二章 師と商人

前奏曲

12話『ソレは理不尽と呼び』



 「おい女」


 自身の部屋に入ると同時アドニスは声を上げた。

 しかし部屋の中には誰も居ない。

 ベッドの上。蹲る猫が鬱陶しそうに此方を見つめるだけだ。

 

 「おい。居候、何処にいる……!」


 そのベッドに近づきながら、もう一度声を上げる。

 やはり声はしない、だが。


 ――……ニタリ。

 暗い闇の中で、女は笑った

 何処からともなく、アドニスの背を目掛け伸びる白い腕。


 「――!」


 気が付いた時には遅い。

 振り向く前に背中には、確かな温もりと妙に柔らかな感触。

 細い腕がアドニスの首元に巻き付いて、薔薇のような花の香りが鼻を掠めるのだ。


 「や、しょーねん!」


 酷く機嫌のよい声。

 視線を向ければ、まるで黒花こくかを思わせるような笑みが一つ。。

 シーアは平然とした様子で、アドニスに抱き付いていた。

 相変わらず、赤い瞳には興味も無いと言う色を込めて。


 「――……っ」


 アドニスは顔を険しく顰める。

 どうしてか分からない。何故かも分からない。

 しかし、彼女の気配が全く感じられないのだ。


 今もこうして後ろから抱きすくめられるまで、気が付きもしなかった。

 自分の首など簡単にねじ切ってしまうだろう細い腕が、静かに絡みついている。


 振り払おう。そう考えていたが、止めた。

 無駄な事はしたくない。

 アドニスはギロリと抱き着く、彼女の瞳を睨む。


 「離せ。お前に話がある…!」

 「んー。なんだい?」


 此方は真剣だと言うのに、シーアは興味も無いのか実に能天気だ。

 ニタニタ、アドニスに身体を更にくっ付ける。


 「――……っ」


 その感触に、思わず肩が跳ね上がった。

 顔が火照るのが分かる。


 いや、それ処じゃない。今は話を、この女に怒りをぶつけなくては。

 混乱する頭を落ち着かせ、大きく息を吐いて、もう一睨み。


 「――……お前、昨日何故俺の邪魔をしに来た」


 出来る限り落ち着いた様子で、低い声で。

 つい先程、判明した。気が付いたと言った方が良いのか。

 昨晩の一件を、怒り口調で問いただすのである。


 アドニスの顔の側、彼の言葉を聞いて。

 シーアは静かに赤い瞳を細めた。


 「邪魔?私は手伝っただけじゃないか?」


 笑ったまま、彼女が当たり前に言う。

 その口調に全くの感情をこめず、正に棒読みに。

 この女、口で否定はしている様だが。完全に昨晩の一件で自身が起こした事について、明確に理解しているに違いない。


 アレは間違いなく、邪魔をしたのだ。


 「あれの何所が手伝いだ!こっちが撤退すると言ったのに、お前は――……!」

 「結果オーライ!」


 シーアが心底楽しそうに笑って遮る。

 その瞳は一切悪びれておらず、しかし言葉の端々には本音と言うものが感じられない。

 ふわふわ、ふわふわ。アドニスに抱き付きながら器用に周りを飛ぶ。


 「いい加減にしろ!」


 その姿があまりに鬱陶しく、正面に来た時に彼女の腕をつかんで止めた。

 細い腕だ。無駄な肉が一切ない。同時に筋肉も無い。柔らかく、滑らかな肌。

 この細腕で、一体どこからあの馬鹿力を出すと言うのだ。

 

 「なんだい?そんなに力を込めて」

 「――……!」


 思わず彼女の腕を見ていたら、赤い瞳が下からのぞき込んでいた。

 いつの間にか浮くのを止めていたらしい。

 地に降りれば、2人の身長差はおよそ10㎝。シーアが上目遣いになるのも当然。

 アドニスは慌てたように手を離した。

 

 だが、手を離されたのなら、グイっと自分から身体を寄せるのがシーアだ。

 今にも触れ合いそうな距離まで彼女は近づく。

 その様子に、思わず身体を僅かに反り返らせ、後ろに数歩。


 目の前の彼女は、ひどく面白そうに口元を吊り上げアドニスを追う。

 此方を揶揄っているのは、嫌でもわかり。

 唇を噛みしめ、アドニスは再びシーアの腕をつかみ止めた。


 「ち、近づくな!身体を密着させるな!というか、お前、む、むね……胸部が――……!!

 「えー、なあに?そもそも、話の続きはしなくて良いのかい?」


 口走りそうになった時、シーアが揶揄い零す。

 ああ、そうだった。自分は何をしているのだろう。


 シーアコイツに苦言をぶつけるつもりでいた筈なのに、彼女があまりにも自由に行動するものだから。此方を揶揄うから、つい。

 アドニスは、眉を顰めた。

 きつく歯を噛みしめ、本題に戻るべく目の前の彼女を、また一度睨む。


 「――……」


 気が付けば頭が真っ白になっていた。

 自分は何に怒り、何をぶつけるつもりであったか。

 分からない。


 その様子に気が付いてか、シーアがニタリ。


 「昨日の、夜の事だぞ?君帰って来るやいなや、激しく私をきたんじゃないか」


 「――……はぁ!?」


 思わぬ一言。アドニスは声を上げた。

 しかし彼女は止めはしない。ニタニタ笑って続ける。


 「なんで俺を邪魔したんだーって」

 「え、あ、それは……」


 さっきの一言、気のせいだろうか。何故か別の意味が混ざっていたのは。


 「ま、私からすれば、昨日からずーと、君に攻められ続けて、もう限界なんだけど?」


 いや、絶対に気のせいじゃない。

 わざと眉を寄せて、限界と言いながら無駄に艶やかな表情を浮かべるシーア。

 この場に第三者が居たら絶対に勘違いするだろう。


 何しろ、今アドニスは押し倒さん勢いでシーアの腕を掴み上げている訳だし。

 アドニスは慌てたように手を離した。

 ケタリ。彼女が小馬鹿にしたように笑う。


 「何を勘違いしているのさ。昨日、容赦なく私を撃ち殺そうとしたって、話じゃないか」

 「――……!」


 完全に、おちょくられた。

 この女は!――そう思ったのと同時、続けてシーアが言う。


 「そもそも、急だね。昨晩は大して何も言ってこなかったのに?なんで?」

 「そ、それは――……!」


 ぐうの音も出ない。

 冷静になれば確かに彼女の言う通り。

 アドニスは昨晩、特に彼女を責めたりはしなかった。


 自分を追って来たことも、任務を手伝うと彼女が飛び出していった時も。

 苦言は零したが、今日のように怒りをぶつけるまではしなかった。

 だと言うのに、今になって。一夜が明けた今になって、なぜ。


 ――……それは、昨晩は任務に集中していた手前、彼女の相手を真面にできなかった、からで。

 ――……それは、そのせいで、シーアのせいで、疲れ切っていたからで、怒る暇が無かったからで。


 「そ、それは、昨日はお前が悪い。お前のせいで俺は初めて疲労と言うものを感じたんだ!」

 「えー、なんで私のせい?」

 「お前が、あの馬鹿皇子と楽しそうに腕を組んでいたからだろう!」

 「――はあ。あれ、君へのメッセージだったんだけど。こっちが本物だよってね。それが悪いと?」

 「……それプラス、お前、無駄に綺麗に笑っていただろう!あいつに!俺には向けもしない様な笑みだ!」

 「――……営業スマイルさ!作り笑い、作り笑い!」


 シーアはケラケラ笑う。

 あの時、ジョセフに見せていた笑顔と比べると本当に大違いだ。

 この態度こそ、昨晩アドニスが疲れを感じた原因の一つだと言うのに。


 シーアは笑いながら、小さく首を傾げる。


 「いやぁ。私さ、凄い理不尽に怒られてない?」

 「はあ!?」

 「だって、『俺が疲れたのはお前のせいだー』って君、私に怒っているんだよ?理不尽にも程があるよね?もっと違う所で怒るべきじゃない?」

 「!」


 はと、気づく。

 そう言えば、自分は今何に対して憤っていると言うのか。

 彼女に腹が立ったから怒っている。――……合っているけど違う。


 昨晩は彼女のせいで生まれて初めて疲労を感じた。

 今この内容で怒りをぶつけている訳だが、違うのだ。


 彼女が勝手に仕事の邪魔をしてきた。

 ――これが、彼女にぶつけるべき正しい怒りである。


 根本的に、彼女にぶつけるべき内容が間違っているのだ。

 



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