第45話「バレンタイン・エチュード」

 2月14日はバレンタイン……なんて、今更口にしなくても、誰でも知ってるような当たり前のこと。

 だから今更楽しみにする日でもなくて……彼氏でもいたら別だろうけど、残念ながら私には縁のない話。

 ……とはいえ、今は友達同士や先輩後輩でチョコを渡し合うことが多い。だから、今年も先輩や友達に配る用のチョコを用意しなきゃいけないわけで__

 「バレンタイン……ですか?」

 バレンタイン前日。丁度私が所属する生徒会でも、そんな話がふと持ち上がってきた。

 「そっ、せっかくだから生徒会の子達に配ろうと思って。日々のお仕事のねぎらいも込めてね」

 私が聞き返すと、生徒会室の黒板前に座ってた会長が、ウィンクしながらそんなことを言った。

 普段は生徒会の先輩たちがいる生徒会室だけど、今日はほとんどお休み。作業してるのは私と同学年の子二人だけ。それと、監督役として顔を出してる会長だけだった。

 「えっ、もしかして手作りですか、会長!」

 と、会長の言葉に、隣で一緒に書類整理してた、一年の後藤君が食いつく。

 「会長、料理できるんですか?」

 「んー、ぼちぼちね。後藤君はあんまりチョコに縁なさそうだから、ちゃんと分けてあげるね」

 「そ……そんなことないっすよ……ははは」

 明らかに痛いところ突かれた後藤君。それに、対面に座ってた同じく一年の菱川さんがニヤニヤしながら、

 「ダメですよ、会長。本当のこと言っちゃ、流石の後藤君も傷つきますって」

 菱川さんの言葉に、後藤君が「るせっ、こう見えて超ナイーブなんだよ!」と我慢できずに反応する。その感じが可笑しくて、皆で思わず笑ってしまう。

 「じゃ、明日私もおすそ分けしてあげるね、チョコ」

 「おっ、もしかして弓削もチョコ作れんの?」

 「中学はよく部活の中で交換会やったし。こういうのは慣れっこだから」

 弓削は私の名字だ。変わった名字だったことを、中学に入ってた陸上部でよく言われてたのを思い出す。

 元々、中学は女子校だったから、友達同士で交換することが多かった。もちろん、その陸上部でも先輩とかと交換したし、それ用のチョコを作るのも習慣になってた。

 そんな私の反応に、会長も菱川さんも期待の眼差しで、

 「いいなー、弓削さん。私、気になる子にチョコ渡したことがあったんだけど、既製品ってだけでなんかガッカリされてさー。手作りチョコ作れるの羨ましい……」

 「それは相手も相手じゃない? でも、手作りなのはやっぱり強いわよー。弓削さん、もしかして意中の人でもいるの?」

 「い、いえ! いませんよ、残念ながら……」

 そういうのは残念ながら縁がない。本当は、男子に渡すべきなんだろうけど。

 ……ま、でも。とりあえず明日は配る用のチョコを用意しとこう。材料は一昨日のうちに買っておいたし、帰ったら早速取り掛かって__

 「……?」

 と、その時。生徒会室の扉を、誰かがノックした。

 会長が「どうぞー」って返事をする。そして、遅れて扉は開いて__

 「……!」

 扉から見えた姿に、私は驚いて声を出しそうになる。

 入ってきたのは、冷たい感じの無表情な子だった。濡れたみたいな黒髪に、整った顔立ち。でも、その瞳は何も映してないみたいに冷たくて、逆にそれが人を惹きつけるような魅力にもなってる気がした。

 何となく、和服が似合いそうだなって思った。いや……実際、私は彼女を初めてみたわけじゃなくて__

 「すみません、以前申請した、体育館使用の件についてなんですが」

 「ああ、演劇部のね。うん、18日は他の部活も利用しないから、普通に使えるはず」

 「……ありがとうございます。では、後で申請書類をまとめて持ってきます」

 彼女は淡々と、手短に用件を済ませる。そのまま、すぐに踵を返して__

 「失礼します」

 小さく頭を下げ、扉に手をかける。

 その一瞬、不意に……彼女の口元が、小さく言葉を紡いだ気がした。

 「__」

 「……あ」

 ほんの一瞬だけ。声にならない呟きは、誰の耳にも届かず霧散する。

 そして彼女が部屋から出ていくと、まるで息が出来るようになったみたいに、後藤君と菱川さんが口を開いた。

 「すげー。あれが演劇部のホープですか」

 「阿座上さん……だっけ確か。なんか立ち振る舞いだけでも貫禄があるっていうか……」

 確かに、あの子は立っているだけで、何かオーラを纏っているみたいだった。

 まるでピンとした緊張感が体の中心を通ってるみたいで……それにつられて、部屋全体まで張りつめたみたいだった。

 「阿座上さん、凄いわよねー。確か、元々中学から演劇をやってて、中学は……」

 と、何かを思い出したらしく、会長は私の方を見て、

 「そうだ。確か、弓削さんと同じ中学だったよね。彼女」

 「え? ええ、まぁ……」

 そう。うちの中学は演劇部がある珍しい中学で、文化祭の時とか劇を毎年開演してたのを覚えてる。

 私も……観た覚えがある。もちろん、舞台の上に立つ彼女のことも。

 「へー! じゃあ、弓削はあの阿座上と知り合いなん?」

 「それは……」

 聞いてくる後藤君に、私は何とも答えづらかった。

 阿座上紗矢……さっき、彼女は部屋を出る瞬間に何かを言った。

 その視線は間違いなく私に向いていた。そのまま、口元が紡いだ言葉は、

 「__じゃあね、裏切り者さん」

 (裏切り者か……)

 私は心の中で、溜息と一緒にそんなことを呟いた。

 次の日、私はぼーっとしながら終業のチャイムを聞いていた。

 (いかん……はりきりすぎて、ちょっと徹夜しちゃった……)

 眠気で微かに重い眠気のまま、私は鞄を手に教室を後にする。

 昨日、チョコづくりを始めた思いのほか、ハマってしまって、一度凝りだしたら色んなところが気になってしまった、その結果、予想以上に時間がかかり過ぎたわけだけど……

 (自分でも意外だったなぁ。そんな凝り性でもないはずなのに、私……)

 そんなことを考えながら廊下を出ると、丁度廊下はそのまま直帰する子や、部活に行く子、それ以前に教室掃除に足止めを食らう子とかがごちゃごちゃしていた。

 人混みを抜けながら、私は昨日と同じく生徒会室に向かう。と、思った矢先、

 「……?」

 ポケットに入れてた携帯が、短く震えた。

 取り出すとまだ画面は明るい。画面に表示されたのは、一件だけのメッセージだった。

 「……げっ」

 相手は、阿座上さん……いや、紗矢から。

 その文面は、いたってシンプルだった。

 『五時までに、部室に来て』

 その簡単な文に、私は何とも胃が重くなる。

 今は4時40分だ。行くにしても、生徒会室による前に行かないと間に合わない時間。

 (行かないと……いけない、よね)

 私は溜め息混じりに携帯をしまい、生徒会室に向いた足を諦めて演劇部の部室へ向ける。

 紗矢が所属する演劇部の部室は、私がいる校舎の4階にある。そのまま階段を上がるとすぐのはず。

 2階から3階……そしてもう一つ階を上がると、次第に人の声が遠のいてきた。

 そして、階段を上りきり、4階の廊下に足を進めると、

 「……静か」

 何故か、この階だけ人の気配がなくて、ガランとしていた。

 普段なら音楽室で軽音楽部が練習してるはずだけど、そんな大きな音も聞こえないし、そもそも自分の足音だけでも響くぐらい静かだ。

 (ほとんど休みなのかな……いや、よく知らないけど……)

 そのまま廊下をゆっくり進むけど、ガランとした廊下に、窓から見える冬空は何だか不安な気持ちにさせられる。

 演劇部の部室は、確かこじんまりとした一つだけの部屋なはず。

 階段から数歩歩くだけで、もう部屋が見えてきた。でも、

 (部室の扉が……空いてる?)

 すでに演劇部の部室は開けっ放しで、

 しかも……チラッと覗くだけで、紗矢の姿がもうそこにあった。

 「……紗矢」

 私は隠れる暇もなく、部屋の奥で待っていた紗矢の瞳に捕まる。

 対して、紗矢は冬空が広がる窓を背に、無表情な挨拶を返した。

 「いらっしゃい、千世」

 千世……多分、私が下の名前で呼ぶのは紗矢が一番多い気がする。

 千世の言葉に、あえて私は不機嫌そうに眼を伏せたまま、部屋の扉に手をかけて答える。

 「……私、この後生徒会に行かなきゃなんだけど」

 「……そう」

 でも、紗矢はほとんど無視するレベルで、小さく頷くだけだ。

 その瞳は……とても冷たかった。

 「千世」

 もう一度、私の名前を呼ぶ。私は思わずビクッとなる。構わず紗矢は、

 「私がここに呼んだ理由……分かる?」

 それは、何かを咎めるような言葉。決して何かを許さないような鋭い声音。私は目を逸らして、

 「……何のことかな」

 「……そう」

 はぐらかすような私の答えに、紗矢は納得したように窓から背中を離した。

 トントン、と部屋の中心にある机を叩く。半ば強制的なものを感じるその動作に、私は観念して部屋の中に踏みこんだ。

 パイプ椅子に座ると、紗矢は棚からカップを二つ取り出した。そしてテーブルの上に置いていたポットを手に取り、取り出したカップへ傾ける。

 湯気と一緒に昇るのは、紅茶の香り。注ぎながら、紗矢はまだ無表情を崩さない。ただ、淡々と紅茶を入れながら、

 「昔はよくこうしてお茶を飲んだものね」

 「……そうかな」

 確かに、中学時代はよく演劇部の部室に入り浸ってたっけ。私、演劇部の部員じゃなかったのに。

 注がれる紅茶を見ながら、私はあの時のことを思いだす。

 でも__それらはまるで、はるか遠い記憶のように思える。

 (少なくとも今は……あの頃とは違う)

 そんなことを考えてるうちに、紗矢はポットを置いて、鞄から何やら上品そうな赤い小箱を取り出した。

 「それは?」

 私が不思議そうに見ると、紗矢は箱の包装を丁寧に剥ぐ。

 見えたのは、同じく上品そうな白。表面には金色の文字が印刷されてる。一目で見て、高価な物だと何となく理解出来た。

 確か……昔、お父さんが会社から似たようなものを持ってきた気がする。確か、会社で配っていたバレンタインのチョコだって言って__

 「もしかして……それってチョコ?」

 「正解」

 蓋を開けると、箱の中に9つのチョコが収まっていた。それぞれ形や種類も違っていて、正方形に区切られたスペースごとに、それぞれチョコがはめ込まれている。

 「千世と一緒に食べようと思って。バレンタインでしょ? 今日は」

 「それは……そう、だけど」

 何とも言えない居心地の悪さが続く。

 このチョコ、高そうだけど、普通に食べていいのかな……

 「いいよ。食べて」

 「……!」

 私の気持ちを量ったみたいに、千世は私にチョコを勧める。

 でも……千世は人差し指を立てながら、「ただし」と断りを入れて、

 「チョコはそれぞれ一つずつ食べること。私が食べたら、次は千世。それぞれ交代してチョコを一つずつ食べるの」

 「それって……」

 いきなり出された条件に、私は戸惑いながらチョコと紗矢を見比べる。

 つまり……ゲームみたいに、お互いの番がきて、それぞれチョコを選ぶってこと、なのかな。

 何のために、そんなこと。そう……私が聞く前に、紗矢はチョコの一つを手に取った。

 「ね、千世。このチョコはね。一つだけ違う……当たりがあるの」

 「当たり……?」

 「そう。……ねえ、この中に一つだけ、毒入りのチョコが混じってるなんて言ったら、どうする?」

 その時、初めて紗矢は小さく微笑んだ。

 毒入りのチョコ。その単語に、私は一瞬だけ答えるのが遅れた。

 「……まさか」

 あり得ない、と私は言うはずだった。

 でも__紗矢の瞳が、それの言葉を飲み込ませる。

 「……始めましょう、千世」

 「……っ」

 私は断れない。

 紗矢の瞳が__冷たい刃のような視線が貫く。決して睨まれてるわけでも、怒っているわけでもないはずなのに。

 ただ……見られているだけなのに。その瞳は、相手を気圧す魔力を持っていた。

 「……」

 固まっている私を他所に、紗矢はチョコの一つを取った。

 「じゃあ、まずはお先に」

 この中に毒入りが混ざっていると宣言しながら、紗矢はまるで恐れる様子もなく、チョコを手に取る。

 角ばったボールのような、ホワイトチョコが紗矢の唇に触れる。

 それを__私が止めかける前に、紗矢は口に含んだ。

 「……さ、紗矢」

 「……んっ」

 ゴクン、と紗矢はチョコを飲み込んだようだ。

 たったそれだけ。それだけの一瞬が、ひどく長く感じる。そうして、紗矢はまた微かに笑って、

 「ハズレだったみたい。次、千世の番」

 ハズレ__いや、この場合はハズレを引かないといけないのだけど。

 要は、これはロシアンルーレットだ。当たりを引くまで終われない。そして、すぐに当たりを引いてしまえば即アウト。今回の当たりは……毒入りのチョコ。

 (……まさか)

 そんな物、あるはずがない。現実離れしすぎた話なのに、私はその一言を自分の中で飲み下せなかった。

 それはきっと、紗矢の瞳があまりにも恐ろしいから。

 そして__紗矢は、本当に私のことを怒っているだろうから。

 真実を混ぜた嘘はバレにくいように__甘いチョコの中に毒が混ざっている。それを、わずかに受けれそうになっている自分がいて__

 「……!」

 意を決して、私は手前のチョコを手に取る。

 一気に口に放り込む。広がるのはチョコの甘さと苦さ。そして__

 「……」

 「……どう、千世?」

 手が、少しだけ震える。

 それを反対の手で抑えながら、私はチョコをやっとの思いで飲み込めた。

 「……ハズレ、だった」

 私が取ったのは、毒入りのチョコじゃない。一つ目は、二人共ハズレを引いたのだ。

 「そっ、なら……また私の番」

 そう言って、紗矢は当たり前のようにゲームを続行する。

 私は迷っていた。いっそのこと、無理やり紗矢を止めて、ゲームを止めさせるべきなのかと。

 「そうそう、言い忘れてたけど」

 「……?」

 「このチョコは、ここに来る前に友達にシャッフルしてもらったから、私は当たりがどこに入ってるか分かってないよ。だから……お互い、フェアな条件ってわけ」

 この期に及んで、紗矢はそんなことを言い出した。

 ゲームの平等性なんてどうでもいい。そこでやっと理解する。紗矢はこのゲームを明らかに楽しんでいるんだ。

 私は……それが何より恐ろしい。そのせいで、止めようとしていた心が、グラグラと揺れ始めてしまった。

 (……私は)

 ただ、心を維持するだけで精いっぱいだった。

 紗矢が取った二つめのチョコ。彼女は普通に食べ終わって、次を私に勧める。

 私はもう一度チョコを選んで、今度は紗矢側のチョコを取った。さっきより甘くない、ほろ苦いチョコ。そして再び紗矢の番に回る。

 「じゃあ……次はこれね」

 紗矢はあくまでいつも通りだ。決して恐れたり、途中で躊躇したりしない。自分が仕掛けた当たりを引いてもいい風に、ゲームを楽しんでいる。

 そして__またハズレ。これで3ターン目になる。

 (……本当に当たりなんてあるの?)

 お互いハズレを引く中で、私の中にいつの間にか疑問が生まれていた。

 いや__もしかしたら油断かもしれない。毒は本当に盛られているのか。もしかしてこのまま無事にゲームを終わらせられるなんて、甘い考えが__

 「……っ」

 いや、今は考えない方がいい。そんな気がして、私は無理やり頭の中をリセットする。

 残りは4つ。その中から、ハート型のチョコを手にした時。

 「……!」

 「? どうしたの、紗矢」

 思わず、凍り付いた。私はチョコを手にしたまま固まり、その様子に紗矢は首を傾げた。

 (これ……)

 ハート形のチョコ。それは底の部分だけ平らになっていて、そのせいで余計その部分が見えてしまっていた。

 ……まるで針を通したような、小さな穴が開いてる。

 「……」

 偶然空いたのか。いや……見る限り、穴は深そうに見える。まるで中まで達してそうな、嫌な妄想が頭の中でよぎる。

 例えば……注射器。それでチョコの中に毒を通せば__

 「……? 千世?」

 紗矢の声に、ハッと我に返る。

 でも……逆に紗矢の視線が、チョコを箱に戻すのを許さない気がした。このチョコはもう、私が手に取ってしまったのだから。

 「……いや、何もないよ」

 声が、動揺に震えた。いや、何もないわけない。

でも……本当に毒なんて存在するの……?

 「千世、もしかして疑ってる?」

 「えっ?」

 また、紗矢は見透かしたように問いかける。

 彼女の瞳が、また私を射抜く。どこまでも、どこまでも私のことを見つめて、

 「信じてくれないんだ、私のこと」

 「……! そんなこと……」

 「ないって……はっきり言ってくれるの?」

 そう。彼女は確かに私のことを裁こうとしている。

 このゲームによって、彼女は、私に一つの問いを投げかけている。

 「言えないよね__だって千世は」

 紗矢が言いかける前に、私の頭の中でその言葉を思い出した。

 裏切り者__昨日、微かに呟いた、私を糾弾する紗矢の言葉__

 「……っ!」

 それを否定したいと思った時、勝手に体が動いていた。

 手にしたハートのチョコ。それを、一気に口の中に入れた。

 「……はっ」

 ガチガチに固まった口が、わずかに息を吐く。

 でも、それだけでチョコを噛むことが出来ない。それでも__

 「……!」

 瞬間、私は思わず椅子から体を引きはがす。

 そして、口の中に広がるそれに咳き込んだ。

 「はっ……がっ、ごほっ……!」

 声に叫びのまま、私は喉元を抑えながら床に倒れそうになる。

 頭が痺れる。口の中も。そして、白熱する意識の中で、ようやく私は理解する。

 「当たり……引いたね」

 目の前には、いつの間にか紗矢が立っていた。

 彼女は私を見下ろす。また、氷のような冷たい瞳のまま、私を。

 「紗……矢」

 次第に彼女の姿が滲んでくる。あぁ、泣いてるのか、私。

 当たり前だ。だって……だって……これは。

 「反省してくれた? 千世」

 「……ぁ」

 感覚がなくなった口で、私は何とか言葉を紡ぐ。

 吐き出すように、そしてビリビリした鼻の痛みに耐えながら、

 「……唐辛子」

 「……」

 「このチョコ……どんだけ唐辛子入れたの……」

 言いきると、やっと私は唐辛子の辛さに慣れてきた。

 そして紗矢はふぅっと息を吐き、さっきの表情とは真逆のニコニコ笑顔で話してきた。

 「だって、千世もう気づいてたじゃない。私が唐辛子を入れてたの。でも、そのまんま食べちゃうんだからビックリしたなぁ」

 紅茶を啜りながら、呑気に紗矢はそんなことを言う。私は我慢できずに紅茶を一気に飲み干した。

 「勘弁してほしい……紗矢、ほんとに女優なんだから、毒入りも若干信じかけたし」

 紗矢はなまじ演技力があるから、騙す時や悪戯でも本気で怖い時がある。

 そう、正直に言えば、最初からこれが紗矢の悪戯っていうことは分かっていた。元々、これは紗矢が定期的に私を付き合わせて始める、演劇のための練習だった。

 舞台設定のみで、役者がアドリブで台本のない台詞を話す、即興劇(エチュード)と呼ばれる練習。そう分かっていたけど__

 「流石に……気合入り過ぎじゃない?」

 「そう? ちょっとした即興劇の練習だよ。千世だって何度も付き合ってくれるじゃない」

 「そー……だけどさ」

 「でも、怒ってるのは本気だから」

 ずいっと紗矢は顔を寄せる。私はうっと目を逸らす。

 「……一週間前の演劇部のリハーサル、呼んだのに来てくれなかったよね?」

 それは、私にとって物凄い痛いところだ。

 呼び出された時も……下手に断れなかったのは、そもそも私が紗矢の誘いを断っていたからだった。

 「次の18日に、保護者とか外部の人を呼ぶ演劇部の公演があるからって、日曜のリハーサルで感想を聞きたかったんだけど。千世、その日……」

 「完全に寝坊してたね……ははっ」

 「……裏切り者さんには、やっぱりわさび入りのチョコは正解だったね」

 「裏切り者って酷くない!?」

 抗議の声を上げるけど、紗矢はそっぽを向く。

 「まぁ、でも。面白い演目ではあったでしょ?」

 「……紗矢、途中でフェアな話って言ってたけどさ。あれってチョコの形が違う時点でシャッフルしても意味ないでしょ。それに交代で食べるゲームにしてるのに、チョコの数を奇数にしたのはお話として詰めが甘いよ」

 私の指摘に、紗矢はあ、って間抜けな声を出した。自分では気づいてなかったのか。

 「……怖かった。チョコに穴が開いてたから、もしかしたら注射器で何か仕込んだかと……」

 「注射器!? いやいや、流石にそんな怖いことしないって。あれは私が正解忘れた時の保険で、唐辛子仕込む時は、ちゃんと型から放り込んどいたから」

 「……はぁ」

 さっきとのギャップのせいか、私は自然と溜息が漏れた。

 確かに演技力はすごいけど、基本的に抜けてるのがたまにキズだと思う。まぁ、それが紗矢の憎めない所でもあるけど__

 「はい。これ」

 「……?」

 私は、用意していたそれを紗矢に渡す。

 一応、丁寧に包装したチョコ__昨日作った中で、一番凝ったチョコ。

 「……私も、悪いと思ってたからさ。約束すっぽかしたお詫びに、ちゃんとチョコ作っていこうかなって」

 それに、紗矢は目を輝かせながら、恐る恐る受け取ってくれた。

 「おぉ……これ、去年よりも気合入ってる……!」

 「そう? でも、昨日色々考えたからさ」

 「うーん。でも、なんかここで開けるの勿体ない気がする! 家で開けよう!」

 と、早速鞄にしまう紗矢に肩透かしを食らう。ここで食べてくれないのか。

 「あー……でも、千世がちゃんとしたチョコくれたのに、私は変なチョコで何か嫌だな……」

 そんなことを律儀に心配する紗矢。別にそんなこと気にしなくていいのに。

 でも……それなら。

 「……お返しは、ホワイトデーでいいよ」

 「えっ、ホワイトデーで……?」

 「うん。せっかくだから。期待してるね、紗矢」

 ここぞとばかりに、私は紗矢を挑発する。思わぬ言葉に紗矢は驚いたのか、その後真剣に悩みながら、

 「……せっかくだから、男装でもして渡そうか?」

 「いや……そういうのはナシで」

 紗矢の男装は面白そうだけど、普通に渡してくれて構わないから。

 そんなことを言いつつも、紗矢は私のチョコを大切そうに眺めてくれた。

 「……ありがとうね、千世。ハッピーバレンタイン!」

 「いいえ、どういたしまして。……ハッピーバレンタイン」

 仲直りできたことに、内心安堵しながら私は答える。

 ……無茶な即興劇は、程々にしてほしいけどね。

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