさ」

「いやちょっと待て」

 それは所謂デートなのでは。それを誰からも認知されない俺と行くとなれば、周囲の目が痛いに決まっている。虚しくもなるだろう。それなのに、彼女は何を馬鹿げたことを言っているのだろうか。

「お金は全部私が出すから安心して」

「そういう問題ではなく!」

 ここまで来ると、天然なのか馬鹿なのか見分けがつかない。

「じゃあ何? あ、もしかして彼女いるの?」

 彼女いない前提で話を進めるのはさすがに失礼だと思うが。

「私とは嫌?」

 嫌、とかそういうことではない。むしろ、美女にそうやってデートに誘ってもらえるのは光栄なことだし、素直に嬉しい。そして、つぶらな瞳で上目遣いは反則なのでやめてください。

 心の内で一通りツッコミ終え、ふぅ、と一息つく。

「あのな、俺は人から認知されないんだぞ」

「分かってるよ」

「お前一人で喋って、笑って、歩いて、そんな風に見られるんだぞ」

「うん」

「虚しくないのか?」

「私は別になんてことないよ。でも涼太は人に認識されなくて寂しい思いをしてるでしょ?」

「それは……」

「だから、気晴らしに遊ぼうって。周囲の目なんて気にしてたら何も楽しめないよ」

 何も考えていないと思っていたが、そうでもないようであった。彼女には彼女なりの考えや価値観がある。だからこうやって手を差し伸べているのだ。それを蔑ろにするのは違う。素直に手を取り、いつかしっかりと恩を返すべきだ。

「そうだな。じゃあ行こう、遊びに」

「五月三日でいい?」

「その日は予定があるんだ、ごめん」

「予定?」

 小春は首を傾げた。本当は、誰にも亜紀子のことを話したくなかったが、隠し事は苦手なので、余計な抵抗はやめた。ついでに、成田のことも話した。

「なるほどね……もっと早く言ってくれたらよかったのに」

「本当に申し訳ない」

 それはいいとしてさ、と彼女は明るい調子で話す。

「涼太を認識できる人に共通点とかあれば、何か分かるかもしれないね」

「でも、思い当たる節がないんだよ」

 性格、立場、生年月日……色々考えたが、何も思いつかない。

「なるほど。まぁ、遊びに行くのは今度でいいからさ、幼馴染のところに行った方がいいよ」

 俺が小さく頷くと、彼女は話題を変えた。俺が写真に写るかどうか試したいと言った。彼女はスマホを内カメにして、俺の隣に並んだ。そして。

「はい、チーズ!」

 パシャリ、とシャッター音が鳴る。彼女のカメラを用意する手際が良かったせいで、ぎこちない笑顔になっていた自覚がある。

「どう?」

「あー、写ってないね」

 撮った写真を確認するが、そこにはピースしている小春がいるだけだった。


***


 五月三日が近づくにつれ、亜紀子が夢に出てくる。そこで俺は、彼女との寄りを戻そうとしていたり、告白しようとしていたり、吐くような思いで気持ちを隠したりしていた。

 亜紀子と寄りを戻したいが、彼女にそんな気があるのか、と疑問に思った。

 布団を抱き寄せて、メッセージの履歴を確認した。文面から読み取れることなど、大してないのだ。彼女のことだって、俺は完全に理解していたつもりでいた。だからこそ、改めて彼女を知りたいとも思う。それは言い換えれば、依存なのかもしれないが。


***


 電車を乗り継ぎ、久々に地元へ帰ってきた。電車の中では人に潰される可能性もあるわけで、乗車料を払うことによって保証される命もあるのだと感じた。その間に、亜紀子は本当に自分のことを認識できるのかと不安で押し潰されそうになっていた。

 駅から出てすぐそこにあるバス停前に彼女はいた。白シャツの上からふわりとした茶色のニットカーディガン、ズボンは明るめのジーパンに、小さめの黒いショルダーバッグを肩に掛けている。それから、茶色に染まったセミロングの髪、長く整ったまつ毛、艶やかな赤の唇。

 初めて化粧した姿を見た。知らないうちに髪も染めていて、雰囲気も大分違う。不安は募っていく。彼女と目が合う。

「久しぶり」

 彼女はこちらの目を見てそう言った。声は何も変わっていなかった。

「そうだね。久しぶり」

 近づくと、ブーツのせいで身長差が縮まっていた。それに比べ、俺はどれだけ変わることができただろうか。髪型も服装も心持ちも、高校の頃からほとんど変わっていない。

 彼女の変わり様にいろいろな妄想を膨らませる。こんなに大人びたのだから、彼氏くらいいるだろうか。彼氏はどんなイケメンなのだろうか。おそらく、高身長の爽やか系だろう。彼氏とはどこまで行っているだろうか。手を繋いでデートして、キスをして……。

「涼太?」

「あっ、ごめん、ちょっとびっくりしただけ」

「そう。立ち話もなんだし、その辺の店入ろ」

 そう言って歩き始める。彼女は振る舞いも成長していた。高校時代はもっと初々しくて、朗らかで、笑顔の絶えない人であった。久々に会えば少しくらい喜んでくれると信じていた。しかし、彼女は表情を変えることなく、声色もモノトーン。ただ冷静で、そこに高校時代の面影はない。

 服装は俺と会うためか、力が入っている気がする。香水の匂いがする。オレンジのネイルが輝いている。それらが、また仲良くできるかもしれない可能性を孕んでいる部分だ。

 いや、そんなことを考えている場合ではない。俺の今の状況を説明し、どうして呼び出したのか聞かなければならない。

「俺さ、他の人から認知されてないんだ」

 彼女は眉をひそめて振り返った。懐疑的な目でこちらをじっと見つめる。俺は思わず目を逸らす。

「しばらく合わない間に嘘をつけるようになったのね」

「違う!」

「じゃあ証拠は?」

 俺はそこを歩いていた男性に声をかける。もちろん、反応はない。次に肩を叩いてみる。それでも嫌な顔の一つもせず、何事もなかったかのように去って行った。

「……なるほどね」

 思っていたほど驚かず、頷きながら状況を飲み込もうとしていた。まだ、心のどこかに俺への信用が残っていたのかと思ってしまう。そうであれば、どれほど嬉しいことか。

 駅前から離れ、人気のない公園へ向かう。そこは、小さい頃によく行った公園であった。昔と違い、遊具が老朽化したせいで、シーソーとジャングルジムがあるだけの物寂しい場所だ。

「とりあえず、他の人には俺の姿は見えていないし、連絡も取れない」

 歩きながらある程度の状況を説明し、二人でベンチに腰を下ろす。その間に、過去のことを振り返ったり、懐かしむような話題は出なかった。

「涼太に声をかけたのは、恋人のフリをしてほしいからだったの。これじゃあ幻覚の彼氏を連れていくことになっちゃう」

 彼女はそう言って苦笑いした。俺は彼女に恋人がいないことに安堵した。

「ははっ、何それ」

 例えば教科書を忘れた時、課題がなかなか終わらない時、二択を迫られた時など、何か困ったことができたら、すぐ俺を頼っていたことを思い出した。だからといって、これで元の関係に戻れたと錯覚するほど俺もバカじゃない。

「でもね、本当に困ってるの。しつこく追い回されてて」

 彼女は深刻そうな顔をしてため息混じりに言った。空を見上げる瞳は、やはりいつかの日と変わらず輝きを放っていた。高い鼻の輪郭が、横から見るとより綺麗に写る。写真では再現不可能な芸術だと、中学の卒業式の時に気がついた。

 彼女は写真うつりが悪いため、カメラを嫌っていた。その卒業式の日、俺は亜紀子と写真を撮ろうと声をかけたが、彼女はあまり乗り気ではなかった。亜紀子の両親が記念に一枚くらい撮った方がいいと言ったため、渋々撮影したのを覚えている。その時の笑顔は今でも覚えているし、綺麗だったと心の底から思えた。それなのに、写真の彼女はどこかぎこちない笑顔で、別人かとも思える輪郭を描いていた。

「勢いで彼氏いるなんて言っちゃったの。それで、周りに頼れる人もいないし……」

「ごめん、力になれなくて」

「でも、他に頼れる人がいない私が悪いのも事実だし」

「俺の友達に頼んでみる?」

 自分で言っておいて、気が狂いそうになった。その時思い浮かべていたのは成田であった。彼は俺に対する口調は鋭く刺々しいが、正義感は人一倍強いと思っている。

「でも、他の人と意思疎通できないんでしょ?」

「大丈夫。亜紀子と同じように、俺の事を認識できる人がいる」

 何か力になりたいという気持ちがあったとはいえ、成田が助けてくれる保証はどこにもない。彼が本当に彼氏のフリをするとして、俺はそれに耐えられるだろうか。嫉妬するだけならともかく、亜紀子は小野と似ているし、好きになる可能性だってあるし、そのまま本当の彼氏になる可能性だってある。

 いや、どうしてそこまで想像してしまうのか。成田は真面目なやつだから、小野に一途だろう。そうでなければ、俺に対してキツく当たる理由が分からなくなってしまう。

「それは助かる。そっちも大変だろうけど、頑張って。またね」

 彼女は安心した様子で手を振る。それを呼び止めようとしたが、果たしてその権利が自分にあるのか怪しくなって、手を振り返す以上のことはしなかった。


***


 成田が亜紀子のことを好きになる。そんなことはないって分かっている。成田は小野に一途だ。どんなに亜紀子と小野が似ていても、ないと思っている。願っている。だけど、その可能性に怯えている自分がいた。

 元より、目の前にいたわけではないのに、亜紀子が遠のいていくような、背後から闇が迫ってくるような、焦燥感に溺れかけて意識が急浮上する。

 目が覚めると額に汗が溜まっていた。深夜二時、深く息を吸う。まだ生きている実感が湧かなかった。

 成田に亜紀子のことを話してから一週間が経とうとしていた。亜紀子が言うには、今日、顔合わせをするらしい。要らぬ不安に、羨望に、自己嫌悪にと、環状線の如く停車しては発車する。こうなると、抜け出せなくなる。

 久々にスマホのメモ帳を開いた。中途半端に書かれた小説がズラリと並んでいる。その一つに指を伸ばし、続きを打ち込み始めた。おおよそ、半年ぶりの執筆だ。

 書き進めるうちに、自分が思っているよりも書くことが好きなんだな、と感じた。同時に、冷静にもなれた。

 その夕方。成田から話がしたいと連絡が来た。多少の不安を抱えながら公園へ向かうと、彼はいつも以上に不機嫌そうな表情でベンチに座っていた。子供たちが元気そうに走り回っている。夕日が公園を赤く染め、六時を告げる鐘が鳴った。

「話って何?」

 帰っていく子供たちを横目に、俺もベンチへ腰掛ける。

「清水、お前さ。宮里に似てたから、小野を好きになったんだろ」

 図星だった。俺は口を噤んでただ俯く。言い訳の一つも出て来なかった。

「それで、小野が自分のイメージと違ったから、別れた。そうだろ?」

 頷いた。自分のやったことが酷いことだと理解していた。人に指摘されたり叱責されると、罪悪感はより深く心に突き刺さる。

「前に言ってたよな、小野に作品を読んでもらえないって。お前は、恋人に褒めてもらうために書いてるのか? 誰かに認められたいから書いていたのか?」

 成田は立ち上がり、こちらを一瞥する。

 思い返せば、そうだったのかもしれない。最初は書くことが楽しいから書いていたと思う。中学の頃は亜紀子に見せるために書いていた節もあったが、褒められることを求めていたわけではない。いつからだろうか、肯定や賞賛を欲するようになったのは。

「否定できない」

「……そうか。そんな子供みたいな理由で書かれた小説なんて、誰も読まない。少なくとも、俺はもう読まない。話はそれだけだ」

 成田はそう言ってさっさと帰ってしまった。その背中を見送ることすらできなかった。

 自分の弱さを自覚した時に現れる空虚感に苛まれる。同時に、悔しさも覚えた。俺は、そんな理由がなくても書けるのだと。言い返してやりたくなった。でも、何を言ったって意味はない。書いて証明する他ないのだ。

 家に帰り、机に向かう。パソコンを立ち上げ、スマホのメモを共有した。俺はもう読まない、という言葉を思い出してむしゃくしゃする。それが原動力となり、夕飯も忘れてひたすら小説を書き続けた。頭の中の言葉を捻って絞って吐き出す。それだけでは足りない。指や鼻の先に潜む言葉も食い漁って、記憶の海に眠る感情を噛んで、また言葉を探す。

 特に心情描写をしている時が一番楽しい。昔の感情なんて、もう味がしないガム同然だ。それでも、噛み締め、出てくる汁の一滴、あるいは、唾液で薄まったガムの成分を掴み取る。そうして、ようやくそれを言葉と結びつけることができるのだ。情景などと違い、目に見える形で存在しないからこそ、文章という形に落とし込むのは達成感がある。

 ここまで小説を書くのが楽しいと感じたのはいつ以来だろうか。

 外が明るくなるのを感じ、一息ついた。話も一段落し、そのまま作品を更新した。そう、更新できたのだ。物は試しと思い、ボタンを押すと、更新されたのだ。SNSへの投稿を試みたが、それはできなかった。コンビニの自動ドアにも反応されず、道行く人に声をかけてもダメだった。

 どうしてネット小説の更新はできたのか考えるが、思いつくことは何もない。そして、小説とは関係のない文章を打ち込んだ場合は、反映されないことに気がついた。よく分からないな、と首を傾げながら、成田に感謝の言葉を送ろうと思った。しかし、成田にメッセージを送ることができなくなっていた。


***


「やっほー!」

 いつも以上に元気な声が聞こえてくる。でも、それに安堵している自分もいた。

「朝から呼び出してごめん」

「大丈夫だよー」

 成田にメッセージを送れなくなったということは、おそらく、成田から認識されなくなったということだろう。そして、同じ現象が小春や亜紀子でも起きるかもしれない。

 時刻は八時。まだ朝方の寒さが残っている。朝の公園は夜とは違う静けさがあり、新鮮であった。散歩している老夫婦が挨拶してきて、小春が返す。俺も連られて挨拶するが、老夫婦の目はこちらに向かない。

「そうそう聞いてよ! 今日ね、好きなのにエタってた作品が更新されたの!」

 小春は嬉しそうな表情でこちらへ大きく近づく。夏の匂いが鼻を掠める。この温かい笑顔が夏の正体なのか、と錯覚しそうになった。

「あ、うん、よかったな」

 勢いが凄すぎて、いい加減な返事をしてしまった。しかし、彼女は気にしていない様子で続ける。

「そうなんだよ。芸大に進学したのも、その人に憧れてなんだよね」

「はぁ。そんなに面白いのか。というか」

 彼女に押されて話が曲がっていく気配を感じた。

「それよりもメールで送った通り、俺を認識できる人にメールを送れなくなっていた。それは多分、俺を認識できなくなったということだ」

 続けて、成田との関係や直前のやり取りを説明した。

「喧嘩したからそうなっちゃったのかな?」

 小春はたまにボケているのか本気で言っているのか分からない。そういう天然なところが可愛かったりする。

「それなら、色んな人と喧嘩したことになるって」

「確かに!」

 彼女はそう言って目を丸くした。さっき通りかかった老夫婦が離れたところで小春を眺めながら顔をしかめていた。彼女は気にしていないようだが、俺は少しばかり罪悪感を覚える。

「ちょっと声大きいよ」

「え?」

「周りの目が……ね?」

 一限へ向かう学生もちらほらおり、小春を見て笑っている。

「涼太は、周りの目を気にしすぎだよ」

「そりゃあ、友達が変な人だと思われたら、なんか嫌だし」

「うーん、そういうことじゃなくて」

 彼女は瞬きを二回する間考え込む。

「まぁそれはまた今度。そろそろ授業始まるし、また放課後ね」

 そう言って彼女は大学へ歩き出した。


***


 小説の更新ができるのなら、それをすることで、世の中に復帰できるのではないだろうか。こういう時、物語では本当の愛とやらで解決するのだが。

 亜紀子は俺のことをどう思っているのだろうか。そんなことを考えながら執筆していると、文章が乱れ気持ち悪くなる。

 書いては消しを繰り返し、結果としてあまり進んでいない。一度詰まると、良い文章はなかなか出てこない。手を止め、大きく伸びをしてベッドに倒れ込む。

 チャイムが鳴った。今月分の家賃がまだなので、大家さんだろうなと思いながらドアスコープを覗く――そこには亜紀子がいた。

 落ちそうな心臓を押さえ、噴火しそうな脳に氷を投げる。

「部屋片付けるから待って!」

 その言葉が彼女の耳に届いたか確認するのも忘れて、テーブルの上を開け、ゴミを回収して、洗濯物をカゴの中に隠した。部屋を何度か確認し、心の準備も深呼吸一つで済ます。

「ごめん、待たせた」

「別にそこまでする必要なかったのに」

 ドアを開けると、亜紀子はそう言って苦笑いした。後ろで髪を結んでおり、いつもと違う雰囲気であった。ウエストベルトの付いたネイビーのワンピースを着ている。裾が風で靡くと、お花畑にいるような錯覚に陥る。

「急に家来て、どうした?」

「なんとなく、大したもの食べてないかもなって思って。一応、連絡入れたけどね」

「執筆してて気づかなかった、ごめん」

「昔もそういう時あったよね」

 そう言って彼女はくすりと笑う。その時にできたえくぼから、亜紀子との思い出が溢れ出る。

「そうそうこれ。弁当」

「ありがとう」

 彼女の差し出したレジ袋を受け取る。

「用はそれだけ」

 中身を確認する間もなく彼女は背を向ける。本当に、食料を持ってきただけのようだ。しかし、片道二時間も掛かるのだから、軽い気持ちで来れるものではない。

「ちょっと待ってくれ。少し話したいことがある」

 彼女は振り返り、まぁいいよ、と言う。家に上げ、成田のことを話した。

「――なるほど、そういうこともあるのね」

 テーブルを挟み、向こうに座る彼女は頬杖をつく。そういえば、と俺は成田との顔合わせの話を聞いた。上手く、ニセ彼氏として通せそうとのことで安心した。

「それから、何故か分からないけど、ネット小説の更新はできたんだよ」

「あぁ、それで更新されてたのね」

「なんで知ってるの?」

 彼女は黙ってこちらに目をやる。おもむろに立ち上がり、隣に来て、屈んだ。

「なんでだと思う?」

 ワンピースがふわっと浮き、花びらのようにゆっくりと落ちる。この先を想像してしまう。からかわれて終わりか、押し倒されるか、はたまた、押し倒してしまうか。

「え、え?」

 彼女は膝を床に付け、顔をグッと近づける。俺は金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまった。思考も答えを求めるばかりで、まともに機能しない。

「ねぇ、涼太は高校からやり直したいと思ってる?」

 こちらを見つめる瞳に感情は無いように思えた。遅れて漂ってきた香水の奥に潜む彼女の匂いが懐かしくて、愛おしくて、空いた口が塞がらない。俺は恥ずかしさで押しつぶされそうになり、目を逸らした。それに連られて、彼女も目を落とす。

「……進むためには前を見る必要があるの」

 彼女は立ち上がり、一つ笑って見せた。

「私たちはまだまだ子供ってこと」

 ただ、それは人を刺した後のような、意地悪で、不気味な表情であった。バラに棘があるように、彼女は可憐だからこそ危険なのかもしれない。

「そろそろ帰るね。じゃあ」

「あっ、うん」

 彼女は嵐のように情緒を荒らし、そのまま家を出て行った。またね、は無かった。


***


 夜中、散歩から帰ると家に入れなくなっていた。ドアノブをいくら回そうとしても動かない。とうとう、俺は帰る場所がなくなってしまった。

 おそらく、家賃を払えていないことが原因だろう。小春に土下座して泊めてもらうわけにもいかないので頭を抱える。今朝、母親から大量にメッセージが送られてきたのは、家賃を払っていなかったからだろう。

 とりあえず、公園のベンチに腰を下ろすと、冷たくて思わず身震いした。ここで横たわって眠ろうとも考えたが、これではむしろ目が覚めてしまう。暖を取れる場所も思いつかず、夜道を歩き続けた。

 信号が明滅し、世界が赤と黄色で乱れている。その隣でコンビニや自動販売機の派手な明かりが眩しく、時折通りかかる車のヘッドライトが騒がしくて、街灯は親切で、月は安心する。俺に走光性があったなら、もっと全力で亜紀子を追いかけられただろうか。

 昨日、亜紀子が放った言葉の意味を未だに理解できずにいた。彼女の鋭利な瞳が首元に当てられているようで、寝不足気味だ。

 向こうでカップルが手を繋いで歩いていた。小学校低学年の頃、亜紀子と手を繋いで登下校していたのを思い出した。あの時の自分は幸せだったのだと、今更実感する。自分の手を見ると、肥大化した羨望を握っていた。

 四時間ほど歩き、夜が溶け始めた。夜更かしした時の気持ち悪さが吐き気となって現れた。夜が行き場を失い、心の中へ入ってきたみたいだ。


***


 お腹が鳴る。公園の水道水を飲んで誤魔化していたが、それも限界が来ていた。小春との待ち合わせ時間まであと数分。スマホの充電は残り一桁。極限まで削れた体力では、数十秒すら遠い。

「お待たせー」

「よー」

 そう言って小春は元気にやって来た。それなのに俺は上手く笑えないし、声も上手く出ない。

「ん? 元気なさそうだね。クマもすごいし」

「いや、そんなことは……」

 お腹が鳴った。小春はそれを聞き逃さず、こちらを睨みつける。

「もしかして、ご飯食べてないの?」

「まぁ」

「なんで?」

 もし事実を言ったら、彼女の家に寝泊まりさせて欲しいと頼んでいるも同然ではないか。しかし、痩せ我慢できるほど、俺は強くなかった。

「家に入れなくなったんだ」

「え、それって……本当にヤバいじゃん!」

 彼女は悲鳴にも近い声で叫んだ。

「なんで早く言わなかったの! とりあえずこれあげるから」

 そしてバッグから取り出した個包装のチョコを渡された。開封し、口に入れる。甘い香りが広がり、心が満たされていくのが分かる。彼女は次々にチョコを差し出し、わんこそばみたいであった。周りからはどう見えているのかは分からないが。


***


 駅前にあるマンションの三階に小春の部屋はあった。十畳程度の部屋の至るところにゴミが落ち、キッチンには洗われていない食器が積み上げられ、酷い有り様であった。

「汚くてごめんね」

「それは大丈夫だけど」

 引っ越して二ヶ月も経っていないだろうに、どうしてここまで汚くなるのだろうか。

「さすがに、泊めてもらう身だし、片付けくらいはするよ」

「ありがとう。助かるよー」

 とりあえず、積み上がった食器を片付け、料理を始めた。彼女はその間に机と、二人が座れるスペース空けていた。具材を切り、炒め、煮る。ルーを溶かしていると、小春が隣から鍋の中を覗き込み、鼻をピクピクさせる。

「いい匂いだね」

「できたよ」

「やった! ご飯だ!」

 お皿に盛り付け、机に運び、二人で手を合わせる。

「いただきます」

 我ながら上手に作れたと思う。少しばかりジャガイモが硬いが。

「美味しい!」

 口の端に米粒が付いている。

「それはよかった」

 俺はそう言いながら付いた米粒を指さした。すると彼女は顔を真っ赤にして口元を隠す。

「久々に誰かと食事するな」

 最後に誰かと食事したのはいつだっただろうか。亜紀子とは何度も食事したっけ。どうして今、亜紀子のことを考えているのか。亜紀子と大学進学の話をした時、二人でファミレスに入ってカレーを食べていたな。そんなこと思い出しても意味がない。届けてくれた弁当はチキン南蛮だったな。

「涼太?」

 小春の声で我に返る。スプーンを握る手は震えていた。無意識に唇を噛み締め、硬い表情をしていただろう。

「ごめん、考えごとしてた」

 咄嗟に笑顔を貼り付ける。

「そっか」

 彼女はパクパクとカレーを頬張り、時折満面の笑みを見せる。俺は救われてばかりで、誰かを救ったことはあるのだろうか。

「おかわりー」

 空っぽになったお皿を差し出された。多分、今余計なことを考えても、俺は誰も救えない。書くしかないのだ。

「はいよ」

 俺は無意識に笑みを零した。


***


 着替えや生活用品などをコンビニで買ってもらい、お風呂も借りた。夜は深まり、彼女は電気を消し、ベッドに潜る。俺も敷布団に横たわった。

 意識しないようにしていたが、真っ暗になるとどうしても緊張してきた。

「夕飯の時、どんなこと考えてたの?」

 それを察してか、小春が話しかけてくる。

「え、あー、幼馴染のこと」

「よかったら聞かせてよ」

 俺は亜紀子のことを話した。過去のことも、自分の愚かさも、二日前の出来事も。

 亜紀子は俺のことを許すつもりだったのかな、とは思う。しかし、前を見るだとか、子供だとか、意味が分からない。

「きっと、彼女は今の自分を見て欲しかったんじゃない? 中高生は好きという感情が先行しちゃって、好きな相手のことを直視できないから」

 俺はずっと亜紀子のことを見ているフリしていたのかもしれない。だから、彼女の言葉を理解できなかったし、またね、もなかった。もしかすると、亜紀子ではなく、思い出が好きなのかもしれない。

「好きな人との思い出が好きなんて、普通のことだよ」

 どちらにせよ、俺はもう彼女を諦めなければならない。それなのに。

「ちょっとしたきっかけで亜紀子のことを思い出してしまって」

「どうして諦めようとするの?」

「だって、俺は彼女に酷いことを言ったわけで……」

 目を閉じ、自分の過ちを噛み締める。

「好きな人を諦めるって、残酷なことだと思う。だってさ、綺麗な星を見上げてたら、届かなくても手を伸ばしたくなるでしょ」

 彼女の言葉はすとん、と心の中に落ちた。光を追いかけるのと、光に手を伸ばすことは違うのかもしれない。俺はどっちつかずだからダメなのだ。

「そうだね。伸ばすくらい……か」

 それは、この世に復帰してからだろうな。気持ちの整理が一段落し、眠気に襲われる。

 ――久々に淀みのない夜を超えた。時刻は七時半。アラームと小春の唸り声が響き渡る。その横で昨夜の感情を糧に執筆していた。

 彼女は何度かアラームを止めた末、ゆっくりと起きる。そして寝ぼけ眼を擦り、こちらを一瞥する。

「おはよ」

「うん、おはよ。今日は何限から?」

「二限だから朝ごはんは私が作るよー」

 彼女はベッドから出ると、大きく体を伸ばして欠伸をした。そのままカーテンを開け、眩しい朝の日差しが入り込む。穏やかな朝だ。

「え、それはさすがに悪いよ」

「いいのいいの」

 そう言ってキッチンへ行き、料理の準備を始める。

「小春はさ、どうして俺にそこまでするの?」

「うーん、そうだな……」

 彼女は卵を割ろうとしていた手を止め、考え込む。

「自分のためかな。求められることが生き甲斐というか……まぁそんな感じ」

 小気味よく卵の割れる音、焼ける音が鳴る。俺は彼女の厚意に甘えて、執筆を続ける。

 小説を更新したところで、パン、卵、ハムとサラダをお皿に乗せて持ってきた。コーヒーでいいかと聞かれ、うん、と答えた。彼女は数少ない足場を慣れた様子で往復する。

「一人暮らししてから初めて朝ごはん作ったかも」

 彼女はそう言ってサラダを頬張った。

「俺も久々に朝ごはんを食べるな。部屋が散らかっているのもそうだけど、なんか意外」

 俺は卵とハムをパンに挟み、食べる。

「なんというかね、自分のことになるとめんどくさくなるんだよね」

「ちょっと分かるかも」

 亜紀子に読まれない小説を書く意味などあるのだろうか、という気持ちと似た様なものなのかもしれない。そういえば、と成田の言っていた言葉を思い出す。どうして、俺は小説を書いているのか。それは、亜紀子に読んでもらうためなのだろう。

「あー! 更新されてる!」

 ご飯を食べ終え、スマホをいじっていた彼女か急に叫び出す。

「何が?」

「前に言った好きなネット小説だよ! 覚えてる?」

「うん、なんか言ってたな」

「後から読んでみてよ」

「いいよ」

 彼女は嬉しそうに跳ねて、その勢いでベッドに飛び込む。食べ終えた食器は机の上に置いたままだ。こうやって部屋は汚くなったのだろうな、と思いながらそれらをシンクへ運んだ。

 食器を洗い終わると、彼女はスマホの画面を向けて目を輝かせる。

「分かった」

 彼女のスマホを受け取り、座る。タイトルを見た瞬間、俺は目を見開く。それは俺が書いた作品であった。ペンネームも冒頭も、俺が考え、打ち込んだものであった。

「これ……」

「あれ、もしかして知ってた?」

「知ってたというか、俺が書いた作品だね」

「え、すごい! なんか、有名人に会った気分!」

「ちょっと落ち着けって」

 彼女は俺の手を取り、輝く瞳でこちらを見つめる。細く小さな指は握ったら折れてしまいそうで、しかし、確かな熱を帯びていた。照れくさいが、不思議な引力に捕まって目を逸らすことができない。苦笑いで誤魔化すのができる限りの抵抗であった。

「あっ、ごめんなさい。つい……」

 彼女は我に返ったように手を引っ込める。

「いや、いいんだ。でも、すごい偶然だな。そもそも、俺の作品を読んでる人なんて片手で数えられるくらいだし」

「確かに。もしかして、必然だったりして」

「俺の小説を読んでる人が俺を認識できるってこと?」

「適当に言っただけだよ。でも、成田くんは涼太の小説を読まないって言ったから連絡できなくなったのかな?」

 そうだったとしたら、亜紀子も俺の作品を読んでいることになるし、まだ亜紀子とやり直すチャンスがあるかもしれない。いや、今そんなことを考えたところで何の意味もないが。

「小説を読むことと、認識できることの関係性が分からないな」

「小説を読むって、作者のことを理解する手段でもあると思うんだよね。成田くんの中で涼太を理解する気がなくなったわけでしょ」

 彼女はたまに、これ以上ないほどに真面目な顔をする。成田は確かに俺の作品をしっかり読んでいたし、だからこそ出てくる指摘も多かった。

「じゃあ、俺はどうしたらみんなから認識されるようになる?」

 小説を書いたって読まれなければ、いくら更新したって無駄な話ではないか。

「――一途に小説を書く」

 彼女は真摯な目をこちらに向ける。

「そうだけど……」

「読まれないって思うからダメなんだよ。周りの目なんて気にしないで」

 確かに、俺は誰かに読まれているかを気にしながら小説を書いていた。その心配が具現化し、人の目に映らないようになったのかもしれない。

「ありがとう。自分なりに頑張ってみる」

 深呼吸をする。スマホを握り締め、メモ帳を開く。そして、一つ一つ、丁寧に言葉を紡ぐのだ。


***


 ――二週間後。あれから小春の家に泊まって料理や片付けなどを手伝い、暇な時間を執筆に充てる生活が続いた。

 小春と買い物に行った際のことであった。

「あれ、涼太じゃん。久しぶり」

 偶然すれ違った同期に話しかけられた。最近学校で見ないのを心配していたといった話をして、別れた。それで試してみると、自動ドアも反応してくれるし、スマホも自由に使えるようになっていた。

 もう小春の家にいる理由もなくなったので、最後の晩餐を終えた後、俺は彼女の家を出ることにした。

「あー、でも、これでまた汚部屋に戻っちゃうし、寂しいなー、なんて」

 彼女は悪戯な笑みを浮かべる。半分は本心だと思うし、俺もこの生活を心地よいと思い始めていた。しかし、このままでは何も始まらない。俺は進まなければならない。

「また掃除しに来るよ。それより、本当にありがとう。言葉では言い表せないほど感謝しているし、どうお礼をしたらいいか……」

「お礼は気が向いた時でいいよ。じゃあ、またね」

「うん、またね」

 手を振り合い、別れを告げる。

 それからは大変であった。両親にどうして連絡を返してくれなかったのかと叱られ、授業を休みすぎて単位ももらえそうにないし、お金はないし。

 とりあえず、バイトを始め、小春にお金を返そうと考えた。しかし、住んでいるところが田舎なので、いいバイト先が見つからない。腹を括って面接へ行った場所も、何度か落とされた。バイトを見つけた頃には夏休み目前であった。前のバイトは運が良かっただけなのだと痛感した。

 ふと、成田のことを思い出した。俺は彼のおかげで一つ前に進めたと思う。そのお礼を言うため、公園に呼び出した。

 彼はあからさまに嫌そうな顔をしてベンチに座っていた。茜色の空には一本の飛行機雲がある。日中の暑さがまだ残っており、額に汗が溜まっている。

「ごめん、急に呼び出して。とりあえず、他の人から認識されるようになったっていう報告」

 俺は彼の隣に座った。そして、ジュースを一本あげた。

「ありがと。それは良かったな」

 砂場でサッカーする子供たちを眺めながら答える。

「それから、あの時はありがとう。成田のおかげで、俺がどうして小説を書いているか分かったし、また、ちゃんと小説と向き合おうと思う」

 彼はジュースの蓋を開ける。炭酸の弾ける音が鳴り、そのまま口を付けた。

「で、その書いている理由は?」

 こちらへ顔を向ける。見つめる目の奥に、期待があるのを感じた。

「亜紀子に読んでもらうため」

「まぁ、いいんじゃないの。誰か、じゃないなら。でも、読んでくれる保証はないぜ」

 もしかしたら、彼には結末が見えているのかもしれない。誘蛾灯に向かって羽ばたく虫のように、突っ込んで行く俺を馬鹿だとも思うかもしれない。

「だけど、全力でぶつかってみようと思う」

 それでも俺は前に進むと決めた。

「なるほど。せいぜい赤ちゃんみたいに泣き喚くことにならないようにな」

 足元にサッカーボールが転がってきた。ボールを追いかけてきた子供に投げて渡す。子供はしっかりキャッチし、ありがとうございます、と笑顔で戻って行った。

「あと、偽彼氏の件はどうなった?」

「上手くいったから安心しろ。俺がそのストーカー野郎を睨んだらビビって逃げて行った」

 それなら良かったと安堵する。成田が亜紀子と本当に付き合うことにもなっていない様子なので、俺は心置きなく、亜紀子に告白できる。

「ありがとう。話はこれだけ」

 彼は残っていたジュースを全て飲み干す。そして、一つ頷き、立ち上がる。

「じゃあな」

 少し間を空けて、

「小説、楽しみにしとく」

 そう言い残して去って行った。


***


 夏休みは自由で気持ちが良い。ある人は海へ、ある人は旅行へ、またある人は実家へ、様々な景色がSNSを流れる。みんな、自分の存在を主張し、輝いている。

 俺は亜紀子と会うために帰省した。それは別に輝かしいことではないし、誇らしいことでもない。ただ一緒に食事をして、告白するだけ。それだけでしかない。

 午後三時。小学校前のバス停で待っていると、彼女はやってきた。水色のボウタイブラウスとチェックのロングスカートに身を包んでいる。

「お待たせ」

 絢爛な容姿に思わず目を逸らしそうになる。しかし、歯を食いしばり、失明する覚悟で彼女を目に映した。

「ここで待ち合わせるのも中学生ぶりだね」

「そうだね。高校からはどちらかの家が待ち合わせ場所だったからね」

 高校の時、朝起きたら相手に電話するのが習慣であった。それは相手を起こすためでもあり、学校へ行けるかの確認でもあった。

「じゃあ行こうか」

 行先はちょっとお洒落なカフェ。昼食になるようなメニューも置いてあり、高校の時に二人でよく行っていた場所だ。

 中は相変わらず中高生が多く賑わっている。案内された席に座り、メニューを開く。

「いつものなくなってる」

 彼女の言葉を聞いてページを捲る。確かに、彼女がいつも頼んでいたハニートーストが見当たらない。

「ほんとだ……」

「まぁ、二年も経てばメニューくらい変わるよね」

 彼女は苦笑いして見せた。

「でも、涼太がいつも頼んでたホットケーキのセットはまだあるよ」

 そう言ってメニューを広げて指をさす。一瞬、それを頼もうかとも考えたが、幼い自分を思い出してしまいそうで嫌になった。今でも十分に幼いが、少しでも見栄を張りたかったのだ。

「亜紀子は決まった?」

 彼女が迷っているなら、その片方を頼み、食べ比べしようかと考えた。

「私はこれかな」

 しかし、彼女は迷うことなく新商品のティラミスを選んだ。

「じゃあ店員さん呼ぶよ」

「うん」

 俺は、あたかも注文が決まっているような態度で呼び出しボタンを押す。店員さんが来るまでに頼むものを決め、何とかやり過ごした。

 何気ない会話をしながら、疎遠になっていた一年間を縫い合わせていく。

「お待たせしました、ご注文の品になります」

 ティラミスとストロベリーワッフルが運ばれてきた。亜紀子はイチゴが好きなのでこれを選んだが、彼女の口から食べ比べの提案は出なかった。もちろん、俺の口から出るはずもなく。

 話をして分かったことは、彼女が輝かしい大学生活を送り、未来に希望を持ち、今を懸命に生きていた。そして、よく笑い、よく食べ、よく話した。

 ティラミスを食べ終えた彼女は追加でイチゴパフェを頼んだ。

 午後五時を過ぎたところで店を出た。俺は少し寄りたいところがあると言って、彼女を海沿いにある公園へ連れて行った。

 展望台に登ると海を一望することができる。海は、明るく元気な空を映して静かに揺らめく。彼女の髪とスカートが風に靡いた。そして、潮の匂いが鼻をかすめる。

「海、綺麗だね」

 彼女は手すりに手を置き、髪を押さえた。その隣に並び、大きく頷く。

「うん、すごく綺麗だ」

 本当に綺麗なのは亜紀子だ。この景色は彼女の背景だからこそ美しい。それを言いたくて仕方がない。しかし、焦ってはいけない、と感情を心の奥底に押し込める。

「それで、どうしてここに?」

 彼女にはもうバレているのかもしれない。それでも、言わなければ、俺は進むことができない。

「言いたいことがあって――」

 少し気を緩めれば、心音を吐き出してしまいそうだ。展望台の手すりを強く握り締め、安心を得ようとしていた。

 大切に保管していた言葉と気持ちを落とさないよう、大事に取り出す。

「俺は亜紀子が好きだ」

 俺は全身全霊で言葉を放つ。彼女はそれに動じることはなかった。

「涼太は、私のどこが好きなの?」

 俺は彼女の容姿や性格が好きだ。でも、そんな理由は普遍的で、どこか抽象的だ。具体的な理由をいくら探したとしても、彼女が求める答えは出ない気がした。ずっと隣に居たからこそ、ゆっくりと、長い時間かけて育った気持ちだ。言葉にすることも難しいし、それを百パーセント伝えることは不可能に近い。

「俺は大学に入ってから生きた心地がしなかった。それは亜紀子が隣にいなかったからに違いないし、俺はどこまで行っても亜紀子が好きだ!」

 今の俺に言えるのはこの程度のことであった。

「俺にとって、亜紀子はすごく、大切な存在で」

 どんなに感情が溢れていても出でくる言葉は拙いものばかりだ。

「俺は、亜紀子と一緒に生きていたい。一緒に笑いたい。亜紀子じゃないとダメなんだ」

「……私も涼太のことが好きだった」

 彼女は儚い表情を浮かべる。そして、ゆっくりと目を閉じた。

「涼太なしでは生きられないくらい、狂ったように依存的で、純粋無垢な気持ちで、あなたを想っていた。でも、今はもう、一緒にいたいという気持ちはほぼない」

 針に糸を通すように繊細かつ丁寧な話し方であった。ほぼない、という点に違和感を覚える。もしかしたら、彼女もまだ気持ちが完全に消えていないのかもしれない。

「やり直せないのか?」

 藁にもすがる思いであった。頭では、彼女との関係はここまでであると理解している。それなのに、心は何一つとして追いついていない。彼女を諦める覚悟はこれっぽっちもないし、一秒でも長くこの場にいたいと思うし、彼女を引き留める理由ばかり探している。

 彼女はゆっくりと目を開く。その目はもう、こちらを向いていない。左斜め下を凝視し、考える様子もないまま口を開く。

「そうね、やり直せない。あなたも前へ進めば、私への気持ちは薄れていくと思う。だから、私たちはこれから平行線を歩くの」

 そう言って彼女は背を向けた。小説を書いている時なら、気の利いた言葉の一つや二つ、思い付くだろう。

「いつか大人になれるといいね、お互いに」

 彼女は手の甲を見せ、歩き出す。その言葉の意味を噛み締める。咀嚼する。反芻する。もう終わりなのだ。

「そうだね。じゃあ」

 遠ざかる彼女の背中を、見えなくなるその時まで見つめる。唇を噛み締めて、精一杯、大人のフリをした。

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