十一 

 怒声を発していたのは、結花の父だった。その視線の先には、じんおじさんがいた。用務員室の扉の入り口で、どこか驚いた表情をして、立っていた。

 結花の父は、右手に持ったいた紙袋から、ごそごそと何かを取り出した。なにか、瓶のようなものだ。その、ガラス瓶を持つ手が、小刻みに揺れていた。目が血走っている。なにか、とんでもないことが起こる予感に、沙奈絵の体も自然と震え始めた。

 「オマエガコロシタ。ユルサナイ――」 

 低く、鉄の塊のように重い声が廊下に響いた。感情のない棒のような声だった。感情が燃え尽きて、枯れてしまったような。結花の父は、瓶の蓋を開けると、つかつかとじんおじさんの方へと歩み寄っていく。それから――。

 ああ、それから――沙奈絵の、喉から嗚咽のような声が漏れた。右手が下方から振り上げられる。スローモーションのように、瓶の中に入っていた液体が、弧を描き、じんおじさんの顔へと浴びせられた。じんおじさんは、一瞬、何が起きたか分からないというような表情を見せ、次の瞬間、細く長く伸びるような悲鳴を上げた。

 じんおじさんは、そのまま喘ぐような呻き声をあげながら、顔を押さえてその場に倒れ込むように四つん這いになった。沙奈絵は、何が起きたのかも分からず、おろおろとするばかりだった。結花の父が、逃げるようにこちらに向かってくる。沙奈絵は、びくっと体を震わせ、廊下の隅へと逃げるように移動した。ちらっと、その顔を見ると、目から涙を流していた。それは、まるで、鬼が流す血の涙のようだった。

 じんおじさんが、呻きながら、沙奈絵のほうへやってくる。ずりずりと、廊下を這うようにして。そうして、震える右手を結花の方へと伸ばしてきた。

 いや、いや、いや――。沙奈絵は、激しく首を振り、二歩、三歩と後退った。いまや、じんおじさんの顔は、醜く歪み、その一部が溶けていた。わたしも、殺される。ふいに、生まれてきたそんな恐怖感に、沙奈絵は逃げ出した。

 「どうして・・・・・・沙奈絵ちゃん」

 背後から、哀しく擦り切れたようなじんおじさんの声が聞こえた。

 どうして――。

 沙奈絵は、耳を押さえて必死に逃げていた。化学薬品で顔を焼かれたじんおじさんを見捨てて。

 ただ、怖くて、怖くて。結花のように、殺されてしまうのが怖くて。

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